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1950本土防空戦2

 終戦後に海軍航空隊と陸軍航空隊を統合して空軍が誕生すると言う話を欧州の戦場で初めて聞かされた当時、まだ海軍飛行兵曹長だった青江少尉は漠然と自分は海軍に残留するものと考えていた。

 母艦航空隊は統合の対象外となると同時に聞かされていたからだったのだが、それだけに本土帰還後に空軍移籍の打診が来たのは、青江少尉にとって青天の霹靂となっていた。



 海軍航空隊の中で空軍に部隊ごと移籍することになっていたのは、哨戒機部隊を除く基地航空隊だった。多くの場合、艦載機や対潜艦艇と共同で対潜水艦戦闘を行う哨戒機や、離着艦の為に特殊な技量を必要とする母艦航空隊は、専門性が高いために海軍の強い意向で海軍側に残留するとされていたのだ。

 しかも、この時点でも海軍側には基地航空隊の空軍移籍を防ぐ抜け道が残されていた。艦載機を運用する母艦航空隊は当然のことながら海軍に残されるのだが、陸上から運用する部隊であっても、その予備部隊という形にしてしまえば母艦航空隊と同様の扱いになったのだ。


 尤も母艦予備航空隊の捻出は空軍の統合とは無関係に戦訓から導き出されたものでもあった。大戦中盤に発生したマルタ島沖海戦などでは、母艦自体は無事でも陸上基地との熾烈な航空戦で搭載機の消耗が激しく実質的に無力化された航空戦隊が多かったのだ。

 中継点の構築や母艦の一時的な撤退は必要だろうが、この時に後方に予備航空隊があれば、消耗した部隊と交代して航空戦隊の戦力を維持出来たのではないかとも考えられていた。

 流石に多発の重爆撃機や陸攻を装備した部隊はどうしようもなかったが、単発の局地戦闘機を装備していた航空隊でも、予備航空隊の必要性を痛感していた海軍は艦上戦闘機に機種転換させて母艦航空隊に強引に転籍させていたのだ。


 そんな涙ぐましい努力を行ってまで海軍は航空隊を維持しようとしていたにも関わらず、青江少尉は知らぬ間に空軍転籍の対象者となっていた。

 尤も青江少尉が鈍いだけで、以前からその兆候は見え隠れしていたとも言えた。母艦航空隊といっても、青江少尉が所属していたのは航空母艦ではなく巡洋艦搭載の水上機部隊だったからだ。



 10年ほど前には、日本海軍内部でも巡洋艦搭載の水上機部隊に大きな期待が寄せられた時期があった。

 水上機は、巡洋艦などから射出されて発艦し、逆に浮舟を用いて海面に着水することで、射出機とデリックさえあれば船体の設計に大きな影響を及ぼす飛行甲板などがなくとも艦上で航空機を運用できる使い勝手の良い存在として扱われていた。

 戦艦搭載の水上機は、短距離の偵察や連絡任務を除けば純粋な長距離砲戦時の着弾観測用の機材として使われていたが、艦隊主力の前衛となる偵察艦としても行動する巡洋艦の搭載機は、より長距離の索敵を行う本格的な偵察機として運用されていた。

 今のところ日本海軍大型軽巡洋艦の終尾として建造されていた利根型軽巡洋艦などは、空母機動部隊の目として使われるために備砲を前部に集中した代わりに、後部に水上機を運用するための艤装をまとめた広大な航空甲板を設けて航空巡洋艦とでも言うべき姿で就役していた程だった。


 だが、日本海軍は巡洋艦搭載の水上偵察機にさらに積極的な任務を与えようとしていた。従来の軽量の爆弾を用いた対潜警戒などの補助任務ではなく、本格的な爆装能力を与えて敵艦隊を攻撃しようというのだ。

 3座水上偵察機の場合は機体構造の限界から求められたのは水平か緩降下爆撃までだったが、軽快な複座機の場合は急降下爆撃の能力まで求められていた程だった。


 日本海軍が想定していた艦隊決戦の場合、巡洋艦搭載の水上機部隊は集合して空母艦載機と共に攻撃隊に加わることになっていた。妙高型以後の日本海軍の大型巡洋艦は水上機搭載定数が3機といったところだったから、1個戦隊4隻であれば稼働機は10機程度は確保できるはずだった。

