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1951謀略、呉―マラッカ―キール8

 ハンス二等兵の姿が見えない。キール運河北岸近くで演習中に古参の下士官からそのような報告を受けたシュナイダー少尉が最初に考えたのは、脱走の疑いだった。

 シュナイダー少尉が所属する装甲猟兵中隊の中でも、今年徴兵されてきた新兵達の士気は特に低かったからだ。



 ドイツ連邦軍は新しくて古い軍隊だった。形式的にはソ連軍による占領を免れたドイツ南西部に成立したドイツ連邦共和国の軍隊ということになるのだが、実際にはナチス政権時のドイツ国防軍が看板を入れ替えただけだった。

 対ソ戦の凄まじい損害によって消耗し尽くした重装備などはともかく、被服などは国防軍時代のものがまだ残っているものだから、例えば小銃を掲げて行進する将兵達の見た目で新旧軍隊を区別することは難しかった。


 ただし、ドイツに在住する一般的な市民の多くがドイツ連邦軍に向ける視線は厳しいものだった。名前を変えたところで現在のドイツ連邦軍は、実質的に敗北を招いたドイツ国防軍と変わらないからだ。

 敗戦の記憶も新しい今、軍隊に冷ややかな思いを抱くものは多かった。ドイツ連邦軍として再編成された当初は志願制への移行が検討されていたものの短時間で徴兵制が復活したのは、軍隊があまりに国民から人気がなかったからという身も蓋もない理由だった。

 一方で講和条約によって国際連盟が求めるドイツ軍の規模を維持する為には、徴兵制が必要不可欠だった。



 ところが純粋なドイツ人で構成されているはずの軍内の意識は世論と乖離していた。職業軍人、先の大戦から従軍している古参の士官や下士官達は何故軍に人気がないか理解できていないらしいのだ。

 特にそうした意識が強いのは、先の大戦で地中海やバルカン半島などに展開していた部隊に所属していたものが多かった。終始国際連盟軍の火力に圧倒された地中海戦線はともかく、治安維持戦闘程度しか経験していないバルカン半島から帰還した将兵達は、自分達が敗北したという意識が薄かったのだろう。

 しかも、国際連盟との講和条件によって、戦犯指定者を除いてドイツ本国に着の身着のまま返された彼らは、大部分が激戦の続く対ソ戦の最前線ではなく、総統代行となったゲーリング国家元帥の命で国内の各種産業に派遣される労働隊に転属となっていたのだ。


 国際連盟との講和は、地中海戦線やフランス戦線からの解放を意味していたが、余剰となった戦力を全力で東部に注ぎ込むような余裕は当時のドイツにはなかった。

 大規模な陸軍を動員したドイツでは、戦時中大幅に不足していた本国の生産力を維持するのに必要な労働力の多くを、捕虜や拉致同然に占領地から召集した外国人労働者によって補っていた。

 ところが国際連盟との講和で、外国人労働者の多くを帰国させねばならなかったものだから、ドイツ本国では深刻な労働者不足に襲われていたのだ。


 つまり軍の一部を労働隊として産業界に送り込んでいたのはドイツを生き延びさせるのに必要な措置だったのだが、労働隊に送り込まれた将兵達はそうは受け取らなかったのだろう。

 しかも、彼らの労働隊としての勤務は、敗戦によって短期間で終わっていた。結果的に見ればドイツ本土を右往左往させられただけとなった彼らの多くは、最後まで馴染みが薄かった産業界にとどまることなく、対ソ戦で消耗していた軍への復帰を志願していたようだった。


 皮肉な事に、終戦間際には本来は大人のまともな軍人だった労働隊が産業界に送り込まれる一方で、元々若年層や女子隊員が多かった本土防空隊の高射砲隊などは、国際連盟と講和を行って英国爆撃隊の脅威が去っていたせいか、終戦までそのままの人員で運用されていた。

 当時ヒトラーユーゲントの一員として高射砲隊の装填手に配属されていたシュナイダー少尉も、自分が配置されていた高射砲が守る工場に、自分達を羨ましそうな目で見ながら入っていく大人達を見たことがあった。

