1951フィリピン上陸戦6
第二次欧州大戦中に大量建造された戦時標準規格船2型の中には、汎用貨物船ながら自衛戦闘の為に高射砲や機関銃などを装備した船も少なくなかった。実際に火砲を装備した船でなくとも、船首尾楼には元々その為の装備スペースが設けられていたのだ。
場当たり的に火砲を据え付けるのではなく、射界や弾庫などとの動線を考慮すれば事前に配置を決定しておかねばならなかったのだろう。
勿論再整備後に海外に売却された中古船からは火砲は撤去されているし、装備スペース自体もマストや居住空間などに転用されている場合が多かった。
中古船を買い付けるような船会社は、運航費用を少しでも低減させるか知恵を絞らないと利益が出ない様なところばかりだから、余計な機材を積み込む余裕はなかったのだ。
それに売却時に撤去工事が行われているとは限らなかった。中古船として取得した船会社側が使い勝手の良い様に自分たちで改造する例もあるから、銀河丸のように船首尾楼が原型から拡大されていても不自然ではなかった。
アブドラー達が一夜の寝床として与えられたのも、船橋のある中央楼ではなく煙突と一体化した船尾楼だった。
船首尾は波に揺られる度に大きく上下するから居住には適さないのだが、銀河丸には素性の異なる集団が乗り込んでいたものだから、船首楼や中央楼の居住区に乗り込んだ集団と接触を避けるためかもしれなかった。
直下の機関室から伝わってくるディーゼルエンジンのけたたましい騒音と振動には閉口したが、出航まで誰も彼もが装備の積み込みや点検などで慌ただしくしていたものだから、粗末な寝床で泥のように眠っているものも少なくなかった。
ただし、見晴らしの良い船尾楼天蓋の甲板に上がっていたアブドラーは、船尾楼の構造材と一体化するようにして注意深く隠された火砲の存在に気がついていた。
彼らが乗り込んだ銀河丸はただの商船などではなかった。各所に自衛戦闘の範疇を超えた火砲を備えた偽装戦闘艦だったのだ。
日英海軍などでは船団護衛や長距離哨戒、あるいは正規戦闘艦の不足を補うために徴用した商船に武装を施して特設巡洋艦として運用していたが、銀河丸の使い道は、むしろ通商破壊戦にドイツ海軍が投入した偽装商船に近いのではないか。
勿論便乗する身のアブドラーがその正体に気がついたところで意味はなかった。どうせ上陸前には増員された砲員が配置について正体を明らかにするのだろう。
それに異様な集団をいくつも乗船させるにはそんな胡乱げな船のほうが適しているのかもしれなかった。おそらくアブドラー達と積極的に接触する気配のない乗員達も裏稼業の人間なのだろう。
頻繁に偽装を変えているだろうこの船を次に何処か別の場所で見かけることがあったとしても、その時は銀河丸とは別の名前を名乗っているのではないか。
そんな怪しげな集団の中でも、アブドラーには自分達は正統なるムスリム独立運動という気概を持っていた。厨川少佐自身は気がついていないかもしれないが、彼の問いかけはそのような信念を揺るがそうとしていた。
不景気そうな顔になったアブドラーに向けて、厨川少佐は控えめながら笑みを浮かべていた。
「君達の……スールー海の虎と呼ばれる組織に日本人が含まれているということは以前から聞いていたんだ」
アブドラーは何も答えなかったが、厨川少佐の言葉には二重の間違いがあった。
スールー海の虎とは組織の呼び名であると共に、その指導者であるアブドラー個人を指す名でもあったが、フィリピン南西に広がる群島に囲まれたスールー海には現在は英領となっているボルネオ島の一部を含めても虎は生息していなかった。
そんな奇妙な名で呼ばれるようになったのは、スールー海で積極的に活動するムスリム系独立運動の中で指導的な立場となったアブドラーがマレー半島出身であったことから、同地に生息する獰猛な野生動物である虎の名前で呼ばれるようになっていったからだ。
