1950本土防空戦11
平坦な地形が連続するとはいえ、面積が限られるグアム島では米軍と言えども大規模な土木工事なしにこれ以上の航空基地を増設するは難しいだろうというのが、開戦前に同島の偵察を行っていた日本空軍の判断だった。
その一方でマリアナ諸島には他にも航空基地の適地が存在していた。日本の委任統治領である南洋諸島のうち、グアム島から僅か200キロほどしか離れていないサイパン島には小規模ながら空港が整備されていたし、他にも既に航空基地が建設されている島よりも容易に適地が得られる場所もあった。
グアム島から両島までは旧式のレシプロエンジン搭載機でも一時間もあれば往復可能なのだから、僅かな数の守備隊しかいない両島は短時間の内に米軍に占領されてもおかしくはなかった。
開戦以前から南洋諸島に居住する邦人の数は減少していた。第一次欧州大戦の終戦後に締結された条約でドイツの海外植民地から日本帝国の委任統治領となった頃は日本人移民が奨励されていた時期もあったのだが、組織的に編成された移民団の数は少なかった。
その頃は既に大戦の影響で日本本土は工業化が進んでいたから、主に農村部で発生していた過剰人口が海外に流出する前に、国内の工業界が貪欲に取り込んでいたのだ。
当時は日本本土で食い詰めて海外に打って出るにしても、条件の良い関東州や国内扱いの台湾などに渡る方が多かったのではないか。
工業化が進む以前、明治期に国策として南米などに渡っていた移民層も、現地で生まれた二世や三世の中には親族を頼って好景気が続いていた日本に逆移住するものも少なくなかった。
それどころか、狭義の意味での日本本土であるはずの沖縄などの離島ですら最近は本州などへの人口流出が顕著となって問題化しているほどなのだから、国策移民を南洋諸島に送り込んでも早々に計画は破綻していたのではないか。
南洋諸島の統治機構は、極短期間の軍政期を除けば拓務省管轄の南洋庁がこれにあたっていたが、海外領土ではなく将来的に現地人国家として独立させることを目的とした委任統治領であったためか、内務省や外務省などからの出向者も多かった。
その後は南洋庁の指導によって現地人の自治組織が育成されていたのだが、旧弊な社会構造は近代的な政治が難しく、島単位の自治体を試行錯誤しながら構築するのが手一杯だった。
最近では、アジアの植民地が続々と独立していることを鑑みて、南洋諸島においても早期の独立を問う住民投票を実施してはどうかと日本国内では議論されていたのだが、そもそも各島の住民すべてが投票を行う選挙という制度自体を理解しているかは分からなかった。
結局のところ現在の南洋諸島の地方行政とは、従来の酋長制度を村長や区長と言い換えただけに過ぎなかったのだ。
この現地民の各種指導にあたる南洋庁の職員を除けば、南洋諸島に在住する日本人は漁業関係者の比率が多かった。南洋諸島には手付かずの海洋資源があったからだ。
南洋庁による現地人への近代漁業支援を尻目に、大型の遠洋漁船で乗り込んだ日本漁船団は膨大な漁獲量を手にしていた。この漁船団への支援に加えて、南洋諸島でも比較的大きな島の中には現地人を雇用する水産加工工場が次第に誕生していた。
南洋諸島で漁獲された水産物をそのままの形で延々と日本本土に運ぶには、高価な冷凍設備を持った大型船が必要だったから、現地で取られた水産物を缶詰や鰹節など長期保存可能な形に加工する工場が南洋諸島に作られていたのだ。
だが、南洋諸島に長期間居住する漁業関係者の数は限られていた。というよりも、漁船団相手の商売人を除けば家族ぐるみで移住するものは少なかったのだ。現地で工場を立ち上げた後は、少数の管理人以外は賃金を抑えられる現地人雇用に切り替えるという工場は少なくなかった。