 あの頃はシュナイダー少尉にはよく理解できなかったが、おそらく彼らはあの時に自分たちが戦えない惨めさを味わっていたのだろう。



 そうした雰囲気を醸成していたのはドイツ連邦軍に留まっている士官や下士官達だけではなかった。終戦後しばらくしてから盛んに出版されていた将軍達の手記は、現役将兵の意識に強く訴えかけるような内容だったからだ。

 将軍達が出版した手記の内容を概論すれば、先の大戦でドイツが敗北したのは、ナチス党、特にヒトラー総統とその傀儡となった国防軍最高司令部による稚拙な戦略指導が招いた国際連盟との無謀な対峙や、東部戦線における戦略の誤りが原因であると断言していた。

 その上で、東部戦線においても政治的な介入を排除して、陸軍総司令部の軍人達が主導権を握っていれば決してソ連軍に対しても敗北などしなかっただろう、というものだったようだ。


 このような将軍達の主張は、先の大戦に従軍した古参将兵達に熱狂的に受け入れられていた。将軍達は彼らが率いたドイツ軍将兵を褒め称えるとともに、次の戦争では負けないとも読み取れるからだろう。

 シュナイダー少尉が所属する中隊の将校や古参下士官の間でも、将軍達の手記が読み回されていた。おそらく連隊の他の中隊でも、状況は同じようなものなのだろう。


 尤もシュナイダー少尉はそうした手記に興味はなかった。古参士官よりも一回り若く戦後になってから任官したシュナイダー少尉は、大戦中の従軍暦は限定的なものでしかなかったからだ。当時のシュナイダー少尉の軍歴は志願ではなく単なる義務的なものでしか無いと考えていたのだ。

 それにシュナイダー少尉は、物資不足のせいか粗末な装丁が多い手記を出版している将軍達の大半は、終戦と同時に除隊を余儀なくされた元将軍だと知っていた。極論すれば彼らは新生ドイツ連邦軍に必要のない人材だったのだ。



 ナチスドイツ時代に再軍備が決断されたことで発足したドイツ国防軍は、僅か十年の間に急速に戦力を増強されていた。30年代半ばまではヴェルサイユ条約の制限によってドイツの陸上戦力は十個師団10万名に制限されていたのだ

 ところが国防軍発足時でさえ50万名程度を目標としていた陸軍は、最盛期には1000万名を越える兵力を抱えて百個に及ぶ師団を東部戦線に投入していたのだから、国防軍の拡大ぶりは凄まじかった。

 しかも、単純に考えて師団数で十倍になるということは、師団長である将軍も僅かな時間で十倍の数が必要となるということになるのだ。


 この急拡張はドイツ国防軍に歪さを生じさせていた。下士官や下級将校の場合は平時から層を厚くする事で確保を図っていた。高度な教育を受けた将校や下士官を分散させて核とした上で兵の数を増やせば、既存の数から部隊を増設することは容易だったからだ。

 だが、第二次欧州大戦で将軍だった年頃の男達は、第一次欧州大戦では下級将校に相当する年齢だったのだが、その同僚達の多くは戦間期に縮小された軍を去っていた。再招集を受けたとしても正規の軍歴が短いから将官教育を受けさせるのは無理があったのではないか。

 あまりに短時間で発生した多大な将官の需要は、本来大佐級であるはずの若い人材を昇進させる事で対応していたが、その結果ドイツの将軍の多くは外部からの印象とは異なり若く無謀な、本来は前線の連隊長を務めるようなものばかりとなっていた。



 こうして数多く誕生した若い将軍達は、その血気盛んな行動が災いして負傷や戦死したものも多かったが、生き延びた将軍の多くも敢え無く除隊させられていた。国防軍に変わって連邦軍となったドイツの陸軍にはそんなに多くの将軍は必要なかったからだ。

 国際連盟からの要求で欧州防衛の一翼を担う事になったドイツ連邦軍だったが、その規模は終戦当時よりも縮小されていた。ヴェルサイユ条約の制限があったヴァイマール共和国時代と対して変わらない10個師団程度でしか無かったからだ。

 当然最盛期からすれば師団長は僅か一割で済むことになるのだから、将官が配置されるべきポストは戦時中から激減していた。前線部隊だけではなく、フランスなどの頑強な意見によって、侵略計画を積極的に立案していた参謀本部の機能もドイツ連邦軍からは大幅に縮小されていたからだ。


