1951フィリピン上陸戦7
ムスリム系の抵抗運動を立ち上げたアブドラー達に接触してきたのは大友と名乗る一人の日本人だった。
その頃ようやくサラワク王国の奥部から引き上げてきたアブドラー達は、首都であるクチンでスールー海に向かうための準備などを行っていたのだが、その頃に傭兵仲間の伝手を辿ってきたのだ。
その後の戦闘でスールー海で戦死してしまったが、サラワク王国奥部で発生した国境紛争に従軍していた時にアブドラーを誘った傭兵の一人が、以前からクチン周辺で傭兵達を探していたという大友と顔見知りであったようだった。
大友はアジア系ということを除いても小柄な男だった。アブドラーと違って軍歴はあるようだったが、それ以上に無闇と意気盛んな男だった。熱心にアブドラーやその仲間たちに自分達の思想を語っていたのだ。
拙いマレー語だったが、大友は汎アジア主義という概念を唱えていた。白人によって虐げられたアジア系民族の力を結集して強大な欧米列強に対抗して行こうというのだ。
汎アジア主義を実現する為に、大友はアブドラー達に支援を行うつもりだった。資金の他に、アブドラー達の組織に北ボルネオの英領に持ち込んだ船と倉庫一杯の小火器を提供するという話だったのだ。
提供されたのは、歩兵個人で携行可能な小銃や短機関銃ばかりだったが、その数は多かった。点検したアブドラーは、どうやら日本陸軍の装備更新に伴って返納された小銃が横流しされているらしいとあたりをつけていた。
先の大戦中に大量生産された一式短機関銃はともかく、九九式自動小銃の配備によって旧式化していた三八式小銃などには再整備された個体が多かったのだが、古びた小銃の中には輸出の為に菊の御紋が剥ぎ取られた跡があったからだ。
武器の数はそれで唐突に揃ったが、いくらなんでも少人数で組織を立ち上げたばかりのアブドラー達が使うにはその数は多すぎたのだが、大友の話にはまだ後があった。実際にはアブドラー達にスールー海沿岸の現地抵抗運動と接触してその武器を配り歩かせようとしていたのだ。
大友の狙いは、配られた小火器でスールー海に騒擾状態を作り出すことにあったらしいのだが、日本人である彼ではムスリムが大半のスールー海沿岸で目立たずに活動するのは難しかった。
それで同じムスリムであるアブドラー達に接触を図ったのだろうが、アジア解放の尖兵という大友の言葉にアブドラーの仲間たちはいい気になっていたのかすぐに飛びついていた。
だが、アブドラーは大友の背景に不審感を抱いていた。大友自身にアジア主義という思想に酔っている様子が伺えたからだ。あるいは本人は純粋にアジア同胞の解放と連帯という理想を考えていたのかもしれないが、対等な連携ではなく日本の優位が前提と考えている節があった。
アジアの解放といえば聞こえは良いが、そこにはいち早く近代化した日本の指導によるものという意識が見え隠れしていたのだが、裏を返せば今度は白人の代わりに日本人による支配体制を構築しようというのではないか。
尤もアブドラーの方からわざわざそんなことを指摘する気は無かった。実際には大友は使い走りに過ぎないと考えていたからだ。思想家としてはともかく、大友個人がこれだけの用意を整えられたはずはなかったからだ。
大友は自分達と変わらないぐらいの歳だった。その仕草などから元軍人であった事は間違いないだろうが、階級はそれほど高くなかっただろう。正規の軍人であったとしても、おそらく佐官にも達していなかったのではないか。
彼の背後には日本政府自体の表沙汰に出来ない組織があるのではないかと思いながらも、アブドラー達にとってこの支援が有り難いものであったのも事実だった。
アブドラー達に提供されたのは、日本製の小型船だった。日本陸軍が河川警備や上陸支援に投入していた旧式の装甲艇が北ボルネオの港に持ち込まれていたのだ。
すぐにスールー海に旅立つつもりの仲間達を抑えて、アブドラーは装甲艇の入念な整備と偽装に時間をかけていた。
書類上は旧式化による廃棄か払い下げという形になってたのであろう装甲艇は、流石に原型にあった銃塔などは撤去されていたもののそのままスールー海の田舎を航行するには目立ちすぎたのだ。
マレー半島やサラワク王国に長く在住していたアブドラーの目には、機能性を優先した近代的な装甲艇はあからさまに軍用の船にしか見えなかった。こんな現地ではありえない無骨な形状の装甲艇で米領に忍び込むのは自殺行為としか思えなかった。
偽装作業は徹底していた。一見すると貨物船か大型漁船に見えるように偽装が施されていったのだが、それは密輸船を作り上げているようなものだった。冗談などではなく、荷物である小火器は漁具庫に偽装した倉庫内に隠されて輸送されていたのだ。
銃塔が取り除かれた開口には一応軽機関銃を据え付けられるように改造を施したのだが、その開口部も普段は蓋を被せて漁具庫か船内生け簀の扉のように見せかけていた。
後から米領フィリピンの国境警備に対する杜撰な様子を確認した仲間達の中には、アブドラーの慎重な偽装作業を裏で笑うものもあったが、彼らが押し黙るようになるまでそれほど時間はかからなかった。
アブドラーは、英領北ボルネオで行われていた作業に並行して土地勘のあるものを選別して、スールー海を取り囲む様に点在する米領のスールー諸島やパラワン島に潜入させていた。武器の受け取り先を探す為だった。
小舟を使って現地のモスクや集落を回った先発が集めた情報を元に、アブドラー達は輸送先となる抵抗運動を決定していたのだが、最初は密輸紛いの武器輸送も上手く行っていた。
輸送先の状況によっては、アブドラー達自身もパラワン島などで戦闘に加入する場合もあったが、自在に機動する装甲艇を駆使すれば米軍に遅れを取ることは少なかった。
