1951謀略、呉―マラッカ―キール6
モハマド商会社屋の奥に居たモハマド・ビン・モハマドは、奇妙な客が来たと呼びに来た商会の若い従業員を睨みつけながらも、慌てて金勘定の後片付けをしていた。
マラッカ郊外に社屋を広げたモハマド商会の会長であるモハマドは代々モハマドを名乗っていたが、そのモハマドが社屋の奥に籠もるのは、熱心な礼拝のため、ということになっていた。
実際にはアザーンが聞こえる礼拝の時間であれば、誰にも邪魔されずに金勘定が出来るというだけの理由だった。だから普段は形ばかりの礼拝を慌ててした後は帳簿の確認をするばかりだった。
モハマドがその様に密かに帳簿を管理していたのは、モハマド商会が密貿易など裏稼業にも手を出していたからだ。郊外の住居を兼ねた商会社屋は小規模なものだったが、モハマド商会は裏では手広く商売をしていた。
マラッカから狭い海峡を渡れば、そこはもうオランダ領東インド諸島に属するスマトラ島だった。海峡の幅はマラッカから百キロ程しかないから、自前の船と口の固い仲間がいれば密貿易は容易だったのだ。
だが、モハマド商会が密貿易に手を染めたのは単に儲けが良いからではなかった。代々跡取りがモハマドを名乗るモハマド商会といっても、実際にはこのモハマドでようやく三代目でしかない歴史の浅い商会だった。
祖父や父が商会の運営に苦労したのは、北からこの土地に流れ着いてきた華人や彼らと同郷の華僑によって作り上げられた強固なネットワークによってマラヤ連邦内の貿易が牛耳られていたからだった。
同族意識からなる華僑独自の情報網を有した華人たちが作り上げた商会の組織力は、先住民であるマレー人を圧倒していたのだ。
ところが、その華人たちもマラヤ連邦の独立を前にして急速にマラッカから姿を消していった。英領から独立する過程でマラヤ連邦が現地マレー人国家として再編成されていったからだ。
目端の効く華人は、英連邦内の独立国家となるマラヤ連邦の国籍をとることなく、戦乱が続く中で商機を掴んで中国本土の上海などに向かうか、今後英国資本が集中するであろうシンガポールに向かっていた。
特にシンガポールは第二次欧州大戦以後も増加している欧州とアジアを結ぶ長大な通商路の結節点として整備されていた。商港や駐留英国海軍の軍港ばかりではなく、商船の整備機能にも資本が投下されていた。
そうした旨味のある事業に華人達が引き寄せられていく一方で、マラッカなどの従来からの商港は先住民達の手に取り戻されようとしていた。
モハマド商会も、胡散臭い裏稼業からは手を引くべき時期が来ているのかもしれない。表には出せない帳簿を奥の棚に仕舞いながらモハマドはそう考えていた。
昨年末に日米がいきなりフィリピンの向こう側で戦争を始めたときは、モハマドも腰を抜かすほど驚いていた。
別に両国がどうなろうとモハマドの知った事ではないが、日本や満州、シベリアーロシア帝国に向かう商船は、暫くの間シンガポールで滞留していたから停泊を余儀なくされた商船が必要とする物資の手配で儲けが出ていた程だ。
だが、そんな景気は長続きしないのは明らかだった。貿易の停滞は長期的にはマラッカの経済も悪化させるからだ。
幸いなことに開戦直後に生じていた通商路の遮断は短時間で終わっていた。本格的な反撃に出た日本海軍がフィリピン周辺の米軍のうち通商破壊戦に投入されそうな戦力を一掃してとりあえずは南シナ海の航路を再開させていたからだ。
うまくこの戦争で儲けを出すことが出来れば、モハマド商会を密貿易などに頼らない真っ当な大商会に発展させることも夢ではない、のかもしれないとモハマドは考えていた。
二度の欧州大戦では膨大な物資がアジアから欧州に向かって途切れることなく流れていた。前の対戦ではその流れに上手く乗って商売を独占していたのは、広く世界各地の情報を収集していた華僑達ばかりだったが、今度は独自の経済圏を有するマレー人も食い込む事が出来るかもしれないのだ。
だが、それにはモハマド商会の人手がまず不足していることをモハマドは痛感していた。
