1951謀略、呉―マラッカ―キール2
戦艦陸奥は戦隊司令官代理による巡視を受けていたが、船渠内に収まっている艦内は人もまばらで寒々としていた。
―――何もこんな時に巡視に来ることもないだろう……
戦隊司令官代理を案内しながらも、陸奥艦長代理の八方中佐はそう考えていた。
三陽造船の修理用船渠内に収められている陸奥艦内の奥深くからは工事の音が響いていたのだが、開戦以後連続勤務が続いている造船所でも流石に新年早々は出勤者も少ないのか、戦時下だというのにどこか疎らなものだった。
元々陸奥の工事は損害を受けて用を成さなくなっていた部位の撤去やこれ以上の浸水を防ぐための仮復旧といった最低限の作業に限定されて行われていた。入渠した段階では戦時下で完全修復を行うのかどうかも定かでは無かったからだ。
グアム島沖で行われた激戦をくぐり抜けて日本本土に帰還した時点で、陸奥が被っていた損害は大きかった。
建造当初から建て増しされていた艦橋構造物は、航海艦橋よりも上部が吹き飛ばされて建造当初よりも簡素化されたみすぼらしい姿になっていた。航海艦橋や後鐘楼の指揮機能が失われていた場合は僅かな距離の航行すら難しかったのではないか。
また主砲には大きな損害はなかったものの、副砲はほぼ全損していたし、船体各部の損害も無視できなかった。主砲も分厚い装甲が施された砲塔は無事だったものの、実際には艦内奥深くの主砲射撃発令所と方位盤との接続回路が戦闘中に故障したために、統制された射撃が不可能な状態になっていた。
もしも主砲塔が無事でなければ廃艦扱いを受けておかしくないのではないかとも思われる惨状だったが、実際には方位盤が収められた射撃指揮所の観測値が活かせないものだから、主砲射撃能力も怪しいものだったのだ。
不可解なことに、発令所の電路修理工事も中断されていた。連合艦隊司令部に詳細を報告したところ、工事中止の命令が下っていたのだ。陸奥に残された幹部要員は、命令を聞かされた際に揃って暗い顔になっていた。
連合艦隊はもはや陸奥を戦艦として修理する意欲を失ったのだ、と判断していたからものが多かったのだが、それも無理はなかった。退役が遅れていた金剛型戦艦ほどでは無いにせよ、長門型戦艦は建造されてから30年近くが過ぎていたからだ。
そもそも、日本本土に帰還した時点で、臨時編成されていた陸奥と尾張からなる戦隊の処遇は決まっていなかった。この2隻の戦艦が共に大きな損害を被っていたためだ。
この戦隊は元々最新鋭の戦艦紀伊、尾張の2隻で編制されたばかりだったのだが、陸奥の機関損傷によって予定が狂わされていた。本来、大演習において陸奥はトラック諸島に集結した仮想敵艦隊を演ずる旧式戦艦群の旗艦を務める予定だったからだ。
ところが陸奥が航行中に機関部の不調を示したことから急遽本土に回航されて修理工事が行われることになったのだが、陸奥に代わる旗艦として諸外国から招待された報道陣に対しても見栄えのする大型戦艦である紀伊がトラック諸島に送り込まれていたのだ。
その結果、機関修理を終えた陸奥は、紀伊型戦艦の2番艦として完熟訓練中であった尾張と共に変則的な戦隊を組んで新鋭戦艦群に混じって行動する計画になっていたのだ。
だが、大演習が始まる前に対米戦の開戦を迎えた陸奥と尾張は大きな損害を被って帰還していた。しかも、元来の戦隊司令部は陸奥の艦橋と共にグアム島沖で米軍戦艦に吹き飛ばされていたのだ。
敗残兵も同然の姿で帰還した2隻の戦艦だったが、流石に最新鋭戦艦である尾張は横須賀で入渠工事が行われる事が決まっていた。尾張はグアム島沖海戦で第三砲塔に大きな損害を被っていたから、砲塔の修繕工事が行われるのかもしれなかった。
だが、工廠の他に艦政本部から派遣されてきた要員などで行われていた損害調査中に、八方中佐は気になる噂を耳にしていた。詳細は軍機らしいが、尾張の主砲は建造中の新造戦艦と共通化された新型砲だったらしい。
