1951フィリピン上陸戦3
硫黄島基地に対して行われた爆撃に関して、航空本部付の矢坂少佐は本格的な調査に乗り出していた。早い段階からその爆撃が米陸軍航空隊に所属するB-35改によって行われた事が判明していたからだ。
短時間で爆撃は終了していたが、防空能力を強化するために硫黄島基地に配備された五〇式自走高射砲によって撃墜された敵機が確認されていたし、特徴的な全翼機を見間違う可能性も低かった。
ただし、東京市内の航空本部に勤務する矢坂少佐は多忙だったから、現地に調査に赴く事は出来なかった。だから調査と言っても硫黄島基地から送られてくる断片的な情報の精査に作業は限られていたのだが、それでも会議までには多くの事実や、そこから得られた情報による推測が立てられていた
矢坂少佐は、開戦以前からB-35という機体に注目していた。単にB-35の構造や性能諸元自体に興味を抱いていたわけではない。日英露が放り投げた全翼機を米軍が実用化したという事実自体が気にかかっていたのだ。
開発時期からするとB-35の技術体系は接収された独空軍機とは関連がないと思われていた。それにソ連経由である程度の情報が流れた可能性は否定できないが、独空軍機の実機や開発陣は国際連盟軍に確保されていた。
つまり米軍は独自に全翼機という厄介極まりない形状の機体を完成させたということになるが、それは容易なことではなかったはずだった。
米ソと国際連盟側の技術力に大差は無かったから、画期的な技術が導入された可能性も低かった。あるとすれば、従来の発想になかった技術体系を作り上げていったということになるだろう。技術力自体に差がなかったとしても、研究方針が異なれば自然と完成形は異なってくるものだからだ。
どの様な手段を用いたのかは実機の残骸などを調査するしか無いが、現実に米軍に全翼機が量産されて配備されている以上、困難を乗り越えて実用化に努めたのは間違いないだろう。
矢坂少佐が気になったのはその点だった。そこまで全翼機の量産体制を整えたということは、米軍にとってはB-35はそれだけの価値がある機体ということになるが、同時に日本軍とは全翼機という技術体系に対する評価基準自体が異なるという事を意味するのではないか。
これは矢坂少佐にとって見過ごせない予想だった。現在は兵部省管轄の航空本部付だったが、矢坂少佐は元々陸軍の技術将校だったから、個々の技術開発における評価基準は重要な関心事項だったのだ。
航空廠や研究所などで直接研究開発に携わる海軍の技術将校とはことなり、運用する兵器が多岐にわたる陸軍の場合は技術将校は自らが研究者となるのではなく、技術官僚として技術開発の方針を政策として立案する立場だった。
つまり民間企業などを監督する立場であるのだが、それだけに技術に関する評価に責任を負う立場だった。技術官僚の誤りは個々の技術開発の失敗ではなく、技術開発方針を誤り、技術体系を先のない袋小路へと追いやってしまうからだ。
だが、その様な思いでB-35に関する情報を貪欲に収集する矢坂少佐に対する同僚たちの反応は冷ややかだった。彼らの多くはB-35の実用化は単に全翼機の操縦に特化して操縦士を訓練しただけではないかと考えていたのだ。
実は米軍の対応としてはそれが正しかった。彼らの手元にはB-36を除けば実用化可能な機種としてはそれしか無かったものだから、訓練中に数々の殉職者まで出してB-35やB-49を配備する他に手段がなかったのだ。
しかし、矢坂少佐にはそのような根性論にも等しい思考は、単なる技術者としての責任放棄としか考えられなかったのだ。
B-35の部隊配備に関して思考していた矢坂少佐が思いついたのはある発想だった。実現可能かどうかも分からなかった。というよりもその現実性を判断する時間も無かったのだ。
それどころか会議中に思考をまとめながら矢坂少佐は自分の発想を説明していた。
「全翼機の操縦性が劣悪であることはこれまでの飛行実験から明らかとなっています。これは機種に固有のものではなく、全翼機という飛行形態に特有のものと思われます。B-35改は、この劣悪な操縦性を電気的に補正する機構が設けられているのではないでしょうか。
現在の航空機は、操縦桿と操縦翼面を操縦索で直結して操縦士の腕力で操作しているものが大半ですが、通常形式の機体とは挙動が異なる全翼機に必要な繊細な操縦を人力のみで行うには限界があるでしょう。
その一方で前大戦時から戦闘機などでは高速時に舵面を操作するのが人力では困難であるために、現在では油圧、電動式の補助装置を搭載する機種も少なくありません。
自分は、B-35には操縦桿と各操縦翼面を実際に操作する補助装置の間に何らかの計算機能が搭載されて操縦士の操作を補佐しているのではないかと考えました」
そう矢坂少佐は自分の考えを説明していたのだが、会議出席者達の反応は鈍かった。連合艦隊参謀などは理解が追いつかなかったのか胡散臭そうな顔をしていたし、荘口中将も戸惑った顔になっていた。
だが、航空本部に出向している久慈中佐はしばらく瞑目していたものの、唐突に目を見開くと同意するように大きく頷いていた。
「その可能性……というよりも発想は否定できない。飛行形態に対応した複雑な計算機が必要となるが、我々は既に入力に対して高度な計算を自動で行って出力する装置を目前にしている」
矢坂少佐と同じ様に自信満々といった様子の久慈中佐に対して、呆れたような顔だった連合艦隊参謀も何かに気がついたのかふと目を見開いていた。
「それは……もしかして電気式計算機を搭載する四七式射撃指揮装置のことですか」