その二つ名の由来が意味するように、浅黒い肌に小柄な体躯のアブドラーは周囲の者からは完全にマレー半島出身の現地マレー人だと思われていた。組織内のものでさえ幹部級の数人しかアブドラーが日本人であることは知られていなかった。
それに最近は数年前まで自分が谷と名乗る日本人であったことすら忘れかけていた。逆に日本からは手酷い裏切りを受けたという生々しい記憶がまだアブドラーの脳裏から抜け去って居なかったからだ。
オランダ領東インド総督府からアチェ王国を取り戻したムスリムの中には、それで満足せずに転戦し続けた者たちが居た。スマトラ島北端のアチェの地はスルターンの統治の下に戻されたのだが、東南アジアには未だに侵略者に虐げられたムスリム同胞が存在していたからだ。
スールー海の虎と呼ばれる組織は、その中でもボルネオ島に移動していた者たちで構成されていた。彼らの多くは独立運動を戦い抜いた歴戦の猛者だったが、同時にはぐれものの集まりでもあった。
当時のボルネオ島ではオランダ領東インドの圧政に耐えかねた原住民たちが難民化してサラワク王国に逃れていた。しかも彼らを追って国境を越えたドイツ人傭兵達の専横は同国を治めるブルック王の逆鱗に触れていた。
難民が押し寄せていたサラワク王国僻地の農園に集結した王国軍は、なけなしの機械化部隊を投入して現地人の保護と国境侵犯への対処として国境線を越えていた。
当然ジャワ島の総督府はサラワク王国を飛び越えて同国の背後に控える英国や関係の深い日本に抗議していたのだが、逆に両国からの政治介入を受けて不利な形でサラワク王国との国境紛争調停に望まなければならなかった。
両国に経済支援を受けていたオランダ本国はその間も為す術がなかったといえるだろう。どのみちサラワク王国に明け渡したボルネオ島中央部に住まう貧しい原住民達を扱き使って働かせたところで収支はつり合わなくなっていたのだ。
だが、サラワク王国に雇われていたムスリム達にとって、国境紛争はよそ者同士の戦いに過ぎなかった。それに彼らの予想に反してボルネオ島の先住民達はムスリム同胞ではなく、遅れた土着信仰のダヤク族だったのだ。
失望した彼らは北上してフィリピンに向かっていた。米国に支配されたフィリピンとボルネオ島の英領にまたがるスールー海沿岸には、ムスリム達のスールー王国が存在していたからだ。
旧支配者であるスペイン達に抵抗を続けていたスールー王国は、強力な治安部隊を投入した米国に対して実質的な主権を奪われていたのだが、現地のムスリム同胞達は根強い抵抗を続けていた。アチェを飛び出した傭兵達は彼らの手助けをしようとしていたのだ。
ボルネオ島を旅立って現地のムスリム同胞と接触した彼らは、次第にスールー海の虎と恐れられる組織に成長していった。マレー半島で育った後にサラワク王国の日本資本農園で技師として勤めていたアブドラーが彼らの仲間に加わったのはその頃だった。
最初のうちは彼らの戦いは順調に推移していた。アブドラーは元々単なる雇われ技師に過ぎなかったのだが、抵抗運動の中で指導者としての才が開花していったのではないか。
それに彼の技師としての経験も大きく役立っていた。他の抵抗運動や組織の構成員である無学な現地民では難しい鹵獲した米国製火器なども見様見真似で修理出来たからだ。
特に外部の支援で小さなものだったが揚陸艇を手に入れたのは大きな収穫だった。スールー海の群島を縦横無尽に渡り合いながら米国の現地機関などへの襲撃を繰り返す事ができたからだ。
だが、スールー海の虎が順調に抵抗運動を続けていられた背景には、一部日本人による支援があった。
アブドラーをマレー人ムスリムと勘違いしてスールー海入りを持ちかけたムスリム達は、恐ろしい事に当初は徒歩空拳で乗り込もうとしていた。無計画の極みだったが、これまではそんな強引なやり方が通用していた。
実質的には彼らは傭兵だった。本来はアチェ地方の抵抗組織にいたらしいが、サラワク王国を含む東南アジア諸国には彼らのようなムスリム傭兵を受け入れる戦場があった。
