1951謀略、呉―マラッカ―キール10
積極的な姿勢でもってフランスが対米宣戦布告へと踏み切ったという報道は、世界中の多くのものに驚きの声を上げさせていた。それは同時期にあった英国の参戦が当然と捉えられていたのとは対照的だった。
元々フランスは欧州諸国の中では比較的世論は親米的であったのだが、それ以上に第二次欧州大戦終結後も国内の政治的混乱が治まる気配が見えなかったから、フランス当局が主体性を持って一貫した外交を行えるとは考えられていなかったのだ。
フランスの国内政治が混乱していたのは、戦時中に政治的にも軍事的にも分裂していたからだ。
本土は一部をドイツに占領されながらも、ペタン元帥率いるヴィシー政権が講和後にドイツ寄りの中立政策をとることで国土を維持しており、後にはドイツ側で参戦しつつも終戦まで本土の大部分で統治を行っていた。
これに対して、ドイツ降伏を良しとしなかった一部の軍人達は英国などに脱出して自由フランスを結成して国際連盟軍の一翼を担っていた。
混乱した本土から脱出したフランス正規軍の数は当初ささやかなものでしかなかったのだが、欧州から遠く離れた海外領土などを奪還する中で自由フランスは一大勢力に成長していった。
特に東南アジアの植民地から独立を担保に徴用した兵士からなる極東師団は、重火力などを補う為に日本軍砲兵隊などが配属されつつも、独自で軍団級の戦力を展開出来る程の数を確保していたのだ。
この大戦力を背景として国際連盟軍内部での自由フランスの発言力は大きくなっており、フランス南部への上陸作戦が決行されたのも自由フランス側の強い要請があったからだという噂もあった程だ。
フランス国内における戦後の立場という意味では、国際連盟に与した自由フランスが勝者になっているといって良かったはずだが、正統性では怪しいものがあった。
やはり戦禍を浴びつつも大戦中最後まで本土を統治していたのはヴィシー政権であったし、実務を取り仕切る官僚の多くは同政権下にとどまっていたからだ。
軍事的にも、ドイツ側で参戦した後に急速に戦力を再整備していたヴィシー政権軍の戦力も侮りがたいものがあり、フランス本土南部に上陸した自由フランス軍は、ドイツ講和までの間に決定的な戦果を上げることが出来なかった。
戦後はヴィシー政権中核で主導的な立場にあった政治家こそ排除されたものの、本土の行政機関は末端になればなるほど大きな改変を受けることなくヴィシー政権当時のままで残されていた。
軍隊も完全な統合を行う訳にはいかなかった。旧植民地から徴用された兵力を除くと、自由フランスの純粋な兵力は本土に残された部隊より劣勢だったからだ。フランス軍が再編制される中で、旧自由フランス系部隊と旧ヴィシー政権軍のいがみ合いは日常的なことだったようだ。
自由フランスの政治家たちも、ヴィシー政権が先の第一次欧州大戦の英雄であるペタン元帥を引っ張り出していたのに対して、自由フランスは指導者が辛うじてドイツ降伏時の政権にあって末席の次官に就任していたに過ぎなかったのだから、卓越した指導力は期待出来なかったようだ。
しかも、厄介なことにこの2大勢力に加えて戦時中のフランス本土では一般市民による抵抗運動も盛んだった。
抵抗運動といってもその組織力は行動内容は千差万別だった。知識人を中核に、収集した確度の高い情報を国際連盟軍の首領である英国に流す組織もあれば、山に籠もって遊撃戦を行うと言えば聞こえはいいが、実際には時たま政府軍やドイツ軍の輜重部隊を襲撃する野盗と変わらないような集団までいたのだ。
戦後はまとまりのない抵抗運動は解散していたが、共産党系の様に弾圧を受けたものもあったし、抵抗運動への参加を契機に政治の世界に打って出るものもいた。
このようにそれぞれの思惑を抱えて動く混沌としたフランスの世論が、対米宣戦布告という路線に統一されていったのは、ある報道が切っ掛けになっていた。
