1950本土防空戦16
最近になって日本空軍には画期的な性能の戦闘機が就役していた。ジェットエンジン搭載の実験機から実用機に転用されていた四六式戦闘機の本格的な後継機として開発されていたという五〇式戦闘機だった。
五〇式戦闘機に搭載されていたジェットエンジンの中核部分は、実は四六式戦闘機に搭載されていたものと変わりないらしい。
それが二割増しの出力になって諸元上の最高速度で時速200キロ近くの上昇という性能向上が図られていたのは、補機の改善やフロントファンの変更、更には燃焼装置の自動化などによって効率化が図られていたからという話だった。
速力の向上は機体形状の最適化による効果もあったのだろうが、その機体形状が制式化されたものに決定されるまでには若干の迷走があったらしい。
夜間戦闘機隊の桑原少佐は開発時の詳細な経緯は知らなかったのだが、元々五〇式戦闘機は、エンジン効率の最適化のために四六式戦闘機では左右に振り分けていた空気取入口を機首に大きく開口する予定だったらしい。
おそらくは、胴体後部に搭載されたエンジン本体を整備で抜き出した時などには、機首から機尾まで一直線に見通せる配管のような形状になっていたのではないか。
実際にこの状態で試験飛行が行われている姿が目撃されていたこともあったから、この原型機通りの設計作業はかなり進んでいたはずだ。
ところが、実際に制式化された姿は原型機から胴体前方、上部の配置がかなり変化したものになっていた。結局四六式戦闘機のように操縦席前方には流線型の機首が突出して設けられており、空気取入口は操縦席近くで左右に分割されていたから、ジェットエンジンの流路はYの字状になっていたのだ。
ただし四六式戦闘機とは違って、増設された機首部に備え付けられていたのは機銃ではなく大出力のレーダーだった。他にも試作機段階で昨今進化が激しい電子兵装の搭載が要求されていたようだ。
特に戦闘機に搭載されるレーダーの空中線は装備位置が限られるから、原型機の特徴だった機首に空気取入口の開口を設けるという設計案は断念されたのだろう。
五〇式戦闘機で追加搭載されたのは捜索用レーダーだけではなかった。ジャイロ安定式で高速で演算を行う射撃指揮装置と、これに連動した照準器まで搭載されていた。
これは自機の機動を元に射撃後に銃弾が「流れる」点を表示するものだった。これまでは熟練した操縦員しか不可能な名人芸であった見越し射撃も照準通りに撃てば誰でも可能になるらしい。操縦員は敵機を照準器が示す点に捉えて、射撃指揮装置が表示したタイミングで引き金を引けばよいのだ。
話通りなら画期的な性能だと言えるが、満載された各種電子兵装に加えて、高速で機動する機体を操りながら複雑なジェットエンジンの操作を行うには、一人の操縦員では不可能な域に達していた。
ごてごてと電子兵装が追加搭載された五〇式戦闘機の原型機に乗った実験航空隊の操縦員だか中島飛行機のテストパイロットが、機体から降りるなり腕が3本欲しいと言ったという噂は出来過ぎている気もするが、実際に操縦員一人では戦闘機といえども最新鋭機の機能を十全に発揮させるのは不可能になっているようだ。
結局、制式化された時点では五〇式戦闘機の操縦席は後ろに伸ばされて後席が追加されていた。機体の操作に専念する操縦員に加えて電子兵装の管理運用を行う偵察員も乗り込む複座戦闘機となっていたのだ。
ジェットエンジンを搭載した複座戦闘機となった五〇式戦闘機の制式化は、四五式夜間戦闘機の存在価値にも微妙な影を落としていた。
四五式夜戦が夜間戦闘に特化した戦闘機としての価値を保っていたのは、主力戦闘機である四六式戦闘機のレーダー装備が貧弱で視界の効かない夜間戦闘が不可能だったからだが、複座ながらも単発の軽快な主力戦闘機であるはずの五〇式戦闘機は、電子兵装を駆使すれば夜間戦闘も可能だった。
これは四五式夜戦、あるいは夜間戦闘機という機種全体が陳腐化したというよりも、汎用性の高い高性能のジェット戦闘機であれば、特定の目的に特化した夜間戦闘機の任務もこなせるようになったということではないか。
今のところは就役し始めたばかりの五〇式戦闘機によって夜間戦闘機部隊の解隊が行われたわけではなかった。夜間戦闘の訓練を常時行っている搭乗員は貴重な存在だったからだろう。
だが、性能が陳腐化した四五式夜戦は、今後は満足な改修も行われないままで五〇式戦闘機に部隊ごと機種転換してもおかしくはなかった。つまり実質的に昼間戦闘機と夜間戦闘機の垣根が取り払われようとしているのだ。