当初の予想に反して現地守備隊の戦力は手薄だった。現地に駐留する米軍は機動力と火力に優れた近代的な軍隊であるはずだったのだが、その数は少なかったからだ。
それに米軍の主力はフィリピン首都のマニラがあるルソン島周辺に集中していた。フィリピンの中で最も面積の大きいルソン島は、人口も多い重要拠点だったからだ。極端なことを言えば、マニラ周辺さえ抑えておけば米国がフィリピンから得られる利益の大半が守られるのではないか。
スールー海周辺など南部には現地人主力のフィリピン師団が駐留するのみだったのだが、広大なフィリピンの領域に対しては現地人を徴用して守備隊としても頭数は到底足りないから、ルソン島以外では都市部の治安維持で精一杯というところなのだろう。
アブドラー達が配り歩いた銃器は、前世紀末に始まった米国統治下で一旦は治まりかけていたフィリピンのルソン島を除いた治安を騒擾状態に持ち込むのに十分な量だったのだが、状況はそれ以上は進まなかった。
俄に現地の抵抗運動が発生していたのだが、そこには組織だった動きは無かった。単にこれまでの場当たり的な、極めて小規模な蜂起が繰り返されただけだったのだ。
フィリピン現地人の中にもスペイン統治時代から根強く抵抗を続ける知識人階級が含まれるはずだが、現地人としては高度な教育を受けて本来抵抗運動の指導者となるであろうものたちもマニラ周辺の都市部に居住する物が多かったのではないか。
フィリピンの騒擾状態がこれまでと違う点があるとすれば、持ち出された獲物の多くが伝統的な武器から近代的な銃器に入れ替わった位だったが、銃を与えられた現地人抵抗運動の多くはアブドラー達によって行われた短時間の射撃訓練程度の経験しかなかった。
フィリピンで米国に対する組織的な抵抗運動が終わったのは半世紀近くも前のことだったから、大規模な戦闘の経験を有する現地人はもう老人の域に達したものしかいなかったのだ。
練度不足の彼らは、銃を手にしても結局数を頼みするしかなかったのだ。アブドラー達は神出鬼没にスールー海を渡り歩いていたが、現地の武装勢力には全島を束ねる指導者は現れなかった。
所詮烏合の衆でしか無い彼らは、現地人のフィリピン師団ならばともかく、火力と機動性、そして何よりも高い練度を持つ米国の正規軍が出動してくるとひとたまりもなく叩き潰されてしまっていた。
本来で有れば、粘り強い遊撃戦でフィリピン駐留軍の戦力を減衰させていくべきなのだろうが、そのような長期的な戦略を構築できる指導者層の不足が、現地抵抗運動に単発的で無意味な戦闘を繰り返させていた。
アブドラー達が運び込んだ火器類も何度も失われていったのだが、そのうち彼ら自身にも危険が及んでいた。
スールー海での輸送を終えて一旦北ボルネオの英領に帰還した時のことだった。まだ大友から提供された武器は残されていたのだが、それが仕舞われていた倉庫に現地官憲の手が回っていたのだ。
危うい所だった。念の為に残しておいた仲間の一人が、危険を犯して入港直前のアブドラー達に合流していたのだが、その警告がなければ待ち構えていた官憲に揃って拘束されていたかもしれなかったのだ。
それにアブドラー達が拠点としていた港は封鎖されていた。密かに上陸したアブドラーは、倉庫を含む拠点が官憲によって確保されているのを確認すると街を去っていた。
スールー海沿岸の騒動は、ただ治安を悪化させたのみだったが、気が付かない間に日英米を巻き込む国際問題になっていたということを知ったのはその時だった。
大友が裏切ってトカゲのしっぽ切りにあったのではないか。アブドラー達は激高したが、そのまま手をこまねいていては彼らの崇高な理念は無視されて単なる武器密売人として収監されるだろう。
―――この落とし前はつけさせなければならない。
脳裏の片隅で冷ややかにそう考えたアブドラーは、騒ぎ立てる仲間達を一喝すると、大友から渡された資金の大半を仲間に渡してサラワク王国に潜伏させていた。
北ボルネオは英国の直轄領だったが、同じボルネオ島でも北西部沿岸に広がるサラワク王国はブルック王家が統治する独立国扱いだった。昨今は同国は日本帝国にも接近していたから、北ボルネオの英国官憲が容易に立ち入る事は出来ないはずだった。
その一方でアブドラー本人は情報を収集する為に単身日本に潜入していた。
以前勤めていたサラワク王国の農園には退職届を出していたが、万が一の為に出生時の日本人名が記載された旅券などは同国内に隠匿していた。もはや忘れかけていた谷という日本人名を取り戻したアブドラーは、念の為にマレヤ連邦、満州共和国を経由して日本に入国していた。
アブドラーにとっては久方ぶりに訪れた故郷だったが、感慨はなかった。油断ならない敵地という感覚だけが彼を襲っていたからだが、満州から帰国した大陸浪人を装いながら慎重に情報を収集していたアブドラーは、僅かな間に意外な事実に接していた。
アブドラー達に接触してきた大友という人物は実在していた。官憲が動き始めた頃には大友が姿を消していたことから、アブドラーはあの男は偽名を名乗っていたのだろうと考えていたのだが、実際には大友は本名を名乗ってアブドラー達に接触していた。
その証拠は明らかだった。大友の名前と顔写真が掲載された新聞を短時間のうちに入手していたからだった。
九九式自動小銃の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式短機関銃の設定は下記アドレスで公開中です。
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装甲艇の設定は下記アドレスで公開中です。
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