1951謀略、呉―マラッカ―キール9
平時編制として考えると現在のドイツ連邦軍は国力、というよりも人口に比して過剰であるとシュナイダー少尉は考えていたのだが、実際にそのような内容を指摘する声は政府内からはほとんど出ていなかった。
アデナウアー政権の内部では軍出身者の発言力が大きいというが、下級士官でしか無いシュナイダー少尉には国家の上層部のことは伺いしれなかった。
おそらくは、大戦で疲弊した欧州諸国や国際連盟からするとそれなりに強力なドイツ軍がソ連からの防波堤として必要不可欠であるという国際情勢が後ろ盾となって、軍関係者の権限を拡大していたからだろう。
そしてナチス政権がもたらした劣悪な対外関係の改善を目指すには、連邦共和国政府は諸外国の目を伺うしかないのだ。
だが、そのような見方とは矛盾するようだが、ドイツ連邦軍が守るべきドイツ人の数は多かった。ドイツ本土の南西部に押し込まれたドイツ連邦共和国は、国土面積に対して過剰な人口を抱えていたからだ。
理由はいくつかあった。
第二次欧州大戦の末期に行われた組織的な疎開は、ドイツ北東部の人口を爆撃を受けてもまだ健在だったドイツ国鉄の多大な輸送力を利用して短時間のうちに南西部に運び込んでいたのだ。
これにより戦時中既に南西部の人口は飽和していたのだが、戦後も「ドイツ人」の数は増え続けていた。周辺諸国が開戦前からその国の国籍を有していたドイツ系住民の集団追放を行っていたからだ。
追放政策を行っていたのは、ソ連影響下に置かれたポーランドの様にソ連占領地帯にドイツ人を送り込む共産圏国家ばかりではなかった。国際連盟に復帰したベルギーやチェコ、フランス領と再度確定されたアルザス地方等からも続々と民族ドイツ人がドイツに送り込まれていたのだ。
日英等の国際連盟加盟の第三国は、再び欧州の防壁扱いとなったドイツの弱体化を招きかねない追放政策を消極的に批判していたのだが、周辺諸国は全く取り合う気はなかった。
彼らには明確な理由があった。大戦中に民族ドイツ人の多くがドイツ軍の一翼を担っていた武装親衛隊に外国人義勇兵として参加していたことも理由の一つだったが、実際には占領中にドイツ軍に協力していたことだけが理由ではなかった。
それよりも周辺諸国の政府が危惧していたのは、民族ドイツ人の多くがドイツ侵攻時から積極的にドイツ軍に協力していたからだ。急座の道案内どころか、組織的に銃火器を手にして正規軍への襲撃を行っていたものもいたから、事前にドイツ軍から接触があったのは明らかだった。
緒戦におけるドイツ軍の快進撃には周辺諸国の地勢に通じたドイツ系住民の協力が必要不可欠だったのだろうが、結局民族ドイツ人は移住先に溶け込むことなくドイツ人の手先となるという実例を作ってしまっていた。
それどころか民族ドイツ人の居住を理由にドイツ人が侵攻してきたという認識を周辺諸国政府は有していたのだから、多少の人口減があったところでドイツ人を国民として受け入れることは出来なかったのだ。
自業自得とも言える理由から増大した戦後ドイツの人口は、明らかに減少した国土面積に対して過剰だった。
当然近隣諸国への移民も不可能だったドイツは、国際連盟に泣きついて敵対勢力である米ソなどを除いた諸外国への組織的な移住を行っていたのだが、それは実質的な棄民であり、この流れを利用して戦犯に指定されたものが国外逃亡する例も多かった。
こうした組織的かつ拙速に行われた集団移住も根本的な対策とはならなかった。船便で送り出される移民の数より、手に持てるだけの財産を抱えて陸路を追放される難民の数のほうが多いのは当然だったからだ。
過剰な人口は、ドイツ国内の産業を崩壊させていた。ある意味で職も家族も失った元兵士達は軍にすがりつくしかなかったのかもしれないが、軍の規模を維持して欧州の最前線となる事で国際連盟から支援を受けていた今の政府には、何の生産にも寄与しない軍の存在は皮肉なことに欠かせないものだった。
ドイツ国内における産業の崩壊は、正確には大戦中からすでに始まっていたとも言えた。
