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1950本土防空戦4

 海軍航空隊が当然のことながら設立当初から対艦攻撃をその主任務と考えていたのに対して、陸軍航空隊が地上部隊に囚われない独自の戦術を策定することが出来た時期は比較的遅く、ようやく1930年代になってからのことだった。



 偵察機や襲撃機を用いた地上部隊の直接支援任務や戦闘機による制空権の確保といった基本的な任務を除けば、日本陸軍の航空隊は敵航空勢力自体を標的とした航空撃滅戦を独自の戦策と定めていた。

 それまで曖昧なところが残されていた陸軍航空本部の機材研究方針が具体的なものに改められたのは、仮想敵であるソ連軍が有する膨大な数の空軍機という現実的な脅威が背景にあったからだ。


 友邦シベリアーロシア帝国救援の為にユーラシア大陸北部が仮想戦場となると考えていた日本陸軍の航空隊が対峙するソ連航空戦力は強大だった。日本陸軍の航空隊とロシア帝国空軍を合わせても、根拠地である欧州側から増援を送り込めるソ連赤色空軍に対して数的には劣勢を免れなかったのだ。

 とてもではないが、最前線の上空で漫然と戦闘を繰り返しても、彼我の回復力から不利な状況は覆せないという想定があったものだから、日本陸軍は開戦と同時にソ連軍機が離陸する前の在地状態で焼き払うという航空撃滅戦を指向するしかなかったのだ。



 日本陸軍の重爆撃機や長距離偵察機はこの時に想定された航空撃滅戦を実施するための機材だった。

 例えば他国に例のない長距離偵察専用の司令部偵察機は、ソ連側に点在する赤色空軍の航空基地を敵地深く進入して偵察する為のものだったし、最前線に展開する敵戦闘機の妨害を突破する為に、重爆撃機は自衛火器を増強すると共に速力と航続距離を要求されていた。


 日本陸軍の重爆撃機は、他国の同級機と比べると額面上の爆弾搭載量は少なかったが、それは防御や燃料に重量を割り振っていることに加えて、重量が軽い割に嵩張る集束爆弾などを多用する為だった。

 敵航空基地に列線を敷いて在地する敵機に対して、長駆進攻してソ連軍が対処する前に一気に焼き払うのが日本陸軍が有する重爆撃機隊の役割であり、先の大戦中も英国本土に展開した部隊はフランス本土などに前進配置されていたドイツ空軍基地を執拗に狙って夜間爆撃を多用する英空軍を支援していたのだ。



 大戦後に誕生した日本空軍の攻撃機部隊も、海軍と陸軍の航空隊に与えられていた任務を引き継いで航空撃滅戦と対艦攻撃を目的としていた。その両任務を全うできる機体として期待されていたのは、ジェット・エンジンを搭載することで高速性能と搭載量を両立させた双発機である四五式爆撃機だった。

 四五式爆撃機の原型となっていたのは以前海軍空技廠が開発していた一五試陸上爆撃機だった。その名の通り同機は急降下爆撃が可能な機体強度を有していたのだが、実際にはより機体規模の大きい一式陸上攻撃機の後継機として捉えられていた機体だった。

 大出力エンジンを双発で備えた一五試陸爆の搭載量は一式陸上攻撃機と大して変わらなかったのだが、機体を小型化して3座に抑えた上に翼面荷重が小さいことから高速で進攻することが可能だったのだ。


 皮肉なことに一五試陸爆の機体性能自体は高かったものの、第二次欧州大戦中は雷撃という攻撃手段自体の危険性や航続距離と搭載量を重要視していた一式陸攻の脆弱性が明らかとなったことで、その後継機開発計画自体が宙に浮いていた。

 機体自体は優秀と認められていた為に、大戦中は試作エンジンの実験機や夜間戦闘機の母体などに転用されていたのだが、それは陸上爆撃機という機種本来の有り様ではなかった。


 ところが、英国本土から疎開してきた技術者が開発したジェット・エンジンを搭載する実験機に転用されていたことから、試作機止まりで制式化もされていなかった一五試陸爆がにわかに注目を浴びていた。