我が意を得たりとばかりに久慈中佐はうなずいていた。
「操縦装置の中に組み込むという発想は無かったが、広い意味で言えばジャイロ式の照準器や、四七式射撃指揮装置も入力に対して与えられた条件を加味した出力値を算出するという仕組みに変わりはないのではないか。
あとはそれを電気信号に変換する仕組みがあれば操縦機能に組み込むことは不可能ではないように思える。実際、四七式射撃指揮装置であれば、直接電気信号に変換して砲台の操作も可能だったはずだ。
考えてみれば、自律誘導式の爆弾や魚雷の場合は自前の判断基準で舵面を操作しているのだから、この技術体系を応用することも出来るかもしれないな……
参謀長、実際に矢坂少佐の考えが正しいかどうかはともかく、硫黄島基地で墜落したB-35改の詳細な調査は必要なのではないでしょうか。改修した残骸を硫黄島に向かう補給船の復路に乗せて返ってくることは可能だと思いますが……」
荘口中将は未だに困惑した顔になっていた。どう考えてもこれは会議の方針どころか権限を逸脱しているのではないか。
「それは不可能ではないだろうが……横須賀か所沢にでも持ち込むのかね」
「実機が独軍機の様に修理可能な状態であればそれもいいでしょうが……残骸から機体構造を解析するとなると本土よりも直接シベリアの先端技術都市に研究調査を委託したほうが良いと思われます。参謀長からその旨依頼頂けないでしょうか」
低姿勢の矢坂少佐だけではなく、久慈中佐達の期待が籠もった視線に辟易したように荘口中将は頷いていた。
「分かった。シベリア送りは小官の裁可となるよう書類を整えてくれ。それで、皆が良ければ本題に戻りたいのだがね。これで米軍側の兵装に関しては把握できたと思うが、それでは我が方の航空兵装は有効であったのか、その検証が本会議には求められているのではないか」
荘口中将が視線を連合艦隊参謀に向けると、参謀はまた苦々しい顔になっていた。
「例の噴進弾の事ですか……あれは些か中途半端であるという印象が否めませんね。機銃の射程外に射点を持ってくるという発想自体は否定しませんが、結局高角砲の射程内には踏み込んでしまいますから」
今回の戦闘に投入された対艦噴進弾は、言ってみれば対艦用の貫通爆弾に推進源となるロケットを追加した兵装だった。投下と同時にロケットに点火するが、誘導機能は無いから射点から母機が行った照準通りに直進するだけだった。
対艦噴進弾は今回の戦闘が初陣だったのだが、元々想定されていた状況とは少しばかり異なっていた。
開発当初にこの対艦噴進弾が想定されていた使用状況は、急降下爆撃だった。しかもロケットエンジンは遠距離を飛翔するためではなく、本来は弾着時の存速を上げて、貫通距離を左右する運動量を向上させる為のものだったのだ。
高高度から投弾する水平爆撃は、重力に引かれて加速するから予測不可能な外部環境に左右されて精度が低くなる一方で、弾着時に爆弾に蓄えられた運動量は極めて大きかった。
その一方で、急降下して敵艦近くで母機から爆弾を放り投げる急降下爆撃は、命中精度が高い一方で投弾高度が低いから弾着時の運動量では劣っていたのだ。
これまでは急降下爆撃による威力低下は大きな問題とはならなかった。急降下爆撃で狙う標的は、上面が脆弱な地上部隊や敵空母の飛行甲板であるとされていたからだ。
ところが、第二次欧州大戦開戦に前後して日英海軍で就役し始めていた装甲空母の存在がそのような想定を覆し始めていた。飛行甲板に分厚い装甲を施した装甲空母に対しては、急降下爆撃では貫通力が足りなくなるのではないかと考えられたのだ。
ロケット推進式の爆弾は、本来は装甲化された飛行甲板を貫通するために計画されていたものだった。急降下爆撃時の速度にロケットによる加速を加えて着弾時の運動量を増大させようとの意図だったのだ。
ところが、試作されたロケット推進爆弾の貫通力増大は僅かなものだった。急降下爆撃は標的の間近で爆弾を投弾するのだが、投弾から落着までの距離が短過ぎて、運動量を格段に向上させるだけの加速時間が得られなかったのだ。
従来よりも遠距離から投弾すれば自機の安全性と威力の増大を両立出来たかもしれないが、急降下爆撃の利点である精度は低下していたのではないか。
日本海軍の標準的な手法では高度三千メートル程から降下を開始して五百メートル程で投弾することになっていたが、降下時は照準を定める行程でもあったから極端に遠距離から投弾するのは難しかった。
それ以前に当時は艦攻と艦爆の統合が図られていた時期だったから、従来急降下爆撃で多用されていた重量しかないロケット推進爆弾を持ち込む位なら、より大重量の貫通爆弾を頑丈な機体構造に物を言わせて搭載するという方向に威力向上が向かっていたのだ。
そのままでは歴史の徒花として消え去るはずだったロケット推進爆弾だったが、意外な方面から研究開発が認められていた。第二次欧州大戦の戦訓を調査した結果、そもそも対空火力が増強されるようになった近代戦に置いては至近距離まで踏み込む急降下爆撃の危険性が高まっているとされていたのだ。
というよりも、航空攻撃自体の危険性が高まっていたというべきかもしれなかった。結局は航空雷撃にしても対空砲の射程内に踏み込まなければならなかったからだ。
結局、対艦噴進爆弾は対空砲の射程外から敵艦に放つための兵器として研究方針を改めて開発が進められていたのだが、連合艦隊参謀が言ったとおりにその方針は中途半端な形でしか実現しなかった。
五〇式自走高射砲の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/48apc.html