五〇式戦闘機は、後席の存在によって対空誘導噴進弾の使用も可能だった。当然だが、同機は昼間の運用が前提だったから誘導弾の操作を行う後席の視界も良好だった。
それと比べると四五式夜戦における対空誘導弾の使用実績は芳しいものではなかった。そもそも機外の目視を考慮していなかった後席からの視界が劣悪だったからだ。
四五式夜戦の後席から弾頭と標的双方の機動を視野に入れ続けるのは至難の技だった。手動で誘導するとすれば、斜め銃の様に上方に敵機を捉え続けている場合に限られるだろう。
尤も、実際にはそんな軌道で誘導弾を誘導し続けるのは難しかった。投弾後の誘導弾は、エンジンに点火するまで重力に引かれつつ母機と並進しているからだ。
そこから上空の敵機に上昇を開始するとすれば、最初に誘導弾を投弾した母機の軌道と交差するし、そうでなくとも延々と視界内に眩い排気流を残して操縦員の夜間視力を潰していくことになるだろう。
四五式夜戦が現行の誘導弾を使用する場合は無理な飛行姿勢を余儀なくされた。具体的には、投弾後には唯一後席からの視界が確保されている機体上部を敵機に向け続けながら旋回をするしかないだろう。
そんな強い制限があったにも関わらず、硫黄島を出撃した桑原少佐を編隊長とする四五式夜戦は主翼下に急遽誘導弾を懸架して離陸していた。
元々、桑原少佐は開戦に伴って硫黄島基地の防衛体制を強化するために派遣されてきたばかりだった。少佐達の編隊は先行する分遣隊であり、日を置かずに本隊も移動する予定になっていた。
だが、到着を申告した時の硫黄島基地幹部の反応は冷ややかなものだった。露骨に桑原少佐達が邪険にされたわけではないのだが、最前線に増援部隊が到着したというには事務的な対応に終始されていたのだ。
あとになって飛行場隊の下士官兵などに隊付の下士官から状況を確認してみたところ、僻地である硫黄島は生活環境の維持そのものが難しいらしいということだった。
自給するために隊内で畑作なども試してみたそうだが、本土とは環境が違うせいか生産性の高い作物の栽培はうまく行かなかったらしい。この島では人が生きていくだけでも大量の物資を消耗していくというのだ。
しかも、昨今では実質的に硫黄島の民間人の生活も、数少ない定期運行船よりも、大量の物資が一度に動く軍の輸送に頼っているという話だった。桑原少佐が考えていた以上に硫黄島で消費される物資の量は多いのではないか。
基地隊の幹部が冷淡だったのも、爪に火を灯すように島内に備蓄していた乏しい消耗品を消費せざるを得ないなら、使い道に限られる夜間戦闘機隊よりも汎用性の高い新鋭戦闘機を派遣して欲しいという理由だったのだろう。
だが装備品の試験開発に従事した経験のある桑原少佐に言わせればそれは無い物ねだりに過ぎなかった。最新技術を投入した新鋭機は、性能に優れる代わりに、初期故障も多かったからだ。
特に最新の電子機材がその機体でしか使用しない専門性が高いものであれば、過酷な環境の戦地では点検整備すら困難だった。おいそれと予備や代替部品に交換が出来ないものだから、酷使されて消耗が激しくなる悪循環に陥るものもあったのだ。
それに空地分離後は、基地隊の支援能力も機体の稼働率を大きく左右する条件となっていたから、僻地でこれまでは南方に移動する部隊の中継点として活用されていた程度の硫黄島で最新鋭のジェット戦闘機を運用するのは難しいのではないか。
結局は従来よりも遥かに大量の整備員や機材を持ち込まなければ、最新鋭のジェット戦闘機の稼働率を維持することは出来ないのだ。
勿論、居候に過ぎない桑原少佐がいきなり基地隊の幹部に文句をつけることも出来なかった。今は夜間戦闘機隊の実績を重ねて彼らの認識を改めるしかないと考えるべきだった。
だが、桑原少佐の予想以上に夜間戦闘機隊の扱いはぞんざいなものだった。敵機の襲来に際して基地司令部から伝えられる命令の内容が二転三転していたのだ。
米軍の重爆撃機編隊が確認された直後から、夜間戦闘機隊にも出撃命令が出ていた。
ただし、四五式夜戦の硫黄島基地からの離陸順は最後尾になっていた。硫黄島に対する空襲という可能性が否定できなかったものだから、最初に鈍重な割に搭載機材の高価な哨戒機などの空中退避が行われていたからだ。
大型機が離陸する間に、夜戦に備えて仮眠していたところを叩き起こされた桑原少佐達搭乗員は下命された内容を確認していたのだが、すぐに顔を見合わせることになっていた。