当時英国空軍による絶え間ない夜間戦略爆撃を受けていたドイツは、国内に点在する工場を結ぶネットワークを構築することで爆撃で生じる損害の極限を図っていたのだが、本来は一箇所で生じた損害を分散させる高度なネットワークが、皮肉にも特定の工場単体での生産を阻害していたのだ。
このネットワーク網は、例えば戦車を生産する場合、エンジン、車体、履帯といった各部品をそれぞれ専門化した工場で生産し、最終的な組立工場に移送して完成させることを目的としていた。
同格車両で共通化された転輪を生産する工場などは複数あった上に、新規生産車両分の割当だけではなく前線で消耗する分も生産していたから、一箇所の工場が破壊されたとしても別の工場で生産された部品を使用することで柔軟に最終生産品の製造が可能となるはずだった。
ところが、先の大戦終盤では生産現場である各工場ではなく、それらを結ぶネットワーク網自体が機能しなくなったことで、ドイツ全土の製造ラインが無力化されていた。
戦時中は操車場や鉄橋など鉄道網のボトルネックとなる箇所に対する国際連盟軍による爆撃なども受けていたのが、それよりも終戦間際において行われた大規模疎開にドイツ国鉄が全力を上げたことが、皮肉なことにドイツ工業界にとどめを刺していたのではないか。
ドイツ北東部を占領したソ連軍も、無駄に積み上げられた部品の山を見て困惑したのだろうが、南西部に疎開したドイツ連邦共和国内でも、輸送網が崩壊していたにも関わらず生産中止命令が出されなかったことで、完成品を作り上げることが出来なくなった工場があふれていたらしい。
つまりドイツ国内で終戦時に工場に残されていたのは、エンジンの無い首無し戦闘機や、取り付ける先のない履帯の山といった半完成品や部品ばかりだったのだ。
だがドイツ連邦共和国の増えすぎた人口が求めていたのは、当座意味のない機械部品を作り上げる工場ではなく、多くの市民を収容できる住居であり、明日の食料を生産する農業地だった。
場当たり的に工場群は廃止されていった。使いみちのない工作機械は強引に搬出されて雨ざらしにされるか、フランスなど戦時中ドイツの占領下に置かれた国に賠償代わりに引き渡されていった
巨大な工場の建屋だけが残された場所は、最低限の居住に必要な機材を運び込んで奇妙な集団住宅となり、油臭いと文句を言われながらも避難民達の収容所に転用されていた。
更には工業用地から農地への転用という近代においては稀に見るような事態まで発生していた。
ただし、ある程度の指導はあったかもしれないが、素人の避難民たちが半ば勝手に開墾した畑だから家庭菜園に毛の生えた程度でしかないし、急座の食糧確保の為に促成栽培可能な品種ばかり選ばれたものだから、畑作面積あたりの生産性はさほど良くなかった。
むしろアジアからもたらされたという、防空壕跡を利用した大豆の発芽によるスプラウト野菜の方がまだ不要地を再利用できる分だけましだったかもしれない。白く細長い野菜は短期間で収穫できる上に調理法によればキャベツにも似たものになる、らしいからだ。
このモヤシやら満州から大量に送られていた高粱などで食いつなぐ惨めさは言いようがなかったが、同時に工場の消滅でシュナイダー少尉も将来の就職先を失っていた。
代々仕立て屋を営んでいたシュナイダー少尉の父は、混沌とした時代ではこれまでの商売は成り立たなくなると考えて、高射砲隊から帰ってきた息子に高度教育を受けさせていたのだが、実際にはまともな就職先は軍しかなかったのだ。
劣悪な環境は大して変わらないながらもドイツ本土が混乱期から脱しつつあるなか、シュナイダー少尉が何とか士官として潜り込んだドイツ軍内部には、ある意見が流れるようになっていた。
大量の避難民や民族ドイツ人の住まう土地を守り、確保する為に、ソ連に占領された土地の回復を目指すべきというのだ。もしかすると軍の中でも世論を意識したものがいたのかもしれない。避難民達は軍から漏れ出た強硬な意見に賛成していたからだ。