モハマドを呼びに来た従業員は、まだ若い使い走りのような男だった。番頭格の古株従業員は出払っていた筈だったから、表に出ているのはまだ頼りない若いものばかりではないか。
モハマドは不機嫌そうに言った。
「それで、その客人は何を持ち込んで来たんだ。取引相手としては信用できそうなのか」
とてもそうは思えないとモハマドは考えていた。もうアザーンは聞こえてこないが、時間からして礼拝の時間に客は社屋に顔を見せたのだろう。そんな非常識な客がまともとは思えない。
案の定、若い従業員からは要領を得ない答えが帰ってきただけだった。話をまとめてみると、そもそも客はムスリムではないらしい。
この時点で妙な話だった。華僑達がシンガポールに去っていった今では、マラッカの商人達はマレー人のムスリムばかりの筈だ。中にはタイあたりから来たものもいるかも知れないが、相手が華僑や仏教徒でもムスリムの街ではアザーンの流れる中でムスリムを訪れたりはしないだろう。
だが、若い従業員によれば、客は華人の女であるという話だった。それでモハマドは何となく自分なりにこの商会に客が来た理由を考えていたみた。
要は客というのはシンガポールに行きそびれた華人なのではないか。真っ当な商売人の華僑なら、マレー人が幅を利かせるようになったマラッカから離れるか、マラヤ連邦の国籍を取った華人達で法人や支店を作っている筈だった。
それが出来ないということは、自分達と同じ裏稼業の人間なのかもしれない。まともな華人ならこんな郊外のムスリム商会よりも同郷の華人が経営する商会に行きそうなものだからだ。
だが、商会の応接室扉の影からそっと客の様子を窺ったモハマドは、自分の推測にすぐに疑いを持ち始めていた。客人にどことなく剣呑な様子を感じ取っていたからだ。
応接室の椅子にふんぞり返っているのはまだ若い女だった。年がいっていても30を大きく越えているということはないだろう。ただし、顔つきはあまり大人びた感じはしないから、小柄な体格もあってアジア人の見分けがつかない白人共が見ると小娘のように見えるかもしれない。
ヒジャブ代わりのつもりなのか、女は目立たない草色のスカーフを巻いていたが、スカーフでは隠しきれない程に長い髪が背中で無造作に結ばれていた。それにスカートの下からは端なく足を出しているのだから、この女がムスリムのはずはなかった。
スカーフから飛び出た髪と同じ漆黒の女物背広を着込んでいたが、あまり似合ってはいなかった。下ろしたてに見える背広は高級そうな仕立てだったのだが、野生児地味た印象のある女が着ると違和感があった。
応接室で暇そうにしている女は、何が珍しいのか視線をあちこちに回していた。その顔立ちは整っていたが、虫にでも刺されたのか背広のスカートから伸びた足を無造作に掻く様子からは色気というものは感じられなかった。同時に商売人にも見えなかった。
確かに胡散臭い客だった。得体のしれない女の後ろに何がいるのか、若いものでは判断がつかないだろう。眉間に皺を寄せたモハマドは首をすくめながら、自分を呼びに来た従業員に顔を向けていた。
「お前、先生達が何処にいるかしらんか」
モハマドが用心棒達のことを言うと、従業員も眉をしかめていた。
「ドイツ人の先生達ですか……どうですかね、いつもなら博打か飲んだくれているか、まさか昼から女の所に入れ込める程懐は暖かくはねえでしょうけどねぇ」
モハマドが言ったのはスマトラ島への密貿易中に強引に仲間に入ってきたドイツ人の一団だった。モハマド商会が密貿易を行う際の護衛に雇い入れろと言ってきたのだが、断れば当局に密告すると彼らの顔には書かれていた。
彼らは元々オランダ領東インド諸島総督府に雇われてスマトラ島北部に派遣されていたドイツ人自警団の一部隊だったのだが、現地勢力の意外に根強い反抗に手を焼く総督府側に見切りをつけて自警団を脱走してきたらしい。
命欲しさに脱走してきた兵士崩れといっても彼らの戦闘力自体は本物だった。彼らの親分格は、元々自分達はドイツ国防軍でイタリア戦線を生き延びた猛者だと自負していたが、それ自体は嘘ではないらしい。
