1951謀略、呉―マラッカ―キール3
建造機能の多くを九州北岸に新設された大神工廠に移転していたとはいえ、開戦によって呉工廠や呉鎮守府は新年早々から部署によっては休みなく動いていた。予備艦の現役化やそれに充てる乗員の確保で多忙だったのだ。
呉市内の料亭なども大賑わいで、日暮大佐と八方中佐が案内された部屋も慌ただしく前の客を片付けた気配が残っていた。
だが、日暮大佐は長身を活かして物珍しそうに年甲斐もなく料亭の内装などを覗き込んでいた。
「江田島にいた頃には呉の料亭なんぞは敷居が高かったものだが、やはりどこも同じようなものだなぁ……」
いい歳をして江田島の兵学校に入学した生徒のような様子の日暮大佐に、早々と座り込んだ八方中佐は鋭い声でいった。
「先程の話は何だったのです。陸奥の現状は乗員が誰よりも把握しています。若い者をぬか喜びさせるような言動は謹んでもらいたい」
横須賀から呉までへの航行中も陸奥乗員の士気は低下していた。呉に到着すれば陸奥はそのまま廃艦になるのではないかという噂が根強く流れていたからだ。
そうなればおそらく陸奥の乗員も多くが異動の対象となるはずだった。
緒戦は手ひどい敗北だった。陸奥が向かうはずだったトラック諸島は、長らく日本海軍の象徴的な存在だった長門を始めとする戦艦の墓場となっていたからだ。
陸奥と尾張は、開戦直後の遭遇戦において米戦艦と互角以上に戦ったという自負はあったが、廃艦間際の陸奥の現状からは苦々しい勝利としか認識できなかったはずだ。
多くの乗員を転属させた後に陸奥に残された乗員は、墓守のように廃艦につきあわされる羽目になるだろう。あるいは、移動対空陣地として改造されるという噂が事実であれば戦争中は維持されるかもしれないが、それは既に戦艦としての姿ではなかった。
勿論だが、そのような憤りをぶつける相手としては日暮大佐は相応しくなかった。元々大佐は陸奥と臨時に編成を組んだ尾張の艦長に過ぎないからだ。
陸奥に乗艦していた元々の戦隊司令部と先任の陸奥艦長が同時に戦死しなければ仮にでも八方中佐の上官となることもなかったし、そもそも戦隊司令官に戦艦の行末を決める権限もなかった。
それでも八方中佐が口を開いたのは陸奥乗員の思いを無視してほしくなかったからだ。
だが、万感の思いを込めて口に出した八方中佐の言葉に日暮大佐から帰ってきたのは不思議そうな顔だけだった。
「おいおい、俺達はこれでも同期の桜じゃないか。料亭の中まで階級を持ち込むのは無しにしようや。それにお前さんにも近いうちに昇進の知らせが届くはずだぜ。
ところで、先程の話って何のことだい」
八方中佐は、鋭い視線を日暮大佐に向けていた。白いものが混じってはいたが、短躯の中佐が目を細めると不思議な迫力があった。階級無用の言葉にこれ幸いとばかりに、足を崩すとぶっきらぼうに言った。
「貴様ついさっき言ったことをもう忘れたのか。どこをどうすると臨時の戦隊司令官でしかない貴様の部屋を陸奥に準備するという話になるのだ。大体、あんたはまだ尾張の艦長で……待てよ、昇進だと。
前の大戦で引っ張られてから昇進には縁がないものと思っていたが、今更予備役将校を昇進させるのか。昇進の大判振る舞いを始めるには、開戦からまだ間がないのではないか」
呆れたような八方中佐の声に呆気にとられていた日暮大佐は、首を傾げてから勝手に料亭の待合から持ってきた新聞をごそごそと捲ってから卓上に広げていた。
「その反応からすると、もしかしてお前さん最近の報道に目を通していないんじゃないのかね」
八方中佐は憮然とした表情で新聞を手にしていたが、すぐに困惑した様子で顔を上げていた。
日暮大佐が指し示した頁には、何かの漫画から切り出してきたような絵が描かれていたのだが、適度に戯画化された女学生らしい娘が学生帽を被った少年の手を引く絵は、とてもではないがこの場には似つかわしくない雰囲気だった。