再編制によって重装備の配備が進んだ今、大戦中では望むべくもなかった十個もの機甲師団相当の部隊があれば、ドイツ連邦軍単体でも限定攻勢は不可能ではないと考えられていた。大戦中の被害が大きかったためか、北ドイツに駐留するソ連軍の規模は縮小しつつあるとの観測がされていたからだ。
ポーランド国境までの全国土の完全奪還となれば難しいかもしれないが、ベルリンから伸びてハンブルクにまで食い込んだソ連軍占領地北西部の突出部を切り取ることは不可能では無かったかもしれない。
だが、更に昨年末になって状況は大きく変化していた。言うまでもなく日本と米国が戦争状態に突入したことだった。しかも、戦争は米国による新兵器、核分裂爆弾を投入した奇襲攻撃というこれまでの戦争とは全く異なる状況で始まっていた。
ようやく戦災からの復興に手を付け始めた多くのドイツ国民にとって、太平洋という地球の反対側が舞台となる戦争は関心の埒外にあった。中には大戦中にドイツを打ち負かした日本帝国の不幸を喜ぶ声もあったが、流石にそのような不謹慎な意見は多くはなかった。
勿論、軍内部は一般市民よりもこの戦争に関心をいだいていた。日本帝国がどうかという問題よりも、米国の友好国であるソ連にどのような影響を及ぼすのかという自分たちの目の前の状況がどう変化するかに注目していたのだ。
先の大戦時において、特にその後半にソ連が国力を無視した快進撃を継続することが出来たのは、背景に彼らの友好国である米国から物資供与があったからだった。
むしろ米国の支援さえなければ、先の大戦でもソ連の侵攻を食い止めることは不可能ではなかったはずだ。終戦後に開示されていた情報などからそう考えるドイツ軍人は多かった。
だから米国が対日戦争に掛り切りになるのだとすれば、ドイツにとっては都合の良い状況になるということもあり得た。
同時に日本側も欧州に関与する余力を失うということも意味するのだが、現在のドイツ連邦軍の支援は主に英国から行われていたし、装備も近隣の英国製が採用される例が多かったから、ドイツ連邦軍への影響は最小限にとどまると考えていたようだ。
軍内部の一部では、首都フランクフルト方面とシュレスヴィヒ方面に駐留する部隊を時間差をかけて動かすことで駐留ソ連軍を混乱させてハンブルク、ベルリン線の寸断を狙うという作戦計画が立案されているという噂もあった。
国内の不満を反映した極右組織なども関与しているという話もあったが、機能が限定された参謀本部がそんな複数の師団を同時に動かす大規模作戦の計画を正規に立案したとは思えないのも事実だった。
もしかすると、軍が密かに資金を提供しているという元将軍達を集めた研究グループが基本計画を作成したのかもしれない。
ほぼ同時期に戦時中の手記を出版した将軍達だったが、それだけでは生計が立てられなかった。続編が出せる程文筆業に性が出せるほど余力のあるものはいなかったからだ。
マンシュタイン元帥のように将軍たちを代表するように戦犯として投獄されたものは少なかったが、むしろ要人待遇で英国内の刑務所に投獄されていた方が衣食住が揃っている分ましかもしれない。
将軍や高級将校のなかには伝統的なユンカー出身のものも多かったが、おもにドイツ北東部のプロイセン出身者ばかりだったから、家屋敷を失った避難民達と状況は変わらなかったはずだ。
例の研究グループとはそうした元将軍たち最低限の生活をさせるための捨扶持を与えるものと考えるものは多かったのだが、実際には政府の諮問機関、あるいは隠された参謀本部として機能している可能性は否定できなかった。
ところが、開戦からしばらくして更に状況は変化していた。米国が宣戦布告していたのは、日本帝国を除けば両国の中間に位置するハワイ王国だけだったのだが、国際連盟軍の規約に則るとして英国に続いてフランスなどが米国に宣戦布告していたのだ。
これはフランクフルト方面の背後にあるフランス軍はもちろん、シュレスヴィヒ方面の跡詰めとなるデンマーク軍団を構成する英国軍の戦力に期待していたドイツ連邦軍の一部にとっても予想外の事態になっていた。