1950本土防空戦3
新設された日本空軍には3種類の将兵が所属していた。陸軍航空隊出身者と海軍航空隊出身者、それに今後増えていくのであろう空軍生え抜きの将兵だった。
だが空軍は出自がどうであろうとも、操縦員を元の階級に関わらず全て士官とする方針をとっていた。海軍から転属する直前に飛行兵曹長に昇進していた青江少尉が空軍に転籍されたと同時に促成教育を受けて少尉に任官していたのもこの方針が理由であった。
操縦員を一律で士官とする方針は海陸軍航空隊時代の旧弊を打破する為だった。
これまでは海陸軍共に操縦員になるには概ね2つの手段があった。兵学校や士官学校を卒業して少尉となったものが飛行教育を受けて士官搭乗員になるものと、下士官兵が搭乗員に選抜されるものだった。
戦時中は若年層向けの航空学校が拡大されていたが、これも下士官兵の搭乗員を育成するものだから後者に属するものと考えてよいだろう。
将来の航空部隊幹部たる士官搭乗員とその他の搭乗員を大量育成するためにこのように分断された教育課程は、同時に部隊に配属されたばかりで飛行時間の短い新米士官が熟練の下士官搭乗員を空中で率いらなければならないという階級の問題を抱えていた。
これが陸上や艦内であれば大きな問題とはならなかった。仮に歩兵小隊に配属された新米少尉の小隊長が50人もの下士官兵の前で右往左往したとしても、大抵の問題は古参の先任下士官が補佐できるからだ。
極端に言えば、陸上では腕っ節で指揮官である小隊長が一番弱かったところで問題はないのだ。士官に要求されるのは指揮能力であって直接銃を撃ったりすることではないからだ。
しかし、空中戦は個人の技量や経験から定まる操縦能力がものを言う世界だった。技量の劣る新米士官がいても、単座の機体では誰も補佐できないからだ。一律で操縦員を少尉にしてしまう空軍の制度は、この指揮権問題を強引に解決する為のものだった。
操縦員の皆が少尉であれば、腕が良い順から編隊長にしても問題は起きなかった。もちろん指揮権には階級に加えて先任順もあるが、飛行戦隊など固有の部隊に関する指揮権ならばともかく、臨時に構成される編隊内の指揮官程度ならば部隊指揮官の判断で融通が効く範囲だった。
今後増えていく空軍生粋の操縦員に関しても、従来の下士官兵操縦員に相当する航空学生制度は正規の操縦士となった時点で、空軍士官学校卒の操縦士官と同階級となる少尉に任官されるようになっており、その後の昇進速度はともかく階級では横並びとなるはずだった。
指揮権問題を解決するための全操縦員の士官化は、裏を返せば要するに空軍では少尉ばかりが安売りされるということになるのだろう。だから空軍内で士官になったとしても、少尉の間はあまり偉ぶれないのは確かだった。
それに空軍創設期に限られるのだろうが、些か喜劇的な状況もあった。強面の古参曹長も、戦時中の促成教育を終えて昨日今日操縦士になったばかりの飛行兵も一律で少尉になったからだ。
指揮権や技量といった問題は除くとしても、階級章だけでは隊内で誰が上位にあるのかさっぱり分からなくなっていたのだ。空軍の新しい軍衣には、当然海陸軍に残していた善行章の類が縫い付けられていなかったこともこれに拍車をかけていた。
一々元の階級を相手に聞くのも煩わしかったが、そもそも階級の呼び名は同じ軍曹でも海陸軍では微妙な立場の違いがあるし、青江少尉のように意に沿わない転籍を強いられるものへの詫びのつもりなのか、転籍直前で昇進を受けたような場合は階級だけでは判断がつかないこともあった。
そのあたりならば、まだ下士官出身者同士の笑い話で済むのだが、空軍操縦員の士官化は他兵科との軋轢も生んでいた。
下士官兵から一気に少尉に昇進したのは、実際に航空機の操縦桿を握る操縦員だけだった。というよりも、この方針の原因からすれば、本来の対象は単座の戦闘機乗りに限られていたのではないか。
