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1951グアム島沖陽動戦2

 ヘイル大尉達が乗り込むB-49編隊が高度を下げて海面近くまで降下したのは、日本軍が大規模な航空基地を設けている硫黄島に密かに接近するためだった。爆撃目標である硫黄島には有力な防空部隊が展開していることがこれまでの戦闘で判明していたからだ。

 目標に当たって帰ってくる電波を探知するというレーダーの作動原理を持ち出すまでもなく、目視による哨戒であっても見かけ上の水平線の下に機体を押し込められれば相手から見つかることはないからだ。



 開戦からこれまでに行われた日本本土への散発的な爆撃作戦は、日本人の街をいくつか焼き尽くした代償として、B-36を装備する第20爆撃群にも少なくない損害が発生していた。

 グアム島に駐留する爆撃集団司令部は、B-36編隊の損耗率の高さから、これ以上の爆撃強行は爆撃群の消滅を意味すると本土の航空軍に悲鳴のような報告を上げていた。


 陸軍航空隊の司令部は、これに対していくつかの対策を立案していた。勿論、それ以前から損耗した第20爆撃群に対するB-36の補充は少数ながら続行されていた。チャンスヴォート・コンヴェア社では、開戦に前後してB-36の生産体制の強化が図られていたようだ。

 だが、肝心のグアム島における航空隊受入体制は貧弱なものだった。元々大して大きな島ではないグアム島の航空基地には拡充の余裕が無かったからだ。どうしても日本本土への初撃となった50機体制から編隊の規模を大きくすることが出来なかったのだ。

 しかも、米本土西海岸からグアムまでを繋ぐ航路の中継点である占領下のハワイ王国も、占領後に進められている空港整備はまだ不十分だったから、短期間でB-36の大規模な補充を行うのは難しい状況だった。



 同時にこれまでの損害から日本軍の迎撃体制に関する評価が見直されていた。明らかに日本軍は、本土の遥か前方で迎撃線を構築して待ち構えていたからだ。

 事前にある程度予想されていたとおり、日本軍は東京から南方にマリアナ諸島まで続く小笠原諸島を前哨陣地として整備している形跡があった。B-36に電子装備を追加搭載した機体を編隊に同行させたところ、いくつかの島嶼部付近から強力な電波の発振が確認されていたのだ。

 その中でも最も有力な拠点として整備されていると思われるのが硫黄島基地だった。他の島と比べると平坦な地形が続くのか、あるいは土木量を一挙に投入したのか、大型機を複数着陸可能な広大な滑走路まで構築されていたらしい。


 おそらく日本軍は、第二次欧州大戦で発生した英国本土航空戦の戦訓を反映した本土防空体制を構築しているのだろうが、欧州大陸を離陸すればすぐにドーバー海峡を越えて本土に達する英国と比べると、日本本土は小笠原諸島に哨戒部隊を配置する事ができる分だけ余裕があると言えた。

 逆に言えば、他の島嶼部と比べても突出して有力な拠点として整備されているらしい硫黄島さえ制圧できれば、日本軍の防衛体制には大きな穴が開くはずだった。

 米軍内ではイオと俗称されている硫黄島への爆撃作戦が計画されたのはそのような事情があったからだった。つまり最新鋭のジェット爆撃機であるB-49Bは単なる露払いだった。B-49隊がこじ開けた穴を通して無防備な日本本土を主力であるB-36が叩くのだ。

 B-49Bは高速爆撃機だったが、B-36程の搭載量はないし、航続距離もグアムから日本本土には届かなかった。爆撃集団の主力はあくまでもB-36だったのだ。



 だが、米軍が本当に硫黄島の航空基地を脅威と考えているのであれば、本来であればこの小島を占領してしまえば良さそうなものだった。今の米軍にはその戦力があるはずだったからだ。

 1930年代に改正された軍縮条約において、日本海軍は米海軍に対して8割もの戦力保有が許されていた。

 第二次欧州大戦では米国は参戦せずに平時体制のままだったのだが、参戦した日本海軍も船団護衛部隊の拡充を優先して行っていたから、純粋な水上戦闘艦だけみれば、今でもこの比率は大して変わっていなかったのではないか。


 米国から見れば日本側にやや優勢というこの戦力比では国防体制に余裕は無かった。米海軍の仮想敵は太平洋の日本海軍だけではなく、大西洋の英海軍も想定されていたからだ。

 日英からすれば、米国には軍縮条約の規制外に置かれているソ連という友好国の存在があるというのだが、ソ連は基本的に陸上戦力を重視して整備しており、軍縮条約が改正された1930年代のソ連海軍は、旧帝国の遺物から米国の技術供与で建造されていた新鋭艦の整備もまだ道半ばというところだった。