尤も、まともなドイツ兵士であれば、こんな辺境で小さな商会に集ったりせずに今でも故郷でドイツ正規軍にとどまっていただろうから、戦犯指定を恐れて国外逃亡を選んだ兵士崩れなのも確かだった。
本当に敬虔なムスリムだったら、あんなごろつき共を近づけるのも嫌だろうなとふと思いつつも、モハマドは言った。
「とにかくあの不良ドイツ人共を連れてこい。こういう胡散臭いときに備えて、仕事の無いあいつらに白人共が持ち込んだ酒を態々呑ませてるんだろうが」
嫌そうな顔で、従業員が用心棒ということになっているドイツ人を探しに行くのを見送ってから、モハマドは息を整えてさも急いできたかのように音を立てて応接室に入り込んでいた。
「いや、お待たせしましたな」
にこやかな笑みを顔面に固定したモハマドは、大袈裟な身振り手振りで挨拶しながら客の反対側に座った。
「それで、何のお話ですかな。ああ、もし我がモハマド商会への紹介文があれば頂きたいですが」
モハマドは、笑みの影でそんなものがこの若い華人にあるとは思えないと考えていたのだが、何を考えているのか獰猛な笑みを返した女は、懐から無造作にいくつかの封筒を抜き出していた。
その瞬間に、女が背広の脇に大柄な拳銃を吊っているのを目撃したモハマドは笑みを凍りつかせていた。しかも、女は敢えて拳銃をちらつかせたのではないかとも思えるほど動作はわざとらしかった。
「あんたがここの会長のモハマドさんかい。こいつがその紹介状とやらだよ。この最後の手紙を書いてもらうまでに随分と時間が掛かったんだけどね。ま確認してくれない」
初手から下手を打った。モハマドは背中に冷たいものを感じながら封筒に書かれた名前を確認していった。一通はこの街の有力者だった。挨拶することくらいはあるが普段の接点はない。
むしろマラッカの有力者よりマラヤ連邦の政治家の名前が記されている封筒のほうがモハマドを驚かせていた。どうやらこの女はクアラルンプールにも顔が利くらしい。
―――何者なんだこの女は……
モハマドは封筒を開いて時間をかけて本物であることを確認すると、困惑した顔を隠せもせずに下手に出るように言った。
「あの……この商会に何のご用なんですかね。うちは御覧の通りの小規模な商会なもので、何も値の張るような代物はご用意出来ませんし、買取も出来ませんが……」
紹介状をモハマドが検めている間は退屈そうにしていた女は、あっさりと言った。
「まず最初に荷物の輸送を頼みたいんだけどね。積み込み場所はサワラク王国の港、のそばの海岸。この商会が持ってる船が到着する頃に海岸に荷物は持っていく。それと荷物は……えっと」
要領が悪いのか、女はそこでごそごそと取り出した紙を確認しながら続けた。
「荷物は20トンの車両が4台、それと予備部品を積んだトラックが何台か。あんたの船ならさっさと積み込める筈だよ。それとあんたの所の社員を借りたいんだけどね」
モハマドは呆けたように口を開けていた。20トンもある車両を商会の持船に積み込むのは容易ではないし、第一そんな重量の車両がどこにでも転がっているはずはなかった。
無理に作り笑いを見せると、モハマドは言った。
「いくらなんでもそりゃ無茶です。うちにはそんな大きな船はないし、海を越えてサラワクまではとても行けませんよ。それにそんな重量のある車両なんて……一人で戦争でもするつもりですか」
だが、女はモハマドに冷ややかな視線を向けていた。
「だから、海岸って、言っただろうが。あんたの商会が、余って払い下げられた戦車揚陸艦を買い込んでることは、もうこっちも知ってるんだよ」
裏稼業の為にダミー会社を通じて密かに買い入れた揚陸艦の存在を言い当てられたモハマドは狼狽していたが、モハマドがなにか言う前に乱暴に扉が開けられていた。
「社長、追い払って欲しいってのはこいつかい」
とんでもないタイミングで現れた酒臭い息のドイツ人共に、モハマドは顔を青くさせていた。