1950本土防空戦15
純然たる夜間戦闘機としては日本軍機として初めて開発された四五式夜間戦闘機電光は、月光、四三式夜間戦闘機極光、それに陸軍の二式複座戦闘機といった改造夜間戦闘機の運用実績を反映すると共に、以前から日本海軍が想定していた理想の夜間戦闘機としての仕様を追求したものでもあった。
客観的に見れば、四五式夜戦の最大の特徴は、胴体上部、後席と垂直尾翼間に遠隔操作式の銃塔を装備していることだった。
この銃塔は極限まで小型化されていた。胴体内部には旋回機構などが埋め込まれていたが、機外に突出しているのは連装20ミリ機銃の銃身と機関部を収めた風防のみと言って良かった。
無骨な有人銃塔を装備していた月光よりも、その原型となった13試陸戦の無人銃塔に形状は近いのだが、技術革新によって可能となったレーダー照準と徹底した軽量化が実用性を確保していたのだ。
それ以外の機体構造は、四三式夜戦と同じく中島飛行機が製造を担当したせいか、概ね15試陸爆から続く空技廠で理想とされていた流線型の機体構造を踏襲していた。
機首などは、各種レーダーなどの小型化が進んで樹脂製覆いの小型化が進んだ為に、四三式夜戦よりも15試陸爆の形状に近く、空気抵抗が削減されるという結果に繋がっていた。
ただし、機体の寸法は15試陸爆の機体構造を流用した四三式夜戦よりも切り詰められていた。高速爆撃機を原型とする四三式夜戦よりも純粋な戦闘機として開発が進められていた陸軍の二式複座戦闘機に近かったのだ。
その小型化した機体には、四三式夜戦と同じくセントーラスエンジンが両翼に搭載されていた。
初期型のエンジンは補機も同型だったから新旧両機種の夜間戦闘機で出力は変わらなかったのだが、機体構造が引き締められて空気抵抗、重量共に削減された結果、四五式夜戦の方が最高速度や上昇速度では格段に有利だった。
だが、四三式夜戦に引き続いてこの新型夜間戦闘機に乗り込んだ桑原少佐にとって、最大の変更点は銃塔の復活よりも後席の配置にあると感じていた。
遠隔操作式の銃塔と同じく、後席は空気抵抗の削減を設計時から重要視されているようだった。操縦席と切り離されて胴体に半ば埋め込まれた結果、外部から見えているのは風防上面しかなかったからだ。
その一方で操縦席からの視界は、四三式夜戦と比べても向上していた。防弾板が付属する背もたれを除けば、操縦員の背面には視界を遮るものが何も存在していなかったせいだろう。
そのおかげで夜間飛行が長引くと、視覚情報だけでは暗がりの中で自分だけが頼りなく宙に浮いているような感覚を覚えることがあった。単座の戦闘機に慣れた乗員ならばそれが当然だったのかもしれないが、乗員の多い陸攻乗り出身の桑原少佐にはその感覚はなかなか慣れることがなかった。
操縦席に対して胴体内の偵察員席は驚くほど視界が悪かった。後席からは上方しか見えなかったからだ。一応頭を突っ込んで風防に顔を接するようにすれば側面までは見えるというが、湾曲したガラス面越しでは良好な視界は得られないだろう。
半球のさらに上半分しかない風防は、天蓋しかないと考えるべきだった。実質的には電波管制時に電波航法の代わりに行う昔ながらの天測と明かりとりの役にしかたっていなかった。
むしろレーダー表示面などの灯りが機外に漏れ出すことや余計な反射を嫌って、離陸したら即座に天蓋を遮蔽してしまう偵察員も少なくなかった。
四五式夜戦が後席の視界を完全に無視していたのは、見張り能力を目視ではなくレーダーや逆探などの電子兵装に依存していたからだった。
もはや、電子の目は人間の目よりも格段に遠距離から高精度で探知が可能だった。それどころか四五式夜戦では遠隔操作式の銃塔さえもレーダー照準で行う徹底ぶりだった。目視で照準を行うとすれば、斜め銃状態で固定して敵重爆撃機下方から忍び寄るときだけだろう。
だが、電子兵装が充実した四五式夜戦の性質に桑原少佐は不条理なものを感じていた。本当に従来の手法を完全に捨ててしまって良いのか、一抹の不安を抱いていたのだ。
以前桑原少尉が乗り込んでいた九六式陸攻は主操縦員と副操縦員が並列座席で乗り込んでいた他に、爆撃手や機銃手など多くの偵察員が乗り込んでいた。しかも機内空間に余裕があったものだから他の乗員の様子を確認するのは容易だった。
配置から操縦席からでは直接視認できない偵察員もいたが、それでも何度か共に飛行をすれば気配を察することが出来ていた。よく訓練された、というよりも気心のしれた乗員達はそれだけで固有の兵器と言える存在だった。
