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1951謀略、呉―マラッカ―キール1

 激動が続く20世紀もようやく半ばを過ぎていた。

 1951年はいわば世紀という括りの中での折り返し地点とも言える記念すべき特別な年だったのだが、この年の新年を屈託なく祝うことが出来るものは地球上でも少なかった。

 言うまでもなく、今世紀の前半をモンロー主義を掲げて眠れる大国として過ごしていた米国が、日本帝国とハワイ王国に宣戦布告を行っていたのが原因だった。



 緒戦における米国の優位は明らかだった。一個師団という国軍の総戦力を遥かに越える戦力に上陸されたハワイ王国は、短時間のうちに首都と国王を確保されて実質的に敗戦を迎えていた。

 同時に日本帝国も演習のために集結していた艦隊を前進根拠地であるトラック諸島ごと喪失していた。この初期の攻勢は日本帝国にとっては予想外の出来事だったといってよいだろう。


 米国とハワイ間は今世紀初頭のクーデター未遂事件から外交関係は常に悪かった。事件以後は経済的にも次第に米国依存から多角的な貿易へと移行していた。

 しかも欧州諸国のようにハワイ王室は複雑な婚姻関係を結ぶ事で友好国を広く構築していた。ある種の集団安全保障体制で米国を牽制していると考えていたのだ。

 ところが、米国はそうした王室外交とは無縁の存在だった。むしろ、そのような旧態依然な政治体制は自由と公正という彼らが重視する概念に反すると考えていたのかもしれない。



 一方で対日宣戦布告の理由となっていたのは、米領フィリピンで昨今盛んに活動している独立派を日本が支援しているからというものだった。第二次欧州大戦に前後して続々とアジア諸国が独立を果たしていた事に米国が危機感を覚えていたのだろう。

 日本帝国は、公式には独立派への関与を否定していたが、米国側は現地守備隊と交戦した独立派武装組織が日本製の火器を保有していたことなどから、以前より日本帝国の関与を強く批判していた。

 ところが、日本帝国の政治家達は米国の抗議を軽視していた。既に植民地を強権的に支配するには利潤と費用のつり合いが取れないというのが日本側の認識だったから、フィリピン独立運動が米国にとって重要な領土問題であるという認識が薄かったのだ。



 フィリピン周囲に存在するアジア植民地の独立は段階的に行われていたが、宗主国によってその過程はまちまちだった。旧フランス領の場合は、第二次欧州大戦中に自由フランスへの支援と引き換えにベトナム、ラオス、カンボジアの3王国が独立を取り戻していた。

 アジア諸国の独立はこれが切っ掛けとなっていたと言ってよいのだろうが、その後は地域によって独立への経緯が分かれていたのだ。


 英国領の場合は、二度に渡る大戦で多大な貢献を行ったことで人員、物資両面で疲弊した状態である植民地では、民族主義の台頭が統治コストの上昇を招くという試算を英政府内の部局が得ていた。それ故に大戦への貢献を理由として段階的な主権の移譲が行われることが早々に発表されていたのだ。

 実質的な独立だったが、一兵でも味方が欲しい為に戦時中に慌ただしく準備不足の中で独立した旧フランス領諸国などとは異なり、英国は巧みに独立に向けた準備段階を支援する中で新独立国への影響力を残していた。


 例えば、新独立国の現地人官僚はその多くが英国本土で高等教育を受けていた。経済的な混乱を避けて統治体制を移管させるにはとりあえずは英国の制度を維持して段階的に現地向けに改善していくしかないが、それには英国本土で官僚教育を受けるのが手っ取り早かったからだ。

 しかも、英国は時間をかけて独立派の民族主義者を政治家として育成する一方で、東アジアに浸透していた共産主義者を徹底して取り締まっていた。その結果、旧英国植民地は英連邦にとどまることを自ら選択していったから、ある意味においては植民地を失ってもなお帝国としての英国は健在であるといえた。



 東アジアで残る大規模な植民地を有していたのはオランダだったが、第二次欧州大戦後もオランダは英仏とは異なりアジア植民地の独立を認める気配は無かった。

 第二次欧州大戦で荒廃した本国の経済を立て直すには、これまで大きな利益を得ていたオランダ領東インド諸島の広大な植民地を手放すわけには行かないと判断していたのだ。


 しかし、オランダ本国の思惑とは異なり、そして英国政府が試算した通りに、植民地の統治コストは上昇の一途を辿っていた。しかも植民地で生産される換金作物の市場取引価格は逆に下落していた。