 北米を囲む両洋における脅威に備える為に、米海軍は戦略的な機動力を重要視していた。決戦戦力たる戦艦までを南北米大陸の結節点に存在するパナマ運河を通過させることで、太平洋、大西洋艦隊に柔軟に戦力を割振ろうとしていたのだ。

 アイオワ級やモンタナ級戦艦の最大幅もパナマ運河を前提として設計されたらしい。現時点でパナマ運河を越えられない米戦艦は建造中の新型戦艦とモンタナ級戦艦の後期建造艦に限定されていた。


 今の所、米海軍の戦略は成功しているようにも見えていた。しかも、日本海軍は緒戦のトラック諸島への核攻撃で多くの戦艦を失っていた。沈んだ戦艦の大半は旧式戦艦だったらしいが、旧式でも戦艦の火力は無視できなかった。

 欧州に派遣された2隻を除いて、日本海軍は戦艦群を彼らの本土奥深くで温存しているらしいが、対称的に米海軍は自由に戦艦を再配置することができる環境にあった。

 実際、欧州側の戦力が東海岸に襲来してきたとしても、これを完膚なきまでに撃退できるだけの戦力が大西洋艦隊に配属されているというが、その上で太平洋艦隊に回された数は、新編されたハワイ防衛艦隊に配備された旧式戦艦群を除いても日本海軍の残存戦艦数を圧倒していた。



 だが、ミッドウェー島に将旗を掲げる太平洋艦隊はこの全戦力を前線に展開させる余裕はなく、その多くはサンディエゴ根拠地にとどまって整備と補給を受けていた。

 この戦争が大統領府と陸軍航空隊が主導する形で戦略的奇襲攻撃で開戦したものだから、米軍の大半も開戦時期を秘匿されたままで戦争準備が整いきれなかったのだ。

 それにハワイ王国を占領したとしても、ハワイ諸島が太平洋艦隊の後方拠点として機能するにはまだ時間が必要だった。人口30万の少国家に過ぎないハワイ王国の海運機能は予想以上に貧弱だったのだ。

 太平洋艦隊や陸軍航空隊はサンディエゴなどから引き抜いた兵站部隊をハワイに展開して中継点として整備を始めていたが、その機能はまだ貧弱だった。


 米軍は大規模な守備隊だけではなく、港湾部の復旧、拡充作業を行うために民間企業を含めて建設部隊もハワイ諸島に投入していたのだが、占領下で貿易が絶たれたハワイ自身を維持するためにも相当の輸送量を投入しなければならなかった。

 そもそも人口30万の島嶼部に2万名の占領軍が駐留しているのだから、ハワイ諸島の余剰生産量だけでは食料さえ尽きるのは当然のことだった。

 未だに大部分がミッドウェーを経由する太平洋横断航路の大半は、グアム島への輸送に振り向けられていた。予想外の長期戦にグアム島に展開する爆撃集団が湯水の様に物資を使用していたからだ。


 もちろんグアム島から更に先のフィリピンに向かう船もあったが、元々今のマッカーサー大統領がフィリピンに駐留していた頃から、フィリピン中核のマニラ周辺は時間をかけて要塞化工事が進められていた。

 司令部や弾薬庫なども積極的に地下化が進められていたというから、1年や2年は補給がなくとも戦い続けられるという軍の宣伝も嘘ではないのだろう。逆に言えば大規模な戦闘でもない限りはフィリピンへの輸送は後回しにしても良さそうだった。

 日本海軍の空母部隊による反撃でフィリピンの航空戦力や駐留艦隊は手痛い損害を被ったっというが、マニラ要塞自体には何の支障も出ていないようだ。フィリピン現地人の人口もハワイと比べれば格段に多いから生産力に支障はないはずだ。



 今の米軍に最も足りないのは人手ではないか。海面との距離を正確に保ちながら飛行するB-49の操縦席でヘイル大尉はそう考えていた。

 補給さえどうにかなれば大規模な編成も不可能ではない艦艇や自分達のような航空戦力ではなく、後僅かで視認できるはずの硫黄島攻略に回せる地上戦力が今の米軍には用意できなかったからこそ、自分達が反復爆撃に駆り出されているのだ。