 さらに時期にもよるが連合艦隊の隷下には大型巡洋艦で構成された戦隊が4個程度が含まれていたから、これに艦隊随伴型の高速水上機母艦に搭載されてる分も加えれば、索敵哨戒線を構築する分を除いても、艦隊決戦時に空母1隻分程度の水上爆撃機隊を追加出撃させることが可能と見積もられていたのだ。


 青江少尉も、海軍に所属していた時期は、この急降下爆撃が可能な水上偵察機の操縦士として勤務していた。大戦終盤に実用化された画期的な性能を有する水上機である四三式水上偵察機瑞雲で対艦攻撃に参加した経験も有していた。

 同機で構成された部隊は、まさに戦前の海軍が構想していた水上爆撃機隊であったのだ。



 だが、水上爆撃機隊の構想は、皮肉な事にその主力となるはずだった水上爆撃機が実現した時期には、既に破綻していたと言わざるをえなかった。

 確かに瑞雲は従来の複座水上偵察機からすれば飛躍的な性能向上があった。その能力は開戦時の主力艦上爆撃機である九九式艦上爆撃機に匹敵するという声もあった程だ。

 しかし、瑞雲が実戦投入される頃には、九九式艦爆は性能が陳腐化して久しかった。この頃になると高速爆撃機として開発された二式艦上爆撃機彗星どころか、実質的には二式艦爆と二式艦上攻撃機天山の両機種を一気に更新する四四式艦上攻撃機流星の実用化間近であったからだ。

 瑞雲は二式艦爆に速度面で敵わなかったし、大出力エンジンと爆弾倉の廃止で搭載量を拡大させた四四式艦攻には打撃力で大きな差異があった。瑞雲が25番爆弾の搭載が精一杯であったのに対して、頑丈な四四式艦攻の最大搭載量は2トン程度はあったからだ。

 それにこの時期になると、対空火力の増大した敵艦に一定の軌道を保って接近しなければならない急降下爆撃は損耗ばかりが増大するのではないかという危惧すら生まれていた。


 瑞雲に限らず巡洋艦搭載航空隊の最大の問題は、運用する水上機という形態そのものにあった。この時期の航空機は空気抵抗を削減して高速化を図る方向にあったのだが、巨大な浮舟を抱えた水上機はこの面で著しく不利だったのだ。

 巡洋艦搭載機だけではなく、水上機には進出直後の航空基地が未整備な地域でも水面を滑走路代わりに使用する代理基地隊という役割も期待されていたのだが、この方面でも水上機は時代遅れの存在になっていた。

 設営隊の機械化によって滑走路建設に関わる工期の短縮が実現化していたものだから、無理に性能が著しく劣る水上機を投入しなくとも、短期間であれば空母機動部隊を集中運用することで滑走路完成までの制空権の確保は可能ではないかと考えられ始めていたからだ。


 奇妙なことに同じ水上機でも飛行艇に関しては部隊整備に関して特に変化はなかった。長距離の哨戒や輸送に従事する飛行艇の場合は、空気抵抗を削減して高速化を行う必要性が薄かったからだろう。

 それに主胴体自体を浮揚構造とする事で、飛行中は機体重量に対する死重量でしかない浮舟が占める相対的な重量を小さく出来るのも飛行艇の利点だった。

 この利点を生かして飛行艇は大型化を図ることで長距離哨戒機や輸送機として海軍航空の一翼を担う戦力として残されていたのだ。



 海軍上層部は既に大戦中盤には水上機の運用に見切りをつけていたようだった。潜水戦隊旗艦に配備することを前提として、高性能化が図られていた高速水上偵察機の開発が中止されており、結果的に瑞雲が日本海軍最後の浮舟式の水上機となっていたからだ。

 部隊編成の点でも影響は及んでいた。巡洋艦搭載の部隊は終戦まで維持されていたものの、水上機母艦は大戦終盤には搭載機を水上機からより簡素な回転翼機に切り替えていたのだ。


 艦隊随伴型の高速水上機母艦は、排水量で同等の巡洋艦よりも充実した航空艤装を有しており、最大で20機程度の水上機を搭載可能だったのだが、既に大戦中には定数一杯まで水上機を搭載した艦は無かったはずだ。

 正規の軍艦並の速力と艦内の格納庫に加えて、水上機収容用の大容量クレーンを備えていたことから、専ら水上機母艦ではなく自衛火力を有する高速輸送艦として使用されていたからだ。