漁業の他にサトウキビを原料とする製糖工場もあったが、やはりこれも現地人による産業の育成という側面も無視出来なかった。第一、製糖産業に関しては国内産業の育成のために沖縄や台湾の方に資本が集中する傾向があった。
結局現地の邦人集団は短期の単身赴任者ばかりという人口構造からすれば歪な構造となっていた。南洋諸島では日本人はあくまで異邦人だったと言えるのかもしれない。
南洋庁による衛生、医療指導などの甲斐もあって南洋諸島各島の現地人の方は次第に人口が増えていたが、それでも組織的な移民を募っていたハワイ王国などと比べると人口増加率は低く、西太平洋に点在する南洋諸島全体でも人口は6万名に満たないといった所だった。
この人口数ではとてもではないが経済性が悪すぎて独自の空路を維持するのは難しかった。それどころか現地人の大半は生まれた島から出る事すらまれだった。
元々南洋諸島は旧ドイツ植民地の範囲を受け継いでいたから、現地人の政治体制や距離感とは全く無関係だった。隣接する島嶼部同士ならばともかく、同じ南洋諸島といっても例えば北部のサイパン島と南部のトラック諸島では住民の慣習や風俗は全く異なるのだ。
不定期運航の飛行艇航路や日本海軍が拠点として整備したトラック諸島を除けば、南洋庁本庁があるサイパン島以外にろくな空港がないのはそれが理由だった。南洋諸島の現地人達には長距離移動の必要性が無かったのだ。
先の大戦頃までこの方面の警備にあたっていたのは、連合艦隊麾下の第四艦隊だった。形の上では連合艦隊司令部直下で主力をなす第一から第三艦隊、実質上の潜水艦隊である第六艦隊と同格であるようになっていたが、実際には北方を警備区とする第五艦隊と同様に警備艦隊に過ぎなかった。
第四艦隊は旧式の軽巡洋艦を旗艦としていたが、実際に艦隊司令部が旗艦に乗り込む機会は少なかった。担当する哨戒海域が恐ろしく広いものだから航続距離の大きい大型艦ばかりが配備されていたが、その内実は旧式艦や特設艦などの戦闘能力の低い艦艇ばかりだったといえる。
警備部隊である第四艦隊の主力は少数の艦艇ではなく、根拠地隊に配備された水上機部隊といえた。実際にはグアム島を監視する部隊を除けば、主任務は警備というよりもサイパン島あたりを根拠地とする長距離漁船団などに対する救難活動を想定したものだったのではないか。
日本海軍の想定では、実際に南洋諸島で戦端が開かれていた場合、主力となっていたのは第四艦隊では無かった。戦力に乏しい第四艦隊が敵主力と正面から交戦しても、短時間で殲滅されてしまうだけだろう。
第四艦隊が戦力整理後に第五艦隊と共に近年兵部省海上保安局に編入されていたのは、連合艦隊を純粋な戦闘部隊として再編成するという大戦後の一連の軍縮に則ったものだったが、同時に第四、第五艦隊を海軍がどう見ていたかを証明していた。
日本海軍は、仮想敵である米艦隊が南方から侵攻してきた場合は、日本本土から出撃した大規模な航空部隊を南洋諸島に急速展開させる予定だった。各島で予め調査されていた航空基地の適地に、機械化された設営部隊を集中投入して一挙に大規模な拠点を建設するという方針だったのだ。
第四艦隊やトラック諸島に展開する根拠地隊で索敵した敵主力艦隊を、南洋諸島各地に急速展開した航空部隊が波状攻撃をかけて漸減することで、本土から日本海軍主力が来援する時間を稼ぐのだ。
この航空部隊の展開要地には、想定されていた戦局によっていくつか候補があげられていたが、おそらく最も大規模な基地が建設が可能だったのはテニアン島だった。
南洋庁の本庁があったサイパン島に隣接するテニアン島は、欧州列強の植民地支配を受ける間に強制移住を受けて無人島となっており、今では半ば野生化した豚以外に住民はいなかった。
航空基地を開設するにあたって予め現地人を退去させる必要がない上に、テニアン島は平坦な地形が連続していた。しかも、人口が多いサイパン島に隣接する為に補給も容易だった。