 米国は、この戦争で開戦時期の秘匿に注力していたが、最も困難であったのは陸上戦力の移動だった。1個師団で少なくとも1万名にも達する数多くの将兵の移動を欺瞞することは、人事や補給の問題からも不可能であったからだ。

 艦艇にはそれ自体に高度な機動力があったし、出港すれば秘匿も容易だった。航空機の場合は艦艇ほど自己完結性が高くないから航空基地など地上部隊の支援が欠かせないが、整備隊の人員資機材の輸送を先行させて、開戦直前に最も目立つ航空機の移動を集中して行う事で部隊移動の痕跡を消していたようだ。


 この点を解決するために、大統領府は表向きは騒乱が続くフィリピン治安維持部隊への増派という公式発表で欺瞞することで事前の動員と兵力移動を円滑に行っていた。

 そもそも米陸軍の平時編成は極小規模で、1940年代には戦時体制に突入したカナダへの備えもあって国力からすると常備軍に余裕はなかったから、増派部隊は新たに編成するのは不自然ではなかった。

 公式発表では新たに合計3個師団がフィリピンに派遣される予定だったが、実際にはマニラ島の防衛に投入されたのは第24歩兵師団のみで、残りの2個師団は太平洋各地の占領作業に投入されていた。

 時間差を設けて移動中だった残り2個師団は、実際には投入予定地域に最短となる海域を開戦時に航行している様に計画して輸送船の航路を設定されていたのだ。



 そしてハワイ王国には州兵連隊を集成した陸軍第25歩兵師団を投入した結果、西太平洋に投入されたのは新編成の第1海兵師団となっていた。

 海兵師団は新編成とは言っても、所属する将兵には古兵も多かった。元々最大でも連隊単位で編制されていた海兵隊を師団規模で集成した部隊だったからだ。


 開戦前、海兵師団の士気は極めて高かったらしい。これまで海兵隊には幾度も廃止論争が巻き起こっていたからだ。

 大型艦を中核とした艦隊の整備を優先する海軍からは継子扱いされていたし、創設時の水兵の反乱防止任務が歴史上のものになった現在では、同様の任務も与えられた陸軍からは、海軍所属の陸上部隊という存在意義そのものを疑問視されていた。

 その一方で、法的に正規の陸軍を投入しづらい中南米への政治介入などの小規模な戦闘に幾度となく海兵隊は投入されていたから、古手の海兵は逆に陸軍の腰が重いことを揶揄する声も上がっていた。

 表向きフィリピンの治安維持目的であったとはいえ、海兵師団の編成は海兵隊念願の戦略単位となる大規模部隊編制だったから、海兵隊員の期待は大きかったのだ。


 その海兵師団が投入された西太平洋の戦域は広大だった。本来であれば開戦時に用意された3個師団全力を投入してもおかしくないのではないかと思えるほどだったから、少数のグアム島の守備隊を除いて、海兵師団はその機動性を活かして転戦することとされていた。

 実際、海軍の支援を受けて行われたトラック諸島の占領そのものは短時間で完了していた。日本海軍が西太平洋に展開する最大の海外拠点だったトラック諸島は、核攻撃で大半の部隊が無力化されていたから、占領軍である海兵師団への抵抗は微弱なものでしかなかったのだ。


 本来の計画では、返す刀で今度は海兵隊を転戦させてグアム島の北方に位置するテニアン島、サイパン島を続けて占領する予定だった。サイパン島には日本帝国が旧ドイツ領を統治する政庁が設けられていたし、テニアン島は平坦な地形から滑走路の造成が容易と考えられたからだ。

 ところが海兵師団の作戦計画は当初よりも遅れていた。トラック諸島の占領はむしろ短期間で終了したのに、その後のトラック諸島からの移動準備が整わなかったのだ。

 海兵隊員が陸軍航空隊が投下した核爆弾の副作用で怪物化したという無責任な噂まで流れていたが、ろくな戦闘も無かったのに海兵隊員に病人が増えていたのは確かだったようだ。


 結局、トラック諸島で獲得した捕虜や英仏などの民間人の監視に1個連隊規模の部隊を残して、海兵師団は健在な将兵を抽出して再編成を行っていた。不足しがちな火力はアジア艦隊に配属された戦艦群の艦砲射撃で補おうとしていたのだ。

 再編成されたこの旅団級の部隊は、テニアン島、サイパン島の上陸作戦を予定よりも大きく遅れて行っていたのだが、その結果は意外なものとなっていた。

モンタナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbmontana.html

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