表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
600/818

1950本土防空戦1

 硫黄島基地の駐機所から主滑走路に繋がる誘導路は長大なものだったが、次々と発進する機体で渋滞して半ば誘導路は埋まっていた。優先して離陸順番が与えられていたにも関わらず、青江少尉が操縦する空中指揮官機もその渋滞に巻き込まれていた。


 これまでに例を見ないほどの巨人機であるためか、実質上は実験機でしかない空中指揮官機が飛行前に点検を行うべき項目は多かった。エンジンが始動した後の誘導路上でも各動翼の動作確認などが続いていたのだ。

 細かく各部を操作する空中指揮官機が物珍しいのか、普段なら絶海の孤島で娯楽も少ない硫黄島に勤務する基地要員が大勢見物していたのだが、離陸する機体が多いためか今日はこちらに注目するものはいないようだった。

 副操縦士の初村少尉と機上整備員の塚原曹長と分担して手早く点検項目を埋めていった青江少尉は、ふと操縦席の窓から普段とは異なる緊張感に包まれた硫黄島基地の様子に目を向けて無意識のうちに眉をしかめていた。



 本州から距離のある硫黄島は、その名の通り硫黄が採掘されることとサトウキビなどの南洋らしい農作物の収穫を除けば大きな産業は望めなかった。住民が定着したのも前世紀末だというからその歴史は半世紀程度でしかなかった。

 しかも、最大でも千人程度だった硫黄島村の人口は、ここ最近は減少の一途を辿っていた。硫黄島の主要産業である硫黄の採掘が、不安定な輸送費の上昇のために利益が低下し始めていたのがその理由の一つだった。

 他の産業であったサトウキビなどの南洋産の農作物も、投資が集中して経済が発展し続けている台湾などのほうが海上輸送費用の低さなどから価格面で有利にあったから、天候の安定しない硫黄島からの出荷体制では太刀打ちできなくなっていたのだ。

 尤もここ数年における人口流出の最大の理由は、硫黄島が要塞地域に指定されたことで島内の多くの土地が軍用地として収用されていたことだった。島民の多くは、国に土地を売り払ってより条件の良い本土や父島などに集団で移住していったらしい。


 最初に硫黄島の軍事的な価値に注目したのは空軍統合前の日本海軍だった。

 来襲する米艦隊を仮想敵と考えていた日本海軍は小笠原諸島で艦隊決戦を挑む漸減邀撃作戦を考案していたのだが、主力艦同士の決戦前に航空戦力や補助艦による襲撃で米艦隊の戦力を削ぐには、索敵と攻撃隊の拠点となる太平洋の航空基地が必要不可欠だったのだ。

 その後の国際情勢の変化や技術発展などの理由から、予想決戦海域は小笠原諸島からより南方のマリアナ諸島へと前進していったのだが、小笠原諸島の軍事的な価値はそれでも無くならなかった。

 有事の際に航空戦力を予想決戦海域近くに急速展開させる為に、硫黄島は本土とマリアナ諸島を結ぶ中継点として整備されていたからだ。


 硫黄島基地の滑走路は、ここ数年で急速に拡大されていった。航空機の大型化、高速化が進められた結果、離着陸距離、速度共に増大していったからだ。

 それに第二次欧州大戦中に艦隊主力を欧州に展開させていた日本海軍は中立国だった米国に対する抑止力として本土の航空部隊を急速展開することを想定していたから、硫黄島基地の重要度は高まっていた。


 当初は小型機用のものが複数箇所整備されていた硫黄島の滑走路は、拡大を続けた結果として広大な駐機場を含む単一の大型基地へと発展していた。

 減少した元の島民の中には軍に雇用されるものも多かったが、天候が不安定なことから不定期の航路に生活物資を頼っていた硫黄島の住民の生活水準は、皮肉な事にこの頃になると著しく向上していた。

 軍属の給与が離島手当などで割増された為に高額となっていたこともあるが、連続離発着する大型機を支援する為に硫黄島基地に貯蔵、消費される物資は多く、本土と硫黄島を往復する貨物船が増便していたのも無視できない理由だった。



 青江少尉がふと気が付くと、乗機は滑走路の端に到着していた。空中指揮官機の前に滑走路に進入していた日本海軍の四六式哨戒機大洋が離陸を開始していたが、滑走路上を加速する四六式哨戒機の動きは鈍かった。双発で装備したエンジンの出力が機体規模に見合っていないのだろう。