 ジェット・エンジンを搭載して高速化された一五試陸爆は、新生空軍の関係者が求めていた手頃な寸法で高速の爆撃機にふさわしい性能を有していたからだ。


 初期に開発されたジェット・エンジンの燃料消費量はひどく高いものだったのだが、技術者ごと日本に疎開してきた英国製のエンジンは燃費を改善させるフロントファンを備えていた上に、燃焼器の改善などで実験機の段階でも増槽を抱えれば要求されていた航続距離を達成出来ると判断されていたのだ。

 この時点ですでに実戦投入されていた夜間戦闘機仕様などの一五試陸爆から枝分かれして開発されていた機体からの改善点を折り込みつつも急遽制式化された四五式爆撃機は、空軍の主力機として次第に従来機からの入れ替えが行われていった。

 既に後継機となる機体が日英で共同開発されていたが、その機体も四五式同様の双発高速爆撃機であるという噂だった。



 だが、青江少尉達が乗り込む空中指揮官機の原型となっていたのは、軽快な高速軽爆撃機という言ってみれば空軍主力攻撃機の開発方針からは大きく外れた機体だった。

 その機体は一式重爆撃機の後継機として考案されたというが、実際の所は原型機が指向していたのは一式重爆撃機とは異なるものだった。敢えて類似した特性の機体を探すとすれば、純然たる戦略爆撃機であった英空軍のランカスターあたりではないか。

 重爆撃機ではなく、しばしば超重爆撃機と呼称されているのは空前の巨人機であったことも理由の一つだったが、従来機と大きく変化している機体の性格も無視出来なかった。


 第二次欧州大戦中に陸軍爆撃機隊の主力機材であった一式重爆撃機は、重装甲と重火力で敵機の妨害を跳ね除けながら前進するという方針の機体だった。

 4発で防御火力なども充実した機体だったから同時期に運用されていた九七式重爆撃機と比べても高価であり、当初は開発方針自体に対する批判の声も大きかったようだが、大損害を出した一式陸攻と比較すると初陣となったプロエスティ油田への爆撃作戦では驚く程の損害の低さを発揮しており、一挙に評価は上がっていた。

 戦時中は海軍航空隊の一部でも使用していたほどだったから、高高度飛行性能を向上させた最終生産型である四型などは戦中の酷使にも耐えてまだ空軍でも稼働中だった。


 尤も一式重爆撃機は4発の大型機とはいえ日本陸軍の機材整備方針から逸脱したものではなかった。従来の重爆撃機と同様に機体規模からすると諸元における額面上の爆弾搭載量は少なく、航空撃滅戦を指向した機体だったからだ。

 大雑把に言えば、一式重爆撃機が双発ではなく4発となったのは、増えたエンジン出力分で性能向上が著しい戦闘機や対空砲火に対抗するための防御兵装などを増備したためだと言えるのだろう。



 ところが一式重爆撃機の後継機という建前だったにも関わらず、空中指揮官機の原型となった機体の搭載量は従来機よりも格段に大きく見積もられており、同時に航続距離も不自然なほど大きかった。

 また、全幅で60メートルを超えるという機体寸法は、開発開始当時としては実現性を疑わせる程に大きく、手作りに近い試作機の製造程度ならばともかく、制式化されて量産された場合は生産や整備に必要な機材から一新する必要がありそうだった。


 書類上はともかく実用的に見ればこの原型機は純粋な一式重爆撃機の後継などでなかった。大出力のブリストル・セントーラスエンジンを6基も装備した巨人機は、対米戦を見越して直接米本土を爆撃可能な戦略爆撃用の超重爆撃機として性能が定められていたのだ。

 現実に米国との戦争が始まった今では先見の明があったといえなくもないが、実際には発案者にそこまでの深慮遠謀があったとは青江少尉には思えなかった。それほど空中指揮官機の原型となった機体は破天荒なものだったからだ。



 本来であれば既存の方針から大きく逸脱した鈍重な大型機の整備計画など空軍上層部が黙殺しそうなものだが、実際には少なくとも兵部省による航空技術育成という建前の元で試作機の製造が認められていた。