つまりサイパン島に建設された既存の空港を拡張するよりも、土木量の大きい工事でも短時間で完結できる機械化設営隊が投入できるのであれば、最初からテニアン島に航空基地を開設する方が有利な点が多かったのだ。
だが、海軍基地隊と共に設営隊の一部を受け継いだ日本空軍では、昨今この急速展開方針に些かの疑問が出されていた。
日本空軍の主力部隊はジェット化が進められていたのだが、ジェット・エンジンの大出力によって搭載量と高速性能を両立させたジェット機は、同時に運用面での脆弱性もさらけ出しているのではないかというのだ。
彼らの根拠は、史上初めてジェット機を集中投入したドイツ軍の戦績から得られた戦訓にあった。ドイツ軍が言うところの東部戦線、つまり対ソ戦終盤においてジェット・エンジンを搭載した戦闘機であるMe262が実戦投入されたのだが、その戦果はドイツ軍の期待を裏切るものだった。
当時、総統暗殺事件の余波を受けてドイツ空軍の上層部は刷新されていた。そこで、新上層部の判断で本来戦闘爆撃機として運用されるはずだったMe262は、純然たる戦闘機として部隊配備が急速に開始されていた。
ゲーリング総統代行の下で暫定的な空軍の司令官となっていたのは、戦闘機総監の職についていたものだったのだが、彼はMe262の試乗で高速性能に惚れ込んでいたらしい。
個人的な思惑はともかく、高速爆撃機とされていた初期型の同機からは、爆装関係の機材もそのままに戦闘機として対ソ戦に投入されるべく東に向かっていた。
だが、集中的に投入されたMe262の戦果は散々なものだった。一部の部隊は粘り強く後退戦を戦い抜いていたのだが、従来型の戦闘機から機種転換した部隊の多くは戦果をあげられないどころか、機材の損耗ばかりが積み上げられていた。
しかも、それまでソ連機を何機も撃墜していた撃墜王達の中にも、乗り換えたばかりのMe262を御しきれずに呆気なく撃墜されるものが多かったらしい。
そのせいか、今でもドイツ空軍の一部ではジェット機に関して懐疑的な搭乗員がいるらしいが、傍から見ればある意味で当然とも云える結果に過ぎなかった。
Me262を高速爆撃機として運用すべしと判断していたのは、一説によれば暗殺されたヒトラー総統本人であったらしいが、結果的に見ればこの点においてはヒトラー総統の判断は誤ってはいなかった。
十分な熟成なしに投入されたMe262は、高速性能と引き換えにエンジン出力の急速な上げ下げや機敏な動作を苦手としていた。単に機体の特性が向いていないというのではなく、貧弱なファンで駆動するジェットエンジンは理想的な空気流入が必要だったのだ。
つまり従来のレシプロエンジン搭載戦闘機の様に機敏な機動を行うのではなく、本来は爆撃機の様に高速直線飛行で敵機を振り払うべきだったというのだ。
Me262で戦果を上げた部隊も、詳細に調査していくと元爆撃機乗りで構成された部隊だったために、愚直に一撃離脱を続けていたといったものばかりだった。
だが、日本空軍が注目していたのは具体的なMe262の戦果などではなかった。そもそも状況を考えれば画期的な新兵器が活躍して戦局が一変することなどあり得なかった。
ドイツ空軍の誤りは十分な習熟期間を置くことなく従来戦闘機の搭乗員をMe262に載せ替えてしまったからというのが日本空軍の結論だった。
むしろ問題とすべきは空中戦の戦果などではなく、地上における事故率だった。脆弱な離着陸時に敵襲を受けて撃破された機体を除いたとしても、Me262の事故率は高かった。しかも前線に向かうほど事故率は急速に高まっていった。
既にドイツ空軍関係者の聞き取りで原因は分かっていた。重量がある上に離陸速度が早いジェットエンジン搭載機を簡素な野戦飛行場で運用すること自体に無理があったのだ。