「その……この漫画絵が何なのだ……」
「その娘さんが陸奥で、手を引かれている少年が尾張だ」
八方中佐は、胡散臭いものを見るような目で海軍兵学校同期である日暮大佐を見つめていた。この男は兵学校時代から飄々とした所があるために幾度となく上級生から鉄拳を食らっていたのだが、とうとう頭がおかしくなったのではないかと考えていたのだ。
どこをどうすると、この可愛らしい絵柄の少年少女達が、無粋な鋼鉄の塊である陸奥と尾張という戦艦につながるというのか。
だが、日暮大佐は苦笑しながら続けた。
「別に俺が言い出したことじゃないぜ。兵部省の宣伝屋の誰かが思いついたんだよ。国民学校の子供にも分かりやすいように戦艦を子供に置き換えたそうな……ほら、少年誌に犬を兵隊にした漫画が載っていただろう。その作者に描いてもらったのだそうだ」
「生憎と俺には漫画を読むような倅はいないよ……しかし何だって陸奥と尾張を今更子供に伝える必要があるのだ……」
心底不思議そうな顔の八方中佐に、日暮大佐はにやにやと笑いながら言った。
「本当にお前さんはここしばらく報道に接していなかったようだな。兵部省の偉いさんが考えたことらしいが、米軍から開戦劈頭に奇襲攻撃を喰らったのをごまかすために、尾張と陸奥が米海軍の戦艦……実際にはアラスカ級の大型巡洋艦だったらしいが、それを沈めたのを殊更に宣伝してるんだよ。
今や俺もお前さんも時の人だぞ。俺は陸奥の艦長だと言えば、兵学校の貧乏生徒だった頃と違ってモテるぜぇ……ああ、その漫画な、ギャングの騙し討ちで家族を殺された姐さんと弟が健気に立ち向かうという筋書きらしいぞ」
頭痛を覚えた八方中佐は、思わず額に手をやっていた。
「説明されてもまだ分からんぞ……それじゃ戦争じゃなくて仇討ちじゃないか。いつから俺たちは曽我兄弟になったのだ。返り討ちにあわなければいいのだがな……それに、予備役上がりで艦長代行の航海長が艦長と名乗ったら、それはいくらなんでも詐欺だろう……」
「お前さん、肝心な時に話を聞いとらんのは兵学校時代から変わっとらんな。それとも予備役編入の間に呆けたのか。さっき言ったろう昇進だと。近いうちにお前さん宛に大佐昇進と陸奥艦長の辞令が来ることになってるんだよ。戦時中は年次じゃなくて随時辞令が発令されるからな。
それと敵討ちの話はだな……多分子供にわかりやすくするために話を端折ったんじゃないかね。馬鹿正直に油断していたところを殺られましたと言うよりもは仇討物の方が話になるだろう」
まだ八方中佐は首を傾げていた。
「しかし……いくら陸奥が旧式艦でも昇進したばかりの大佐が艦長を務めるというのは異例ではないかな。普通なら古参の……貴様くらいの大佐を宛てるべきだろう」
「戦争中と言えば大抵の例外は無視されるもんだと思うがなぁ……それに俺は駄目だよ。尾張も副長を昇進させて新艦長に据えたら、今度は俺も少将に昇進して正規の戦隊司令官になる予定だからな。階級が並んだところをすぐに追い抜かして悪いがな」
そう言って日暮大佐はにやにやと笑っていたが、予備役に編入されていた八方中佐はともかく、兵学校の同期生の中には開戦前に少将に進級しているものもいたから、特に日暮大佐の昇進が早いとは言えなかった。
八方中佐の微妙な表情に気がついた様子も見せずに、日暮大佐は少しばかり真面目な顔を作りながら続けた。
「正直に言えばな、省部の連中はやり過ぎたんだよ。自分たちの失敗を糊塗するために、とりあえずは敵艦を撃沈して帰還した形の俺たちを持ち上げすぎたんだ。だからな、ここで陸奥を砲台なんぞに仕上げたらやっぱり負けてたんじゃないかと世論が消沈するのを恐れているのさ。