 更に多くの水上機母艦は、大戦終盤に現地で行われた改修工事で射出機と空中線を撤去した上で回転翼機を集中搭載する母艦に改装されていた。

 観測を行う砲兵情報連隊に配備されていたオートジャイロの後継機として陸軍が開発していた二式観測直協機は、武装を持たない非力な複座機ではあったものの、短距離の偵察や着弾観測に使用できる上に、野戦飛行場どころか滑走路すら必要としない使い勝手の良い機体だった。

 艦載機としてみた場合も、直接甲板から離着艦出来る為に、ある程度の面積がある甲板さえあれば射出機や収容クレーンすら不要という母艦側への負担が少ないという利点があった為に、制式化からしばらくして陸軍から購入する形で海軍も導入を開始していた。


 ただし、現在の回転翼機は飛行性能が貧弱であり、連絡機としても見ても航続距離や速度で水上機に劣っていた。

 水上機母艦が回転翼機を搭載したのも積極的な理由があったからとは思えなかった。能力に限界が見えていた水上機の搭載を廃止して、不要となる射出機も削減した。つまり高速輸送艦としての現状を追認した状態で選択できる搭載機が回転翼機だけだったというだけではないか。



 水上機母艦がそのように水上機を捨て去った後も、大型巡洋艦から航空艤装が撤去されたり、搭載機が廃止されることはなかった。青江少尉も終戦まで仕事がないまま巡洋艦に乗り続けていたのだ。

 尤もこちらも積極的な理由があったからとは思えなかった。確かに回転翼機は搭載が簡易な機体ではあったが、日本海軍の巡洋艦はその多くが艦橋構造物中央に航空艤装が集中していたから、水平な甲板が離着艦に必要な回転翼機の運用は難しかった。

 それに艦隊前方で戦隊や小隊規模で行動することも想定される巡洋艦は、長距離無線連絡用の広大な空中線が必要不可欠だったが、回転翼機を運用する場合は空中線の張り線を甲板上面で撤去しなければならないのも問題視されていた。



 第一、第二次欧州大戦後の日本海軍の大型巡洋艦には直接的な戦力とはならない回転翼機を搭載する余裕はなかった。

 欧州の激戦を生き延びて日本本土に帰還した巡洋艦群が相対した情勢は過酷なものだった。大戦中に巡洋艦保有数が対米比で著しく悪化していたのだ。

 本格的な戦時体制下にあった日本本土における船舶建造量は中立を保っていた米国を上回っていたのだが、欧州向け船団用の貨物船やその護衛艦艇の建造に傾斜していた日本と異なり、米国は無条約時代の大型巡洋艦を多数建造していた。

 艦隊で運用しきれずに予備役に編入された艦も多いとされる米海軍の巡洋艦は船団護衛にすら投入されうるとされていたから、日本海軍の巡洋艦は数上で著しく劣勢にあった。

 日本海軍の巡洋艦は、この劣勢を覆す為に既存兵装の強化さえ求められており、直接艦の戦闘能力に寄与するところのない補助機でしかない回転翼機を搭載する余裕はなかったのだ。


 青江少尉達水上機部隊は終戦後に艦を降ろされていた。その段階でも各巡洋艦の航空艤装は残されており、別用途に転用するという噂もあったが、詳細は分からなかった。

 それ以上に、青江少尉はこれまで母艦としていた巡洋艦への執着が消え失せていた。もう自分の様な水上機乗りは母艦には必要とされていないと考えていたからだ。

 そもそも大戦も終盤の方になると、巡洋艦乗組の航空科では損耗した機材や人員の補充もおろそかになっていたから、通常の課業も困難になって艦内では肩身の狭い思いをしていた。


 その後は航空隊ごと転科するという話も出ていたのだが、結局陸上に上がった部隊はそのまま解散する事となり、青江少尉の様に空軍に転属するものや、海軍内で飛行艇や回転翼機部隊に配置換えされるものに分かれていた。

 解隊式は極ささやかなものだった。戦時中の損耗で慌ただしく解隊された部隊の方がまだ厳かな雰囲気で式典が行われていたような気がするものだった。

 先が見えた水上機に見切りをつけて、解隊以前に早々と逃げ出すように他隊に転属していったものも多かったし、最後まで残ったものも淡々と押し付けられた事務処理をしているだけだった。


 だが、形容し難い思いを抱えて空軍に転籍した青江少尉は、直後に意外な立場に立たされていた。転籍と同時に即座に士官教育を受けることになっていたのだった。

二式艦上爆撃機彗星の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/d4y.html

二式艦上攻撃機天山の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/b6n.html

四四式艦上攻撃機流星の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/b7n.html

二式観測直協機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/2o.html

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