 新規開発の哨戒機とは言いつつも、四六式哨戒機はどことなく垢抜けない雰囲気の機体だった。実質的には四六式哨戒機は一式陸上攻撃機の簡易版あるいは再生産型とでもいうべき位置づけにあったからだ。


 九六式陸上攻撃機に続く長距離対艦攻撃機の主力として開発されていた一式陸攻は、第二次欧州大戦における航空雷撃の困難さなどから早々に二線級の扱いを受けていた。

 対空攻撃が激しさを増していた第二次欧州大戦における攻撃機は、対艦、対地攻撃を問わずに軽快な単座の襲撃機か、防護力を強化した重爆撃機が主力となっており、超長距離対艦攻撃に特化していた一式陸攻の脆弱な機体では戦場で生き残れなかったのだ。

 だが、対艦攻撃の主力機という座を追われても一式陸攻に仕事がなくなったわけではなかった。その優れた航続距離が評価されて、今度は手頃な多発哨戒機として運用されていたからだった。



 一式陸攻が投入されたのは、主に航路上の対潜哨戒任務だった。英国やアジアから欧州を繋ぐ航路近くに設定された拠点から、船団を援護する為に敵潜水艦の制圧を行っていたのだ。

 元々多数の乗員を乗せていた一式陸攻は、専用の対潜哨戒機として開発されていた東海よりも肉眼による監視には有利だった。そこで対潜監視任務には過剰な自衛火器を除き、航空魚雷が収まっていた爆弾槽には対潜機材と航空爆雷を載せ替えて哨戒機として運用されていた。


 だが、広大な哨戒範囲を担当することで航続距離の限界まで飛行する事が多かった上に、画期的な対潜機材である磁気探知機の使用条件である低空飛行を多様するようになった一式陸攻は、大戦中の酷使で急速に機体寿命を縮めていた機体が多かった。

 黎明期ほどではないにしても、今でも製造された航空機が一線級の性能を保ち続けていられる機体寿命はさほど長いものではなかったのだが、設計時の想定を超えて酷使されたことで、特に哨戒部隊に転属された一式陸攻は機体構造の疲労が予想以上に進んでいたのだ。


 部内では哨戒機として使い勝手の良い一式陸攻の代替機を求める声が上がっていた。本来対艦攻撃機としての一式陸攻の後継には、空技廠で試作されていた15試陸上爆撃機があったのだが、これは3座の双発高速機だったから哨戒機としての後継にはなり得なかった。

 哨戒機としての一式陸攻の後継機として四六式哨戒機として制式化された機体は、元々は一式陸攻の木製化を目指して製作されていた試作機だった。

 高価な特殊金属系の原材料が不足する状況下での航空機製造という本来この試作機が想定していた事態は、結局第二次欧州大戦中もアジア植民地やシベリア―ロシア帝国との通商路が確保されていた為に日本本土を襲うことはなかった。

 本来なら木製一式陸攻は数ある実験機の一つとしてひっそりと姿を消していったのだろうが、代替素材である木製化による重量化に対応するために一部が簡素化された機体構造が逆に評価されて、急遽純粋な哨戒機として設計変更されていたのだ。


 完成した四六式哨戒機は、一見すると一式陸上攻撃機から兵装をはぎ落とした様な特徴のない機体だった。最終的には木製ではなく全金属製のありふれた機体として完成していたから性能的にも要目表だけ見れば特筆すべきものはなかった。

 機体形状は一式陸攻譲りの流麗なものだったが、高速化が進む昨今は空気抵抗を削減する為に流線型の丸みを帯びた機体ばかりだったからこれも特徴とはなり得なかっただろう。


 ただし、機内には特殊な対潜機材が満載されていた。大戦終結で生産数が限られたこともあるのだろうが、搭載品を含めた取得価格は一式陸上攻撃機と大して変わらないらしい。

 つまり四六式哨戒機は、外観の割に高価な機体ということになるのかもしれなかった。基地航空隊の多くを空軍に移籍された海軍にとっては貴重な機体なのだろう。



 青江少尉は次々と離陸していく四六式哨戒機を滑走路の端から眺めていた。燃料を積めるだけ詰め込んだ彼らは、例外なく硫黄島から北へと向かっていた。硫黄島が空襲を受ける可能性がある為に、鈍重な大型機は空中退避を命じられていたからだ。