お前さんも陸奥を移動砲台にするとかいう噂を信じた口なんだろう。指揮官がそれじゃ困るんだ。もうあの噂のとおりに陸奥や尾張を消極的な姿に出来るような世論じゃないんだ。陸奥も尾張も戦艦としてもう一度敵艦と戦う必要があるし、その指揮官にはあの戦を生き抜いた俺やお前さんが一番なのさ」
だが、八方中佐は違和感を覚えていた。真面目な顔にはなっていたが、日暮大佐の言葉にはいささか無理があるような気がしていたのだ。怪訝そうな顔に気がついたのか、日暮大佐は居心地悪そうに言った。
「まぁ、確かに兵部省の連中に俺達がこれ幸いと便乗しているのは認めるよ。昇進の件はともかく、俺達が陸奥と尾張に残るのは無理を言っている……だがな、お前さんならどうする。俺達の手で、蘇った陸奥と尾張で戦ってみたくはないか」
珍しく真摯な日暮大佐の目に圧倒されつつも、八方中佐はゆっくりと頷いていた。確かに大佐の口車に乗せられれば、陸奥を元の姿に戻すことは出来そうだった。
しかし、唐突に八方中佐は最初の話をようやく思い出していた。
「ちょっと待ってくれ……だが、これまでの話と、貴様の部屋を陸奥に用意するという話は……まさか、また陸奥を旗艦にするつもりなのか」
「その新聞を見てみろ、姉が弟の手を引いてるんだぞ。戦隊は元の編成でいくしか無いんだが、そうなれば陸奥を先頭に立てて旗艦とするのが一番国民受けするのさ」
至極当然という顔で言った日暮大佐だったが、八方中佐は渋い顔を見せていた。政治的な事情でより適した艦を旗艦に定められないというのであれば、グアム島沖で戦隊司令部が一瞬で壊滅した轍を踏むだけではないか。
ところが、それを指摘すると日暮大佐はあっさりと返していた。
「旗艦機能の充実はまだ可能だろう。長門型戦艦は連合艦隊旗艦を務めていたこともあるのだし、通信機能の強化や例の中央指揮所を増設すれば指揮能力は格段に上昇するはずだ。
なに、尾張もこれから第三砲塔を撤去して周辺を作り変える大工事を行わなければならんから、まだ時間はあるさ」
八方中佐は唖然として聞いていた。なんとなく陸奥は以前の姿のままで復旧されるものと考えていたのだが、日暮大佐の言葉を信じるのであれば、実際には戦前に計画されていた改装工事に近いものがあるようだった。
「だが……戦時中にそのような大規模な改造工事を行うような余裕があるとは思えないが……それに貴様は知らんかもしれないが、長門型戦艦の艦内にはそれほど余裕はないから、中央指揮所を収容できるような空間はないぞ。やはり、戦隊旗艦にはより新しい尾張を据えるべきではないか」
八方中佐は諫めるつもりで言ったのだが、日暮大佐は面白そうな顔でいった。
「何度も言っているだろう。俺達には国民の目があるんだ。強そうな姿で復帰しないことには世論が納得しないといえば、今なら多少の言い訳は効くんだぞ。
それに、俺も改造工事を最短で終える努力はするつもりだよ。実は尾張の積極的な改造案を出してきたのはある技術士官なんだが……そいつの別案で陸奥の改造案もあるんだ。その案によれば、呉工廠で研究されていたものを出来るだけ流用するつもりらしい。
その技術士官とは明日鎮守府の方で合流する予定でな。元々呉には陸奥の現状の他に、流用するものを確認しに来たのだが……明日は鎮守府から通船を出してもらって亀ヶ首に行ってから工廠の砲熕部に顔を出す予定だから、すまんがお前さんも付き合ってくれ」
料亭の従業員が酒食を運んできた為にそこで一旦日暮大佐は口を閉じていたが、八方中佐は首を傾げていた。確か本土側とは狭い海峡を挟んだ倉橋島の先端にある亀ヶ首には呉工廠に付随する試射場があったはずだが、そこに何の用があるのかは中佐には分からなった。
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