 提案者が日本の二大航空製造業者の一つである中島飛行機の創設者でもある中島代議士でなければ、一式重爆撃機の制式化直後に提案された時点で一蹴されてもおかしくはなかった。


 ただし、製造されたのは将来の実用機の原型となる試作機というよりも、実験機と変わりない段階の機体だった。恐ろしいことに増加試作機の名目で何機か製造された機体は1機1機が随分と異なる形状をしていたからだ。

 おそらく空軍上層部としてはこの超重爆撃機を制式採用するつもりはないのだろう。兵部省としても実戦機というよりも大型機製造の経験を中島飛行機に積ませるつもりででもあったのではないか。


 実際に中島飛行機はこの機体の開発で得られた経験を活かしていたのであろう大型旅客機を計画しているというが、詳細は青江少尉も知らなかった。大戦終結後は余剰機の払い下げがおこなわれていたから民間航空も競争が盛んであるらしい。

 あるいはどこかで話がねじ曲がっていただけかもしれない。中島飛行機、というよりも中島代議士は何を思ったのか同機を現地の航空会社を巻き込んで英国空軍に売り込んでいたからだ。



 空中指揮官機は原型機の爆弾倉にレーダーを埋め込むと共に、機内の与圧室を拡張してレーダー操作員の作業空間を確保していた。レーダーの空中線を収めるレドームがひどく目立ってはいたが、改造箇所を除けば機体の基本構造は原型機のままだった。

 空中指揮官機の直接の原型機となっていたのは、本来は超重爆撃機仕様として製造されていた初期の機体だった。防御機銃座や電子兵装など一部の艤装は省かれているか代替の重しが載せられていたのが、基本的には実戦に投入される爆撃機と同等の仕様とされていた。

 つまり初期設計案のまま各種の空中運用試験を終えた機体を、試験終了後に空中レーダー搭載機として転用していたのだ。


 空中指揮官機型は巨人機を飛行させる為に、片側で3基ものエンジンを吊り下げた恐ろしく幅広い主翼を有していた。単発の戦闘機どころか四五式爆撃機でも片翼だけで包み込めそうな広さだったが、実際にはそれでもまだ揚力が不足している感があった。

 未だ実用化試験の最中である空中指揮官機が南の果ての硫黄島に派遣されたのは、温暖な南方における環境試験や防空体制の強化といった様々な理由があげられていたが、最大の理由は本土では大半の飛行場でも滑走距離が長過ぎるこの巨体を持て余すからではないか。



 ところが製造された機体は少ないのに、現行の最新型は空中指揮官機の原型機とは随分と形状が変更されていた。ここ数年で急速に発展した航空技術を反映させて頻繁に設計変更が行われていたのだ。

 変更箇所は細かな艤装だけではなかった。馬力不足を補う為にエンジンはジェット化が進められていたからだ。セントーラスエンジンの代わりに搭載されたジェット・エンジンは四五式爆撃機に搭載されていたものと同型だったが、さらなる大出力エンジンに換装する計画もあるらしい。

 しかもエンジンを吊り下げる主翼自体も大きく変更されていた。空中指揮官機の原型機は一式重爆撃機に類似したテーパー翼形状を採用していたのだが、英国に売り込みをかけているという最新型では高速性能を向上させる後退翼形状になっていたからだ。


 ―――もしかすると日本空軍でもいずれはこの手の大型機を運用していくことになるのだろうか……

 空軍に転属した後、行先もなく流されるままに奇妙な機体の操縦を任されていた青江少尉は、ゆっくりと上昇しつつある空中指揮官機の主操縦員席から海面を眺めつつそう考えていた。

 すでに海面からは空中指揮官機が落としていた影は見えなくなっていた。硫黄島周辺の白波も消え失せた太平洋は、蒼穹と変わりない青さを青江少尉に見せつけていたのだが、少尉はふと機内通話装置から聞こえてきた声に視線を鋭くしていた。

 例の巨大なレドーム内に収められたレーダーが早くも敵編隊を発見していたようだった。

一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1hbc.html

四五式爆撃機天河の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/45lb.html

四三式夜間戦闘機極光の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/p1y1.html

九七式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97hb.html

五二式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/52hb.html

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