 ただし、師団数は少なくともドイツ連邦軍の総兵力はヴァイマール共和国時代よりも大幅に増員されていた。しかも、参謀本部の機能が制限されたのと同じ理由で意図的に上級司令部の規模が抑えられていたから、純粋に師団単位の編制規模が大きくなっていたのだ。

 先の大戦で日英などが使用した後に欧州に残置したものを再整備したものが多かったとはいえ、各師団には重装備も豊富に割り当てられていたから、各師団の編制は前大戦における完全編制の装甲擲弾兵師団にも相当するものだといえた。

 しかも大戦中の東部戦線では、稼働戦車が1桁しかない戦車師団や連隊規模の火力しか持たない師団など珍しくもなかったから、当時を知るものからすると装備の面では定数を満たしている今のドイツ連邦軍は夢のような編制であるらしい。



 尤も、古参兵達とは異なり第三者的な視線を向けているシュナイダー少尉は、今のドイツ連邦軍の師団編制は、単に贅沢に定数を増やしたわけではなく、防御を優先した為ではないかと考えていた。

 例えば戦時中のソ連軍の様に師団編制自体を小型化した場合、戦略単位である師団を柔軟に運用できるという利点があった。実際には緒戦での大損害を受けたソ連軍は戦略単位の数を確保するために規模を縮小せざるを得なかったようだが、これにより師団単位での輸送も容易となるから小回りが効いていた。

 ただし、この場合は上級司令部に支援機能を充実させる必要があった。兵站や輸送の支援にとどまらず、場合によっては火力が貧弱な小型師団の支援を軍砲兵や独立戦車隊などで補ったりしなければならないからだ。

 大戦中のソ連軍のように前線に多数の小型師団を並べる余裕があるのでもなければ、打たれ弱い小型師団単独では後方の治安維持や支戦線に投入する程度しか出来ないのではないか。


 逆に師団編制が大規模な場合、長期間師団の戦力のみで耐久することが可能だった。多少の損害を被っても師団としての形を保ったまま戦闘継続が可能だったからだ。

 しかも現在のドイツ連邦軍の師団編制では、指揮系統上の中間結節点となる旅団司令部を廃して歩兵連隊と師団戦車隊などの近接戦闘部隊が師団司令部に直卒される形になっていたから、戦略的な柔軟性には欠ける部分があった。

 ソ連軍の侵攻が現実のものとなった場合、ドイツ連邦軍は愚直に前線に張り付いて後方で再編される国際連盟軍の来援までの時間を遅滞戦術で稼ぐということが想定されているのだろう。



 ところが、現在のドイツ連邦軍の古参将兵達にはそのような認識は薄いようだった。それどころか勢いの良い将軍達の手記に影響されたのか、「次の戦争には今度こそ負けない」と自分達に与えられた重装備を見てそのように公言するものさえいたのだ。

 そのような威勢のよい者たちは下士官以上のものばかりだった。大多数を占める兵士達は、大半が徴兵されてきたものだったからだ。


 シュナイダー少尉のように新兵たちは先の大戦中はひもじい少年時代を送ってきたものばかりだから、ドイツ宣伝省が作り上げた戦時中の熱狂が過ぎ去った後は軍隊に冷めた視線を向けるものが多かった。

 自然と国防軍時代の意識を引きずった威勢のよい下士官連中と、旧軍を経験していない兵隊層の間には意識上の断裂が生じていた。


 その中で数少ない志願者、つまり態々士官教育を受けたシュナイダー少尉は、古参将兵と徴兵達の間に挟まれた立場の異端者とも言えた。

 だが、シュナイダー少尉が職業軍人を志したのは、単に現在のドイツ連邦内で高度教育を受けたとしてもまともな就職先がないという現実があったただけの話だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 焼け野原になった本土に復員してアメリカに敗けた事は強烈に理解したみたいなのですが、逆に「中国に敗けた憶えはねえ!」って反発は強くなったんじゃないかと感じました。
[一言] >バルカン半島から帰還した将兵達は、自分達が敗北したという意識が薄かったのだろう。 昔、話を聞かされた大陸帰りの年寄り達もそんな感じでした。
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