操縦員だけでも正副が乗り込むような大型機の場合は、実際に機体を操作する正操縦員が最上級者とは限らなかった。指揮に専念するために偵察員が機長という場合も多かったからだ。
それに仮に新米少尉の操縦員が機長の機体があったとしても、副操縦員に古参操縦員をあてれば操縦自体を補佐させることは可能だった。
多座機の操縦員も士官任官の対象となったのは、機種転換などで頻繁に装備機が変化する為に実質的に操縦員を特定の機種に固定することが出来なかったからだろう。
だが、海軍で言うところの偵察員や陸軍の操縦員を除く空中勤務者といった同乗者は昇進の対象外だった。勿論飛行場で整備や警備にあたる基地隊の下士官兵も同様だった。だから操縦員のみが少尉任官したことに他科の古参下士官は内心面白くない思いをしているのではないか。
相手が青江少尉のように曹長から士官になった古参の下士官ならばともかく、操縦員というだけで昨日までは格下だった飛行兵に敬礼しなければならないとすれば軋轢も生じるだろう。
つまり空中戦における指揮権の矛盾を解決する筈だった操縦員の総士官化という画期的な手段は、別の矛盾を生み出す原因となっていたのだ。
実は空中指揮官機の操縦席内でもこの類の問題が発生していた。中々に例のない6発機となったこの巨人機は、正副の操縦員に加えてエンジンの調整管理を行う機関士として新たに設けられた機上整備員が操縦席配置となっていた。
だが、エンジンそのものを扱うためか、機上整備員は操縦員ではなく整備員から選抜されていた。もちろん整備科の下士官兵は士官昇進の対象外だったから、機体の操縦作業に従事していると言ってもおかしくはないのに、機上整備員は下士官のままだったのだ。
空中指揮官機を操縦する3人は、見事なまでに出自が異なっていた。最も若い初村少尉は空軍航空学生の一期生でまだ見習いのようなものだし、機上整備員の塚原曹長は、元々陸軍航空隊で重爆撃機を装備する飛行戦隊の整備隊で長年エンジンの整備を専門でやっていたらしい。
正操縦員の青江少尉にはひどくやり辛い配置だった。確かめてみたわけでは無かったが、年かさの塚原曹長と自分とでは入隊時期は殆ど変わらないらしいはずだったからだ。
正規の昇進速度で陸軍曹長にまで上り詰めたのであれば、塚原曹長の方が転籍前の昇進で飛行兵曹長になっていた青江少尉よりも先任かもしれなかった。それが整備出身というだけで海軍出身の青江少尉よりも明確に下の立場になったのだから、陸軍の古参下士官だった塚原曹長には面白くはないだろう。
逆に初村少尉の方はその様な下士官と士官の間にまたがる微妙な問題に無頓着だった。あるいは存在に気が付いてもいないのかもしれない。時に無神経に思われる程に、そもそも初村少尉は軍内の階級にさほど重きをおいていないようだった。
正規の士官教育を受けていても、空軍航空学生制度は戦時中の損耗を前提に操縦員の大量確保を狙って創設された海軍の予科練と同様の操縦員育成に特化した教育課程だったから、士官としての教育も青江少尉達のような促成教育でしかなかった。
おそらく航空学生出身の少尉達は今後もさほど昇進は望めないだろうから、事さらに階級にこだわりが薄いのではないか。
尤も初村少尉と同じく、空軍上層部もおそらくこうした階級問題に無関心だった。初村少尉は単に入隊して間もなく娑婆気が抜け切っていないせいかもしれないが、空軍上層部は単にこうした問題など些細なものとしか考えていないのだろう。
海陸軍航空隊の集合体である現在の空軍は、とりあえず戦隊や航空隊を旧所属毎に分けていた。従来の航空艦隊や飛行師団といった大規模な部隊編制になってようやく旧海陸軍混成になる程度だった。
勿論、徐々に空軍生粋の新兵を配属していくことで各部隊内の将兵を平均化して入れ替えていくのだろうが、旧所属から持ち込んだ使用機材が海陸軍で異なるものだから、熟練の操縦員や整備員を出自が異なる部隊に異動させるのは困難だったのだろう。
それに機材以前に早急に統一しなければならないものも少なくなかった。空軍独自の被服や階級章などの記章に加えて、単純に言語の統一も大きな問題だったのだ。
