1951グアム島沖陽動戦1
副操縦士のスレーター少尉が事前に計画されていた降下予定時間になったことを告げた。B-49「アロー」号の機長であるヘイル大尉は、にやりと笑いながら言った。
「本当にやらなきゃいかんのか、と聞いてくれ」
だが、無線機の前の通信士を含めて付き合いが長い乗員達は、ヘイル大尉の冗句を誰も聞いてはくれなかった。呆れた顔の乗員達を代表するようにスレーター少尉が言った。
「編隊長機、降下します」
スレーター少尉の声に緊張の色を感じながらも、ヘイル大尉は慎重に操縦桿を操作してB-49の機首を下げて飛行高度を下げていった。
ヘイル大尉の慎重な操作には理由があった。機体構造の殆どが翼で構成されている、というよりも普通の飛行機からもぎ取った翼だけで飛んでいる様な全翼機であるB-49は、飛行特性が複雑かつ繊細でおそろしく操縦が難しい機体だったからだ。
B-49の前身であるB-35から数えればもう5年近くも全翼機を操縦している編隊長やヘイル大尉はともかく、後方銃手からの報告によれば後続機の中には機首を下げただけで機体をふらつかせているものもあるらしい。
B-49が常識から外れた全翼機構造をとったのは、高速化の為だった。胴体や尾翼といった抵抗源が無くなれば、より低いエンジン出力で高速化が可能となる、筈だったのだ。
確かにB-49は米陸軍航空隊が保有する重爆撃機の中では最速の機体だった。爆撃機として比較する相手は空前の巨人機であるB-36だったが、陸海軍航空隊の共用戦闘機であるF-83/F15Cフェニックスホークよりも最高速度では勝っていたのだ。
ただし、B-49のどこが高速化に寄与しているかはヘイル大尉にはよく分からなかった。原型機であるB-35から改良されたB-49ではジェットエンジン化が図られていたからだ。
どこが胴体か主翼かは判別しづらいが、分厚い翼内にB-49は細い軸流式のジェットエンジンを8基も備えていた。プロペラが無くなったおかげで主脚は短く強くすることができたが、エンジンの間隔が狭まったせいか、あるいは流入空気量が少ないのか機関部の過熱は激しかった。
それにB-35とB-49の差異はエンジンだけでは無かった。制式量産が開始されたばかりのB-49Bでは左右主翼、ジェットエンジン搭載部の外翼側に備えられた安定板が著しく巨大化していたのだ。
折角この様に特異な形態を取ってまで空気抵抗源を省いたというのに実質的に垂直尾翼が復活したのは、純粋な全翼機形態では安定性が著しく悪かったからだ。
特にジェットエンジンを搭載した最初の型式であるB-49Aでは、エンジン後方の気流が乱れるせいなのか操縦が極めて難しく、未亡人製造機というありがたくないあだ名までつけられてしまっていたほどだ。
ヘイル大尉たちが乗り込んでいるアロー号は安定板の面積を拡大した改良型であるB-49Bだったから初期型よりもはまだ操縦性はましだったが、それでも既存形態のB-36などよりもよほど操縦は気を使わなければならなかった。
B-49の全翼機ならではの問題はそれだけでは無かった。機体の規模に対して搭載量が乏しかったのだ。胴体の無い全翼機形態である為に、常識的な形態であれば胴体内部に収められる筈の燃料、弾薬等の一切を翼内に収めなければならなかったからだ。
8基のエンジンを詰め込んだB-49の主翼はそれなりに分厚いものであったのだが、それでも搭載量を補える程の容積は到底確保出来なかった。
本来はB-32後継機としてB-36と競合試作を行っていたB-35が、戦略爆撃機としての能力に見切りをつけられて、高速の戦術爆撃機寄りに進化したB-49に改設計が行われた最大の理由はそこにあった。
主翼、というよりも最大幅で言えばB-49とB-36にはそれほど大きな差は無かったのだが、航続距離や爆弾搭載量では大きな差がついてしまっていた。おそらくB-35の性能が優れていても、B-36の代わりに戦略爆撃機として制式化されることはなかったはずだ。