アブドラーは、無計画な彼らを思いとどまらせようとしていた。むしろ性格的には彼ら以上の血の気が多い方だったと自覚していたのだが、無謀とも言える素直さのムスリム傭兵達を見ている間に逆に慎重になっていったのだろう。
だが、よくよく彼らの話を聞いている内に戦場を影で支える支援者の姿に気がついていた。最初は東南アジアに勢力を伸ばそうとしていた共産党勢力かと思ったのだが、実際にはその可能性は低かった。
新たに独立を勝ち取った勢力はアチェ王国のようなムスリムやサラワク王国が支援するダヤク族のような民族主義者に限られていた。彼らの多くは単に虐げられた故郷や民族の独立を考えていただけで、思想を意識することは無かった。
マレー半島やオランダ領東インドでも育ちつつあった現地人知識人階級の中には共産主義にかぶれたものもいたのだが、独立を果たしたいずれの勢力でも共産党員は排除されていた。あくまで世俗的な民族主義者が政権の担い手となっていたのだ。
むしろ、その点では同胞意識で繋がったムスリム達こそがイスラム世界の統合を目指す汎ムスリム主義の担い手となるべきだとアブドラーを唆した仲間達は考えていたのだが、アチェ王国ですらスルタンは世俗的な政策を取り入れ始めていた。
実際には、ムスリム以外にもヒンドゥーや仏教徒など多数の宗教が入り乱れて判然としない東南アジアで、汎ムスリム主義が絶対的な指標となる事はなかった。
ムスリム傭兵達が故郷を飛び出したのもそれが原因だったのかもしれない。彼らは思想的に純粋なムスリムだったからだ。
よく考えてみるとサラワク王国での紛争も妙なところが多かった。
当時アブドラーが勤めていた農園では開拓用のトラクターを求めていたのだが、親会社から送られてきたのは日本陸軍で戦車回収車として運用された後に払い下げられていた二式力作車だった。
トラクターとして運用するには過剰な能力を有していた力作車だったが、紛争が勃発後に取り外されていた自衛戦闘用の銃塔を再装備されて徴用されると、オランダ領東インドに進攻するサラワク王国軍の先駆けとして投入されていたのだ。
ボルネオ島中央部は未開の森林が広がっていた。アブドラーの農園自体がその様な原生林を切り拓いて建設されていたものだから、その維持と拡大の為にトラクターが必要だったのだが、進攻路を開設するのにも土木車両が不可欠だった。
その土木車両、しかも軍用車両が都合よく国境地帯に存在していなければ、ブルック王といえども現地民保護の為に進攻しようだなどと思いつかなかったのではないか。
確かに二式力作車には最初から排土板が装備されていたから、各種接続金具を追加すれば土木作業用にも転用できる汎用性を持ち合わせていた。
日本陸軍では三式中戦車などを原型としたより大重量の三式装備が大戦末期には配備されていたから、旧式化した二式力作車自体が払い下げられた事自体は不自然ではなかった。
だが、現地の地形や植生に適したより小型のトラクターという農園からの要求を無視して、何故大柄な力作車を本国の親企業が送ってきたのかは判然としなかった。
慌ただしい紛争の行方に、二式力作車の車長として徴用されていたアブドラーもしばらくはそのことを深く考える暇はなかったのだが、紛争が大国の調停でまとまった頃に仲間に誘われてクチンに引き返した頃にはそのことを意識するようになっていた。
血気に逸る仲間達と行動を共にしながらも、アブドラーはどこか冷めた目で見ていた。威勢の良い言葉を並び立てていても彼らにあるのは行動力だけで計画性がなかったからだ。
その代わり、彼らには装備や資金を提供してくれるという当てがあったのだが、アブドラーはその男の前でも日本人ということを隠していた。彼の言うアジア主義という言葉に何処か胡散臭さを感じていたからだった。
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