その記事は、ナポレオンという名のフランス系通信社の記者が米国による核攻撃が行われたトラック諸島で死亡したというものだった。
核攻撃によって発生するという後遺症で死亡したその記者は、その名を持つフランス皇帝だった男の子孫だった。しかもベルギーに亡命したボナパルト家の家長でもあったのだ。
当代のナポレオンが米軍の爆撃を受けたトラック諸島に在島していたのには、些か複雑な理由があった。
元々、一族が亡命した先のベルギーで産まれたナポレオンは、皇帝の復活を恐れるフランス当局によって入国を拒否されていたのだが、第二次欧州大戦が勃発した後に更に対仏戦が始まる中で、ベルギーから英国に脱出してどさくさに紛れて自由フランスに身を投じていたのだ。
その後、知名度を生かしたのか自由フランス軍による海外領土解放などに関わっていたらしいが、終戦後に自由フランス中核とともに大陸に帰還した当代のナポレオンがフランス本土に留まっていた時間はさほど長くはなかったようだ。
ナポレオン本人は祖先の地に戻る意志を有していたようだが、終戦直後の複雑怪奇なフランス本土の情勢がそれを許さなかった。単にナポレオンの名が帝政復活に利用されるというよりも、無秩序な国内の政治情勢にナポレオンの名が放り込まれると何が起こるか誰にも予想できなかったからだろう。
むしろ彼にとって支持者である帝政主義者から厄介な国内情勢を諭されたナポレオンは、自由フランス時代の伝手を頼って入社したフランス系通信社の海外特派員として海外領土に派遣されていたらしい。
しばらくは大した出来事が起こることもない太平洋のフランス領土で気楽な記者人生を送っていた当代のナポレオンは、近隣のトラック諸島で行われる日本海軍の大演習を取材する為に、同島に派遣されて開戦を迎えていた。
皮肉な事に、そのフランス系通信社が開戦前に出していたトラック諸島から発信された当初の記事は、日本海軍の演習は政治的な緊張を周辺にもたらすのではないかという批判的な論調だった。
確かにその演習は、政治的な意向が強く働いていた。米国への抑止力の誇示や、欧州などへの兵器輸出のパフォーマンスを兼ねていたようだからだ。
本土と目と花の先にある中欧、東欧諸国に対しては、むしろ戦前はフランスの方が兵器輸出を行っていたから、疲弊したフランスの代わりに日本が積極的に兵器輸出に乗り出していることに苛立たしい思いを抱くフランス人は多かったのかもしれない。
それにかつての植民地だった東南アジア諸国も、旧宗主国であるフランスよりも近隣の日本帝国と関係を深くするものも多く、自由フランスの勝手な判断で植民地を失ったと公言するものも少なくないフランス本土の世論とはかけ離れていたようだ。
ところが、米国による開戦奇襲攻撃でそのようなフランスの思惑も全てが吹き飛んでいた。開戦当初は全ての報道が途絶えていたのだが、すぐに米軍占領下にあるハワイを経由して、フランス系通信社の現地からの報道が再開されていた。
ナポレオン記者の記事は、自らも爆撃の瞬間に立ち会ったというのに冷静で正確なものだった。ハワイを経由する間に米国の検閲を受けたのかもしれないが、記事自体に疑問の余地はなかった。
記事は、爆撃の凄まじさと日本海軍の現地部隊が壊滅的な損害を被ったことを淡々と告げていた。態々中立的なフランス系通信社に便宜を図った米国の思惑は、正確な損害を中立国を通じて発信することで講和を促す事にあったのだろう。
だがナポレオン記者の記事はそれで終わらなかった。爆撃直後からトラック諸島の先住民や自分達報道関係者、更には上陸してきた米兵に至るまで正体不明の体調不良を訴えるものが増えていたことを伝えていたのだ。