海軍機と陸軍機では黎明期における技術導入先が異なっていたものだから、航空機の艤装手法や操縦法が異なっていた。
しかし、実戦部隊の将兵からすればそれは大した問題ではなかった。どのみち機種毎に操縦法や配置は大小異なる点があるからだ。同一製造業者の機体でも型式が異なれば操縦の癖は変わるものだった。
余程のことがなければ、その程度は機種転換訓練で補える範囲内だし、昨今は兵装や電装品の発達が急速だったから、航空機の艤装は海陸軍間の差異よりも世代間の格差の方が体感的に大きいのではないか。
むしろ空軍内の問題はそうした個々の機体同士の差異ではなく、それより根本的な単語の段階にあった。
例えば電波を使用するいわゆるレーダーに対して、青江少尉の古巣である海軍では艦載や陸上配置を問わずに、電波を用いる探信儀という捉え方をして電波探信儀、略して電探と呼称していたのだが、陸軍では仮に同型の機材を使用していても電波警戒機という全く異なる単語で呼称していた。
このように比較的新しい単語だけではなく、以前からある単語でも海陸軍で異なる場合は少なくないし、甚だしいものになると同じ発音の単語でも全く別の意味になったりすることもあった。
単語に加えて一部は使用する単位系まで異なるものだから、機体の手引書すら記述を統一出来ないでいたのだ。
おそらく空軍上層部では何度も激論が繰り返されたのだろう。空軍所属将兵の割合で言えば旧陸軍航空隊出身者の方が遥かに多いはずだが、人数割合だけで使用言語を陸軍系に統一してしまうと、陸軍航空隊に吸収されたという意識がどこかにある海軍航空隊出身者からの反発は相当なものになるはずだった。
そして最終的に空軍上層部は単語の統一を放り投げていた。どちらかを採用するというのではなく、外来語の発音そのままを公式用語として採用してしまったのだ。
その結果、海陸軍どちらの出身者にとっても古参の将兵になるほど日常の課業においても困惑することになった。初村少尉は何のためらいもなくレーダーといったが、青江少尉が電探という単語が咄嗟に出てくるように、塚原曹長も電波警戒機と脳裏で置き換えているのではないか。
先の大戦中に特殊な機材として運用が始まったレーダーは、今では各軍共に欠かせない機材として戦法に組み込まれていた。単に早期警戒用の見張り機材として使うだけではなく、敵レーダーを遠距離から察知する逆探や妨害機器などの開発も盛んになっていた。
青江少尉が操縦するこの空中指揮官機も積極的なレーダーの運用を目的としたものだったのだが、実際には空軍内部の運用機材に関する政治的な論争の結果誕生したものとも言えた。
空中指揮官機と言いつつも、硫黄島から離陸したこの巨人機は大規模な攻撃隊などの先頭に立つ機体ではなかった。
むしろ、そうした用途には長距離無線機の増設に加えて支援用の電波妨害装置などの特殊な電子機材を追加搭載して指揮機能を高めた電子戦闘機を投入する筈だった。
巨大な爆撃機を原型としていたが、空中指揮官機は攻勢用の機材では無かった。もちろん攻撃隊の支援を行うことはあり得るだろうが、本来は防空戦闘時に迎撃を行う戦闘機隊の支援を行う為の機体だった。
原型機では長大な爆弾槽が配置されていた胴体下部に大遠距離から索敵可能なレーダーを搭載したのが空中指揮官機の特徴だった。
言ってみれば地上配置の長距離見張りレーダーを空中に持ち上げる為の機体だったのだが、世にも奇妙なレーダー配置のおかげで空中指揮官機は本来の主翼とレーダーの空中線を押し込めた樹脂製のレドームが重なることで遠目にはまるで複葉機の様にも見えていた。
―――操縦するには離陸にも電探を引っ掛けそうになって面倒な機体だが、流石にこいつが量産されることは無いのだろう。
レーダーが作動したという声を聞き流しながら青江少尉はそう考えていた。空中指揮官機の原型となった大型爆撃機は、そもそも制式化されていない増加試作機に過ぎなかったからだった。