四五式夜戦隊は、離陸後に敵機の襲来方向とは逆に北方に移動して待機を命じられていた。指定された待機空域からすると空中退避する哨戒機と敵機との間に遷移して護衛に就くようだが、本当に重爆撃機編隊による硫黄島への空襲が行われるのであれば、空中退避した機体が狙われる可能性は低かった。
実際には大型機の護衛という名目で四五式夜戦も空中退避を命じられたようなものではないか。あるいは、単に護衛の手当が他に付かなかっただけかもしれない。
この出撃が命じられた際には、司令部から兵装の指定は特に無かった。要は放任ということだったのだろうが、桑原少佐は空中退避の長期化を懸念して、燃料と機銃弾を満載するように整備員に命じていた。
ところが、燃料弾薬の搭載を終えた四五式夜戦にようやく離陸順が回ってきて、実際に駐機所から誘導路に乗り入れたところで、離陸の差し止めを知らせる連絡が入っていた。
司令部からの冷遇にも関わらず何とか士気を振り絞って命令通りに出撃しようとしていたのだが、結局夜戦隊は複雑に配置された硫黄島基地の誘導路を迷いながら地上走行して駐機場に戻る羽目になっていた。
要は硫黄島基地を一周して帰ってきただけなのだ。地上に残された整備員達も事情は聞かされていなかった。それどころか誘導路を巡って帰ってきた四五式夜戦の姿を見て目を白黒させているものばかりだった。
無線では埒が明かないものだから、桑原少佐もいい加減腹に据えかねていた。離陸中止を告げる無線のあとには説明がなかったのだ。しかも愛機から降りたあとも戦況が分からないものだから、駐機所を離れて基地司令部に乗り込む訳にも行かなかった。
状況が判明したのは暫くしてからだった。桑原少佐達夜戦隊を差し置いて早々と離陸していたレーダー哨戒機の観測によって、硫黄島に対する空襲の可能性が薄いことが確認されていたらしい。
先に空中退避していた哨戒機も、慎重に北上を続ける敵編隊を避けつつ、既に待機空域を離れて硫黄島への帰還を開始しているらしい。こうした情報が広まるのは早いのか、哨戒機が待機していたあたりの駐機所では早々と整備員達が受け入れ準備を始めていた。
だが、前後の事情がわかっても納得した様子の搭乗員は少なかった。目標が硫黄島ではなかったということは、周辺の他島だとも思えない。北上する敵重爆撃機編隊は日本本土を空襲するつもりではないか。
夜間戦闘機隊は本来本土上空の夜間防空戦闘に投入されるための部隊だった。軽快な戦闘機との戦闘は苦手ではあったが、相手が鈍重な重爆撃機ならば昼間でもそれほど不利とはならないはずだ。
夜戦隊が硫黄島を出撃すれば敵重爆撃機編隊の背後をつけるはずだという声が搭乗員達の間から上がっていたが、司令部の命令もなしに出撃するわけには行かなかった。
搭乗員達から突き上げられた桑原少佐は、強い口調で基地司令部に基地内電話を繋いでいたのだが、当初対応した幹部の声は冷やかだった。空中退避した機体の受け入れで忙しいのか、防空指揮所に上申するとは言ったが口先だけの可能性が高かった。
硫黄島基地の司令部にはここが最前線だという認識が乏しいと言わざるを得なかった。単に自分の基地の機能が低下することだけを恐れているのだ。おそらく南方への中継点でしかなかった硫黄島基地では普段は官僚じみた補給兵站ばかりが業務ばかりだったからだろう。
もしくは、中継点だった硫黄島基地に固有の航空隊が少なく、大半が短期間で居なくなる居候ばかりだから航空機の指揮能力自体に欠けているのではないか。
無力感を感じながら桑原少佐は受話器を荒々しく戻したのだが、駐機所の隅にある待機所を少佐が出るよりも早く電話がなり始めていた。反射的に待機所の兵員が電話を取っていたのだが、少佐は嫌な予感を覚えながら振り返っていた。
なにかとてつもない面倒に巻き込まれる。そんな気がしていたのだ。
四五式夜間戦闘機電光の設定は下記アドレスで公開中です。
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五〇式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。
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四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。
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