単に爆撃による損害だけが原因だとは思えなかった。記者自身も爆撃があった時間は、爆心地からは島影に隠れた反対側にいたから、爆風などの直接の被害は受けなかったからだ。
米軍が爆撃したのは、トラック諸島中央部の艦隊泊地として使用されている海域だった。そのために主要島の中でも泊地に面した沿岸で核爆弾が炸裂した際の爆風を至近距離で浴びたものは熱傷などで即死したようだが、反対側では地形に遮られて爆風の被害は抑えられていたのだ。
爆撃によって生じた塵が加わった為か、妙に黒い大雨が爆撃からしばらくして降っていた。そしてその大雨に紛れるようにして上陸した米軍によってトラック諸島は易々と占領されていた。
しかし、それからしばらくして直接核攻撃を受けなかったはずの者たちが体調不良を訴え始めていた。火傷や爆風で怪我をおったものばかりではなく、吐血や脱毛といった奇妙な外傷が急に出たものがいたのだ。
患者に立場の違いはなかった。捕虜となった日本軍人、トラック諸島の先住民、ナポレオンの様に招待された外国人、そして占領軍の米国軍人も例外はなかったようだ。
その段階でもナポレオン記者の記事は冷静だった。淡々と自分を含めた患者たちの症状の悪化を知らせる記事を最後に、トラック諸島からの彼の記事は途絶えていた。
同時期、赤十字を通じた日本軍捕虜のリストがあまりに少数であったことから、占領軍による組織的な虐殺の疑いが出ていた。壊滅したという艦隊に勤務していた乗組員達はともかく、トラック諸島に分散する地上部隊や軍属の生存者が少なすぎたのだ。
米国は当然否定していたが、その説明を信じるものは少なかった。トラック諸島で炸裂した核攻撃の威力が大きく、艦隊のみならずトラック諸島周辺まで一掃していたというのだ。
しかし、しばらくしてから日本側から公表されたいくつかの科学的な情報が、トラック諸島で生じた付随的な損害を裏付ける結果となっていた。日本側が公表したのは、核爆弾の直接的な威力などではなく、放射線障害の詳しい資料だったからだ。
以前から科学界では放射線の継続的な被爆によって特定の障害が発生することが知られていたが、これが一般的に知られることはなかった。結局は限られた先端医療や実験室内の現象でしかなかったからだが、米軍による核攻撃はこれを初めて現実に適用した、と言えるのではないか。
日英露が科学的な実験の結果発生したものとして急性放射線障害の実情を発表し、おそらくはトラック諸島では同様の事態が発生していると思われるというニュースは大きな衝撃を与えたが、フランス国内ではそれよりもナポレオン記者が死亡したという報道のほうが扱いは大きかった。
前後の状況からして、当代のナポレオンが死亡した原因は米軍の核攻撃の付随効果である放射線障害と思われていたのだが、ナポレオン記者の死亡に対する日米の取り扱いは対照的なものだった。
というよりも、米国は基本的にナポレオンの名には触れなかった。共和制を自ら選択したフランス国内においてかつての皇帝の名前は慎重な取り扱いを受けていたことを知っていたからだろう。
むしろ近代民主主義の先駆者との自負を持つ米国からすれば、帝政は唾棄すべき政治体制と考えるものも多いのではないか。
結果的に米国は中立国の記者が死亡したことには哀悼の意思を表じたものの、最終的な責任は紛争地帯に記者を派遣した通信社にあると具体例をあげずに表明したのだった。
これに対して日本側の反応もある意味でかの国らしく無かった。帝政主義者や共和主義者の対立には一切触れなかったものの、日本の国防大臣が自由フランスの一員として国際連盟軍の戦友であったナポレオン氏の死を悼むという談話を即座に流していたのだった。
そして、ナポレオンが死亡したことを知った後のフランスの反応は、米国にとっては予想外のものだったのだろう。フランス国内の世論は一挙に激高し、対米宣戦布告へとつながっていたからだった。