ならば何故こんな操縦の難しいB-49の様な胡乱げな爆撃機を米軍は使い続けなければならないのか。高速の戦術爆撃機とはいえB-35の時点で全翼機が制式化されてある程度の数が量産されており、その実績と巨人機であるB-36の低い生産性を補うために、B-49への改良まで米陸軍航空隊は実施していた。
自問自答しながらも、ヘイル大尉には答えは既に分かっていた。今の米陸軍航空隊には、他に高価なB-36を投入するには危険性の高いこんな作戦に使えそうな重爆撃機が存在しなかったのだ。
ヘイル大尉が陸軍に入隊して最初に操縦した爆撃機は、旧式化して同じダグラス社製のB-36に更新される直前だったB-18だった。よほど縁があったのか、ヘイル大尉はそれからも今のB-49に至るまでダグラス社の爆撃機ばかりを乗り継いでいた。
単純に数えればヘイル大尉が初めて乗り込んだB-18から最新鋭のB-49までは、命名基準の番号からすれば30機種もの爆撃機が存在していたのだが、実際にはその大半は試作機以前の実験機止まりだったし、実機の製造まで至らずに基本計画段階で葬り去られた案も少なくなかった。
このように百花繚乱というよりも粗製乱造というべきかもしれない開発計画の数ばかりが並べられたのは、民間企業への受注が殆ど無秩序に行われていたせいだった。
その切っ掛けとなっていたのは、1930年代半ばに発生したボーイング社の倒産にあったらしい。米国有数の民間航空機製造会社であったボーイング社は、B-18の競合試作機であったYB-17を提案していたのだが、性能面では優越していたもののB-18と比べると高価過ぎて不採用になっていた。
しかも、同時期は民間旅客機分野もB-18の開発元であるダグラス社のシェアが高く、軍民問わない不振もあってボーイング社は倒産してしまったのだが、重爆撃機を製造できる業者は米国内でも数少なかった。
それに、民間航空の需要も北米大陸内に収まっていた米国系航空会社の空路拡大には限界があったことから、特に大型爆撃機の製造技術に転用できる長距離旅客機の必要数は少なかった。
米国系の航空業者は、英国系などが席巻していたユーラシア大陸の東西を結ぶ国際航路から締め出されていたから、北米以外となると南米向けの航路があるくらいだったが、元々資本力に乏しい南米各国と北米をつなぐ国際航路の需要は少なかった。
こうして数少ない軍需を巡って各社の競争が激化していたのはある意味で当然のことだったし、ボーイング社の倒産以後は生き残りをかけて企業間の合併が行われることも少なくなかった。B-49を製造しているダグラス社もいくつかの新興メーカーを吸収していたはずだった。
だが、平等を重んじる米国では爆撃機でも競合試作を行う計画が多かったが、そこには大型機を生産できる大手だけでは無く、中小のメーカーが応募してくることも珍しくなかった。
米軍、というよりも政府の一部でも、これから発展していくであろう航空産業の裾野が狭まる事に危機感を抱いていたようだ。それで中小メーカーからの提案に対してもある程度の予算を算出するようになっていたのだろう。
そして、これも米国人らしいといえばそうなのかもしれないが、黎明期を迎えた航空産業に参入した中小のメーカーは、その多くが独立独歩の精神を維持して大手メーカーへの吸収を良しとしなかった。
第一次欧州大戦に参戦せずに、軍用機の大量生産体制とは縁のなかった米国においては、航空機とは未だに冒険家が操る代物という意識をもつ市民が少なくなかった。
そのような環境が良く言えば革新的で、多くの場合は単に常識から外れただけで実用性の低い機体を少数生産する中小メーカーの乱立を許していたのかもしれない。
異様な形態の全翼機であるB-35も、大手メーカーであるダグラス社が開発したものではあったが、実は社内に存在する新進気鋭の設計グループが提案した革新的な機体、であったらしい。