 戦時中は貴重な農作物は高値で売買されていたが、例えばコーヒー豆やサトウキビなどは現金収入を目当てに終戦後はベトナム王国などでも本格的な生産が始まっていたのだ。


 主食の生産よりも優先して特定の換金作物の栽培を強いられていた東インド諸島の農村部は、大戦中から続く食料品価格の高騰に耐えきれずに疲弊して独立派に与するものや逃亡するものが続出していた。

 その一方でオランダ政府は安直に正規軍を東インド諸島に投入することが出来なかった。欧州のオランダ本国を取り巻く状況は、開戦前のドイツの脅威にさらされていたときよりもある意味で悪化していたからだ。


 国際連盟軍と講和した後もソ連軍と交戦していたドイツは、本国北東部の大半を占領された状態で停戦していたうえに、その戦力は激減していた。

 首都ベルリンを追われた以前からのドイツはフランクフルトに遷都していたが、ハンブルグ市街地の半分までがソ連軍に占領された結果、ソ連の傀儡国家である北ドイツ、ドイツ民主共和国とオランダとの国境線は僅か200キロに過ぎなくなっていた。

 国際連盟軍の主力をなしていた日英や自由フランス軍に従軍していた東南アジア諸国が続々帰国した後は、再建されたオランダ軍も欧州本土を離れられなかったのだ



 オランダ正規軍に代わって東インド諸島の治安維持に投入されたのは、現地に移住した白人達によって作られた自警団だった。しかも、皮肉な事に自警団を構成する移住者の多くはドイツ系の住民だった。

 肥沃な北東部をソ連に占領されたドイツは、停戦間際に大規模な疎開を実施していたが、その結果として南西部に押し込まれた南ドイツの領域に過剰な人口を抱える事態を招いていた。

 ドイツ人、特に北東部から疎開したものの多くが、この時に国外への移住を決断していた。そしてドイツ人の集団移住を受け入れた中に、かつて本土を占領されたオランダ領の東インド諸島が含まれていた。


 東インド諸島に移住したドイツ人の中には従軍経験のあるものも数多く含まれていた。戦後、国際連盟軍に組み込まれたドイツ軍は国防軍関係者を中核として再編成されていたが、実質的にドイツ軍の一部であった武装親衛隊はむしろ積極的に排除される傾向にあった。

 武装親衛隊の中でも古参の部隊は師団ごと停戦前に陸軍に編入されていたから、武装親衛隊は停戦時には解体されたも同然だった。それどころか政党としての国家社会主義ドイツ労働者党が解体されていたのだから、党の軍隊である武装親衛隊が存在を許されるはずもなかったのだ。


 国外に移住した武装親衛隊出身者の中には、戦犯指定を逃れる為に半ば国外逃亡したものも多く含まれていた。対ソ連向けの防衛体制を構築する為に、国際連盟は戦犯の追求よりも彼らにとっての防壁となるドイツ軍の最戦力化を優先していたから、移民の中に紛れ込んでしまえば逃亡は容易だった。

 直前までソ連軍と激戦を繰り広げていた武装親衛隊出身者を中核とするドイツ人移民自警団は、先住民系に対して苛烈な弾圧を行っていた。しかも現地のオランダ総督府はドイツ人自警団の蛮行を黙認していた。

 オランダ本国政府の疲弊は、既に彼らを手先として用いなければ東インド諸島の統治が不可能になっていた。それどころか差し当たって本国では必要ないと判断されたことから、英国から購入した戦艦デ・ロイテルまでを自警団の支援として派遣していた程だった。



 だが、苛烈な弾圧にも関わらず、東インド諸島全土に広がる独立運動という火の手が収まる気配は無かった。現地の事情に疎いドイツ人自警団は、むしろ良民を弾圧して独立運動に送り込んで徒に状況を悪化させていたともいえたが、この時東インド諸島には外部からの介入があったのだ。