大和型、信濃型の三連装砲塔から連装化されたくらいなのだから18インチ級の大口径砲なのだろうと八方中佐も考えていたのだが、問題は、この新型砲の砲身が大神工廠で建造中の新造戦艦に回されされてしまっていることらしい。
しかも、尾張の損害は思ったよりも大きかった。全体の損傷は然程でもないらしいのだが、第三砲塔は砲塔基部から歪んでいるために、完全修理を行うとすれば新造並みの工期と機材が必要となるという見積もりが出ているようなのだ。
噂によれば、尾張は第三砲塔の修理を諦めて、砲塔を排除して基部を覆った上で高角砲を増設する修理計画が出されているようだった。
おそらくは工期を短縮するためだろうが、そうなると尾張は連装砲2基で4門しか主砲を持たないということになるから、積極的な使い方はもはや想定されていないのではないか。
最新鋭艦である尾張ですらそのような扱いを受けるのだとすれば、戦力価値という意味で尾張に大きく劣る上に、より大きな損傷を負っていた陸奥など即座に予備役艦に編入されてしまうのではないかと八方中佐は考えていた。
実際、陸奥は横須賀工廠で岸壁に係留された状態でしばらく最低限の復旧工事のみが行われていた。実際には遺体の回収や損傷の確認が行われていただけだったのだが、係留状態では水線下の損傷は潜水夫による限定的な調査に限られていた。
陸奥の入渠工事が決定したという話があったのはしばらくしてからだった。ただし、突然の開戦に大慌てで出師準備を行っていた横須賀工廠には陸奥を受け入れる余裕は無かった。
指定された船渠は呉にある三陽造船が保有しているものだった。大型艦用の船渠は貴重だったから、軍工廠は有力な予備艦の出師準備や空母部隊の整備で手一杯だったのだろう
おそらくはそこが戦艦としての陸奥終焉の地になるのではないか。八方中佐はその時はそう考えていた。民間企業といっても戦艦を入渠出来る大型で深さのある船渠は貴重だったから、修理艦で長期間占有出来るとも思えなかったのだ。
陸奥の改造工事として可能性があるとすれば、対空拠点への改装だった。開戦直後に本土に空襲を受けたことで、日本各地の軍工廠などでは防空能力の強化を求める声が上がっていた。
主砲の発砲には制限があったものの、陸奥の高角砲や高射装置の大半は無事だったから、主砲周りの機材や弾薬を最低限撤去してその分だけ対空火力を強化するという消極的な改造案が艦政本部内であったようだ。
要するに移動式の対空陣地のようなものだろう。尾張も第三砲塔を撤去して高角砲を増設する案もあるというから、何のことはない両艦似たような姿になるだけの事だった。
ただし、主砲火力を制限して対空能力を強化するとしても、2隻の最終的な姿は随分と変わったものになるだろう。艦橋構造物の大半を失った陸奥は戦闘時の統一指揮に問題があったし、航海指揮も最低限しか出来なかった。呉への回航程度ならば出来るだろうが、外洋の航行には制限があるだろう。
そんな惨めな姿で老いさらばえるぐらいならば、同型艦である長門共に潔く散っていったほうが良かった。そんな声を上げた幹部には冷やかな視線が向けられていたが、心情としては完全に否定するのは難しかった。
その一方で、差し当たって航海能力に問題のない尾張は、主砲火力が減少していたとしても空母部隊の援護に投入されるのではないかと考えられていた。
開戦以後本格的に行われた日本海軍初の反撃は、意外なところで開始されていた。フィリピンの中核であるルソン島の港湾部や航空基地に対する空襲が行われていたのだ。
投入されたのは、本来大演習において本土から出撃する筈だった新鋭戦艦を護衛につけた空母部隊だった。空母から何度も出撃していった搭載機でフィリピンから南シナ海に進出可能な戦力を薙ぎ払うと、艦隊は台湾駐留部隊の援護を受けて悠々と本土に引き上げていったようだ。