それが他の中小メーカーが提案した試作機と違って、実用化の域まで達するほどの改良点を折り込むことができたのは、紛いなりにも米国最大手の一角であるダグラス社の技術力と資本力、そして発注者である米軍からの大手メーカーへの信頼があった為だ。
それに実質的には特殊な実験機扱いだったB-35はともかく、B-49は戦争勃発で生産数の追加が急遽求められているらしいが、大型の旅客機を次々と生産する体力があるダグラス社や、巨人機であるB-36をも生産するチャンスヴォート・コンヴェア社だからこそ生産数の拡大に応じる余地があったのだ。
裏を返せば、中小メーカーでは仮に制式採用されたとしても、軍が要求する数を安定して生産する能力があるかは未知数だった。実際に練習機などの補助的な機体を採用されたメーカーのなかには不良品や納入遅れが目立った例もあったらしい。
これまで大量生産が前提の軍用機の生産に関与していなかったようなメーカーでは、手間暇をかけて実験機や試作機を製造することは可能であっても、工員による手作業が多いから量産能力は無かったのだ。
資金力の裏付けのない中小メーカーでは、大手メーカーの様に特定機種を量産するために専用治具や工作機械を準備して生産時の工数や効率を向上させる余裕が無かったとも言えた。
政府としては、本来は軍用機の試作を通じて中小メーカーに体力と技術力をつけさせようと思っていたのかもしれないが、実際には機種の番号ばかりが継ぎ足されただけで、結局は実用化の域に達した機体は少数の大手メーカー製ばかりだった。
それで開戦を迎えた今でも、使い勝手の良い中型爆撃機の様な地に足のついた機体の代わりに、ヘイル大尉達は何処か胡乱げなB-49を使う羽目になっていたのだ。
そもそもなんとか形になってきていたB-35に対してジェット化を行うB-49とする事で更に実用化を遅らせたのは、日英がいち早く完全ジェットの高速爆撃機を制式化していたことに陸軍航空隊が焦りを感じていたからだろう。
B-36も両翼のエンジンをジェット化した機体が開発中らしいが、B-49を最初に配備が開始されたヘイル大尉達の第21爆撃群でも、開戦時はまだ最新鋭機であるB-49Bの練成段階にあったのだ。
―――つまり、俺達のこの苦労もさっさと中小メーカーを潰させずに意味なく延命を計っていた役人共のせいということになるのか……
とりとめのない思考を頭の片隅で行いながらも、ヘイル大尉は操縦桿を操る手を止めることはなかった。
無骨な顔立ちからは意外な程に繊細なヘイル大尉の指は、慎重にそして小刻みに操縦桿を操作していた。ヘイル大尉のアロー号は、既に海面近くにまで達していたから、爆弾を抱えた今は80トン近い重量があるB-49の機体は、僅かな操作ミスで海面に衝突してしまうはずだった。
もし爆弾倉内に納められた爆弾が誘爆すれば、自機だけではなく後続機まで巻き込んで編隊がまるごと消滅するかもしれなかった。
だが、ヘイル大尉の目前を飛行していた筈の編隊長機はその姿が見えなくなっていた。その代わりにB-49が8基も装備するジェットエンジンの高温高圧の排気が海面近くで吹き出されていることによって生じた水煙が発生していた。
ヘイル大尉のアロー号も相当高度を落としている筈だったが、B-35が試作機だった頃から乗り込んで全翼機の挙動を知り尽くしている編隊長の方が一枚上手だった。
舌打ちをしながらヘイル大尉も更に高度を下げようとしたが、後続機がもたついているのか操縦士に度胸がないのか、自分達より高度が大分高いことを後方銃手が報告すると、ため息を付きながら操縦桿を元に戻していた。
どのみち編隊が察知を避けるには、編隊全機が高度を下げないとあまり意味はなかったのだが、この分では日本軍は早々にこちらを探知するかもしれなかった。
同時に副操縦士席から聞こえてきたスレーター少尉が出した安堵のため息に関しては、ヘイル大尉は聞こえなかったことにしていた。
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