いくら技量に優れているからといっても、初対面のものばかりを集めた組ではまともに戦闘を行うことなど出来ないのだ。
ところが四三式夜間戦闘機の乗員は二人きりだった。原型機である15試陸爆の時点で一挙に乗員は三人に絞られていたのだ。
削減されたのは主に機銃手だった。鈍重な機体を防御機銃座で覆うよりも、乗員の数まで削ぎ落として徹底的に無駄を省いて手に入れた高速性能で敵機を振払おうという方針だったらしい。
それに消極的な理由ではあるが一機の陸攻が撃墜されれば最低でも五人の乗員が戦傷死することになるのだが、15試陸爆の配置なら二人少なくてすむのだ。艦爆や艦攻を陸上から運用することもあるのだから、この配置そのものにはさほどの違和感はなかったのだろう。
乗員数を絞るというこの方針そのものが正しいかどうかは分からないが、日本空軍の現行主力爆撃機が15試陸爆の流れを組んでいることを考慮すれば、少なくとも日本軍の方針が当時の海軍の判断に沿ったものである事は間違いないだろう。
それでも四三式夜戦は、振り返れば後席の偵察員の顔を確認することが出来た。最低限は乗員の一体感は得られていたような気がするのだ。
ところが、四五式夜戦では一度離陸すると偵察員の顔を見ることは無かった。作業上の問題で顔を見ることがないのではなく、物理的に乗員同士が切り離されている上に、電子機材が満載された機内を移動する事も出来なかったのだ。
しかも偵察員の作業が電子戦闘に特化した結果、教育も専門性が高まっていた。夜間戦闘機部隊の偵察員は、地上でも彼らだけで集まっている、ような気がする。
本来分隊長である桑原少佐は、地上でも乗員達を指揮監督する立場なのだが、電子機材に習熟した若い偵察員達と古手の操縦員である自分とは基本的な話が通じないのを感じていた。
電子兵装に慣れた偵察員は、第二次欧州大戦終戦後に入隊した若いものが多かった。だから後席の視界の悪さもさほど気にしていないのかもしれない。
乗員間の連絡を欠く一方で四五式夜戦は機内通話装置や通信機は充実していた。視界の効かない夜間戦闘は錯綜しがちだったから、地上や僚機との連絡が欠かせなかったのだ。
おかげで今までのように後方からの無線を聞こえなかったふりも出来なかった。別に桑原少佐は敵との交戦を厭うつもりは無かった。むしろ少佐が想定していたのは陸軍で言うところの独断専行に近い状況だった。
充実した施設がまるごと動くようなものである艦艇とは異なり、前線の地上部隊では満足な通信環境を構築するのは難しかった。末端の部隊に配備される軽便な通信機は交信距離が短いし、空中線長が短いから地形の影響も大きかった。
固定された戦場では未だに有線電話を使用するときもあるようだが、足を止めた塹壕戦ともなれば双方が腰を落ち着けて連続砲撃を行うから、地下に埋設しても電話線を切断される危険性も高かった。
だからこそ陸軍では目前の敵情を正確に把握している前線部隊の各級指揮官による独断専行が認められる場合があった。後方の司令部と連絡が取れない中でも戦機を捉えて機会を見逃さないためだ。
ただし、独断専行は後になってからその正統性が厳格に審査された。単に指揮官が勝手に行動することを許しているわけではなく、仮にその前線部隊にとっては最善の行動であったとしても、全体の戦略には合致しない可能性もあるからだ。
昨今の空中戦はそうした曖昧さを許さない域にまで達していた。情報が集約された後方の司令部の判断で、実際に敵機と向き合う戦闘機が確実に会敵出来るようにレーダー情報で誘導されるのだ。
そこに搭乗員の判断が紛れることはなかった。それどころか四五式夜戦の場合、操縦員は後席の偵察員からも切り離されていた。
無線越しで状況が伝えられるだけならば、数メートル後ろにいる偵察員も、はるか本土の防空司令部から連絡してくる通信員も操縦員には区別がなかったのだが、そのせいで四三式夜戦以上に乗員間の一体感が薄れているのではないかと桑原少佐は考えてしまっていた。
だが、多座機に慣れた桑原少佐の様な元陸攻乗りの乗員達はともかく、純粋な戦闘機隊から転科してきた操縦員は四五式夜戦の性能に満足しているようだった。操縦席に座る限りは単座戦闘機と違いがあまりなかったからかもしれない。
日本空軍の上層部も四五式夜戦の評価は高いようだった。制式化当時から充実した電子兵装を装備していた四五式夜戦は、逐次樹脂製覆い内部の電子兵装を更新していたからだ。