 離陸許可を出す管制塔に視線を向けた後も、青江少尉は1つ違えば自分もあの哨戒機に乗り込んでいたのではないかと考えていた。


 通信機を操作していた初村少尉が離陸許可が下りたことを告げると、青江少尉は塚原曹長に振り返っていた。6基のエンジンに関連する計器が集中的に配置されていた計器盤を慎重に確認していた塚原曹長は、緊張した顔で異常なしとだけ言った。

 機体の最終点検を終えた後も、青江少尉は即座には離陸を開始しなかった。青江少尉は、主操縦士であって機長ではないからだ。

 だが、後部の作業室にいた篠岡大佐は、あっさりと離陸を指示していた。機長とは言っても空中指揮官機の機能は機体そのものとは殆ど関わりないようなものだから、操縦作業そのものに気負うところがないのだろう。


 ―――また妙な機体に乗せられたものだ。

 そう考えながらも青江少尉は空中指揮官機のエンジン出力を上げて加速を開始していた。同時に青江少尉の目は、離陸直後から翼を翻して変針していく四六式哨戒機の姿を捉えていた。

 こんな鈍重で奇妙な機体ではなく、自分もあの中のどれかをいま操縦していてもおかしくはなかったのだ。未練がましくそう考えながら青江少尉はスロットルレバーを操作していた。



 滑走路正面に視線を戻した青江少尉の耳には、まだ緊張している様子でエンジンの運転状況を報告する塚原曹長の声が聞こえ続けていた。今のところエンジン出力は順調に上昇していたが、専任の機関士が必要となるほど6基のエンジンを同時に操作確認するのは難しかったのだ。

 空中指揮官機が両翼に搭載したエンジンは、英ブリストルで開発されたセントーラスエンジンを中島飛行機でライセンス生産したものだった。同エンジンは先の大戦終盤において陸軍航空隊で活躍した四四式戦闘機や一式重爆撃機四型にも搭載されており、実績のある大出力エンジンだった。


 四四式戦闘機は二千馬力を超える大出力エンジンを搭載したことから搭載量も多く、主に襲撃機代わりの戦闘爆撃機として運用されていた。大戦終盤に投入されたために実際にドイツ軍と交戦する機会は少なかったが、20ミリ機関砲4門に加えて開戦時の軽爆にも匹敵する爆装を有していた。

 陸軍航空隊と海軍航空隊の一部を統合して空軍が誕生した後も、生産数は少なかったがその汎用性の高さから四四式戦闘機は現役部隊に残されていた程だった。


 最大で一トン程度の爆装さえ可能な四四式戦闘機に満足な機動性を与えていたのは、頑丈な機体構造に加えてセントーラスエンジンの高い能力に起因するところが大きかったのだが、そのセントーラスエンジンを6基も搭載していながら空中指揮官機の加速は鈍かった。

 東北東に向かって伸びている滑走路の半ば近くに達した空中指揮官機は、急速に空になりつつある駐機所を横目で見ながら、強い振動を伴って加速を続けていた。



 ようやく振動が止まって膨大な荷重を支えていた主脚が浮かび上がったのは、拡張を続けた結果3千メートル級に伸びた硫黄島基地主滑走路の端部近くに空中指揮官機が達した頃だった。滑走路の先は僅かな林を越えるともう海岸線だった。

 眩い陽光で浜辺に明瞭な影を落としながら上昇を続けた空中指揮官機は、すぐに海上に出ていた。機体に異常が無いことを確認して安堵のため息を付きながら青江少尉は主脚を引き込めていた。


 空中指揮官機はまだ各種の試験も終えていない実験機だったから、背後で塚原曹長も同じように無事な離陸を終えて安堵した様子だったのだが、経験を積ませるために離陸直後から操縦を任せた初村少尉だけは屈託ない様子でいった。

「レーダー作動高度まで上昇しつつ旋回を開始します」

 ゆっくりと事前の命令通りに西に向けて硫黄島上空を旋回する空中指揮官機の操縦席に勤務するのは僅か3人しか居なかったのだが、同じ日本空軍に所属しながらもその立場は大きく異なっていた。

 僅かな単語一つからも、海軍から空軍に移籍した青江少尉は戸惑いを無くすことがまだ出来なかった。

四三式夜間戦闘機極光の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/p1y1.html

哨戒機東海の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/q1w.html

四四式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/4hf.html

一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1hbc.html

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 本土防空戦ですか… 史実のような焼け野原はもうゴメンです。頑張ってくれ、空軍! [一言] 600話おめでとうございます。 今後も応援させていただきます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