 最初に東インド諸島に入り込んでいったのは、東アジア諸国から追放されていった共産主義者だった。北中国等を経由してソ連の影響を受けた共産主義者は、当初アジア植民地の独立派を主導するものもあったのだが、英国が主導する政治工作によって独立派主流から排斥されるか転向していったのだ。


 しかし、追放された雑多な共産党員達の中には筋金入りの主義者も含まれていた。中には共産党の総本山であるモスクワで高度な教育と訓練を受けたものもいるらしい。

 ドイツを下したとはいえ、第二次欧州大戦でソ連が被った被害は甚大だったから、内乱に乗じて建国された中国共産党、北中国に続く勢力圏を得るために搦手で挑んできたと考えるべきなのかもしれない。

 その証拠に、独立を扇動する共産主義者がソ連の友好国となる米国の領土であるフィリピンで組織だって動く気配は無かった。旧インドシナ植民地や独立準備中の英領から脱出した共産主義勢力の多くは南下してオランダ領東インド諸島に集結していたのだ。



 これは日英にとって看過できない事態だった。未だに英国艦隊が駐留するシンガポールなどを越えてオランダ領東インド諸島に潜入できた共産主義勢力は、単に戦力としてみれば微々たるものでしかなかったが、放っておけばたちまちに不満を抱いている現地民を懐柔してしまうと考えられていたのだ。。

 東インド諸島を聖域として戦力を回復した共産主義勢力によって長期的な遊撃戦を仕掛けられた場合、折角本国の影響を残して独立させた旧英植民地が再び混乱する可能性も否定できなかった。

 それだけではなかった。日英や満州共和国、ロシア帝国などを結ぶ海上通商路は、マラヤ連邦と東インド諸島の一部であるスマトラ島の間に広がるマラッカ海峡を経由しているのだ。


 スマトラ島やボルネオ島に共産主義勢力が支配地を広げるような事態は何としても避けねばならないと判断した日英は、英国の保護国であるサラワク王国の軍備増強支援と並行してスマトラ島の独立派と接触を開始していた。

 政治的にオランダが東インド諸島植民地を手放すことが出来ない上に、彼ら自身で共産主義勢力を排除する力もないと判断した日英は、英領植民地で行っていたのと同様に、純粋な民族主義の独立派を支援することで共産主義勢力を排除する工作を行っていたのだ。


 密かに潜入していた特殊戦部隊の支援を受けてのマラッカ王国の再独立や、ドイツ人自警団の不法侵入に端を発する国境問題のサラワク王国に有利な形での決着等といった形で次第にオランダ現地政府は譲歩を強いられている様に、政治工作は結果を出しつつあった。

 そのなかで民族主義の独立運動と潜入した特殊戦部隊などから度重なる襲撃を受けた共産主義勢力は、次第に残された戦力を東インド諸島の中核であるジャワ島に集結させつつあった。

 だが、ジャワ島の中心地であるバタヴィアには東インド諸島の総督府も存在していたから、オランダ正規軍のまとまった戦力との対峙を強いられるはずだった。



 概ね成功を収めているとも言える日英の政治工作だったが、予想外の事態も発生していた。情報機関などが主導していたオランダ領東インド諸島への独立派支援の流れに影響されたのか、独自にフィリピンの独立運動を支援する動きが政治工作とは関わり合いがない一部の軍人や民間人の間に見られていたのだ。

 金銭や小火器の提供といった形で行われている彼らの行動は、純粋にアジア人同胞の解放という思想的なものが理由だった。あるいは一部の商売人達は将来的な市場や影響圏の拡大まで考えていたのかもしれないが、彼らの行動は情報機関の専門家などと比べると稚拙だった。

 堂々と日本製の小銃を現地の独立運動家に提供したことで、米国は日本政府の内政干渉と強く非難していたのだ。


 日本は不法な武器輸出を行ったとしてフィリピン独立派を援助していた実業家を逮捕することで、情報機関とは無関係に行われていた支援活動を民間人によるものと喧伝したつもりだったが、当初から日本政府ぐるみの内政干渉と判断していた米国はそうは受け取っていなかった。

 ここに両国の認識の齟齬による戦争の原因が発生していたのだが、その事に気がついた関係者はまだ少なかった。そして米国の思惑とは異なり、戦火が世界各地に広がっていくことも見通しているものは少なかった。

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