勿論、視界良好な状況ではジェット化された主力戦闘機である四六式戦闘機に対しては不利だったのだが、機内に電子兵装を収容する空間を確保していたことが性能の陳腐化を防いでいたようだ。
ただし、電子兵装をいくら刷新したとしても、日本空軍の主力機がジェット化を図っている中では機体性能自体の相対的な低下は免れなかった。
四五式夜戦と同型のセントーラスエンジンを搭載した機体は日本空軍内で他にもあったが、制式化時点では一線級の戦闘機でも、今では戦闘爆撃機として実質的に2線級の単座攻撃機として型落ち扱いを受けていた。
実は四五式夜戦に関しては、エンジン自体を換装する計画もあったらしい。
胴体内にエンジンが埋め込まれた単発機では抜本的なエンジン換装は難しかった。装備可能なエンジンの直径が機体胴体径に左右されるからだ。当然ながら高温高圧の燃焼流を排出する反動を推力とするジェットエンジンを搭載するのは原理的に不可能だった。
エンジンの換装を続けていた単発戦闘機というと先の大戦では英空軍のスピットファイアや日本陸軍の一式戦などがあったが、スピットファイアが搭載したエンジンはマーリンエンジンの補機が更新され続けていただけだったし、一式戦もエンジン直径ではなく気筒数の増大を図っていったらしい。
だが、両翼にエンジンナセルを備えた双発機ではエンジンの換装は不可能ではなかった。極論すれば胴体の構造に手を加えることなく、エンジンナセルだけをすげ替えてしまえばいいことになるからだ。
詳細設計まで行われたかどうかは分からないが、四五式夜戦のジェット化も考慮されたという噂もあった。レシプロエンジン機のジェット化は無理があるような気がするが、15試陸爆の設計をこねくり回して四五式爆撃機に至ったという前例が存在していたから不可能ではなかった。
ただし、四五式爆撃機の実績からするとジェット化は機体特性を大きく変化させるはずだった。場合によっては機体構造の大幅な変更が必要となるし、既存機から改造を行うことも難しいだろう。
このような問題を避けるために、四五式夜戦には純粋なジェットエンジンではなく、ターボプロップなる新型エンジンを搭載する計画だったとも言われていた。これはジェットエンジン中枢の外側に空気の流れを作る現行のフロントファンを拡大したものと言えるらしい。
ジェットエンジン本体の前方に減速機を備えてレシプロエンジン同様にプロペラを回す、という形状になるというから、外観的には既存機体とほとんど変わらないのではないか。
ターボプロップエンジンでも後方に排気される燃焼流があるというが、四五式夜戦の配置なら両翼後方に高温高圧の燃焼流が発生しても支障はないだろう。
だが、良いことずくめであるように思えるエンジン換装計画は、ある時期を境に話が聞かれなくなっていた。後に残されたのは無責任な噂だけだった。
もはや日本空軍は夜間戦闘機の活用など考えていない。そんな噂が広まっていたのだ。
四五式夜間戦闘機電光の設定は下記アドレスで公開中です。
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四三式夜間戦闘機極光の設定は下記アドレスで公開中です。
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夜間戦闘機月光の設定は下記アドレスで公開中です。
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二式複座戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。
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二式複座戦闘機丙型(夜間戦闘機仕様)の設定は下記アドレスで公開中です。
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四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。
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四五式爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
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