第2艦隊に集中配備されていた大型の正規空母を中核とした空母部隊の威力は大きかった。フィリピンの航空、海上戦力を一時的に無力化させた後は、開戦以後にシンガポールや台湾で滞留していた船便が続々と南北に行き来を再開していた。
しかも、日本政府は強引に南中国から海南島の基地使用権をもぎ取っていた。南京を首都とする南中国政府は当初は中立の立場を保ちたかったようだが、北中国との内戦に於いて日本からの支援が果たしている大きさを考慮すれば、政治的に無視できなかったのだろう。
南シナ海の北側に位置する台湾と海南島に航空戦力を配置した日本海軍は、両島から哨戒機を飛ばして大陸沿岸航路の安全性を確保するとともに、先の大戦以来の護送船団方式を再構築しようとしていたのだ。
このフィリピン空襲で見せた空母機動部隊の柔軟性と機動性は明らかだったが、その一方で地中海戦線で赤城と龍驤の2空母を立て続けに沈められた日本海軍は、例え装甲化されていても空母自体は脆弱極まりないことを理解していた。
仮に船体が無事でも、飛行甲板に破孔が生じただけで航空機という空母の搭載兵器を運用することは不可能になるからだが、同時に空母自体の防御火力には大きな期待は出来なかった。
前大戦で柔軟な編成が可能である分艦隊制度を取り入れた日本海軍では、空母部隊の護衛に高い火力を持つ戦艦群を編入することも珍しくないから、尾張が空母部隊直衛に就く可能性は高かった。
そんなことを考えていたせいか、みすぼらしい姿になった陸奥を本州沿いに南下させて呉に回航させる際も乗員の士気は低かった。よく航海能力の低下した状態で事故を起こさなかったと考えたほどだったのだ
そんな陸奥が入渠した三陽造船は特異な立ち位置にある造船会社だった。民間の株式会社であることは間違いないのだが、その大株主は退役軍人会や水交社であるため軍そのものが株主となる半公的な会社であるとも言えた。
しかも、三陽造船の中核は大神工廠の開設に伴って払い下げられた呉海軍工廠の造船部門を受け継いだ上に、工員の多くも元工廠職員達だった。
陸奥が入渠した船渠も海軍時代から戦艦などの修理工事に使用されていたらしいものだった。元々第二次欧州大戦中に建造された大和型戦艦以後の大型化した新鋭戦艦でも入渠できる深さと広さを持った船渠だったから、長門型戦艦である陸奥には広すぎる程だった。
だが、損傷箇所の確認などで時間がかかった艦内の巡視を終えて一行が陸奥の甲板に戻ってくると、八方中佐はやけに船渠の空いた空間が気になっていた。
下手に陸奥の船体に隠されて暗がりとなっているものだから、整然と並べられた船渠壁面に並べられた石材の隙間に物の怪でも潜んでいるような雰囲気を八方中佐は感じていたのだ。
寒々とするのも当然だった。呉市内では珍しく雪が降り始めていた。陸奥の上甲板は、あちらこちらの損傷した箇所を撤去して出来た開口部があったから、船体の奥まで冷気が伝わっている事だろう。
舷門が設けられている船渠脇との渡り通路まで戻ってきた戦隊司令官は、振り返るとわずかに場違いな笑みを浮かべながら言った。
「陸奥の現状については理解した。尾張から眺めていたときにはこれほどとは思わなかった。良くこんなに損傷した艦を持って帰ってきてくれたものだ。
ところで、戦隊司令官用の、俺の部屋はどうなってるんだい」
巡視の案内役を務めていた当直将校と八方中佐は意味が分からずに顔を見合わせていた。
戦隊司令官といっても、この戦隊は大演習の為に臨時編成されたものだった。普段であれば、性能に違いが大きい長門型戦艦と紀伊型戦艦を一隻づつ組ませる意味はないのだ。
それ以前に、正規の戦隊司令官が戦死したことで戦隊司令官代理となった日暮大佐は尾張艦長を兼任していた。だから戦隊司令官として陸奥に大佐が乗艦する可能性は無いはずだったのだ。
海軍兵学校同期の日暮大佐が見せる茶目っ気のある笑みを八方中佐は眉をしかめたまま見つめていた。
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