1950グアム島沖遭遇戦21
これまでの戦訓からすると異例とも言える米軍による開戦奇襲攻撃を可能としたのは、おそらくはフランス通信社の記事にあった新型爆弾という記述の存在なのだろう。
固有の新兵器が国家戦略を左右するというのはおかしなことに思えるのだが、新型爆弾という呼称はトラック諸島を占領した米軍関係者による発言なのではないか。
米軍関係者も新型兵器の詳細まではフランス人記者には漏らさなかったが、宣伝として米軍の強大さを語った部分に誇張はないと考えるべきだろう。
トラック諸島への奇襲攻撃に投入された新型爆弾の威力は極めて大きかった。少数の重爆撃機編隊だけでトラック諸島が停泊していた艦隊ごと無力化されていからことでそれは立証されていた。
というよりも、米軍による戦略的な奇襲を可能としたのは、少数機でも大規模な攻撃が可能なこの新型爆弾を前提としたものと考えるべきだろう。
外務省の人間が言ったように、高高度から投下することで戦艦さえ撃破できる可能性のある大重量の誘導爆弾を用いたとしても、停泊していた艦隊の数を考慮すれば大規模な、つまり事前に戦略的な移動の兆候が確認できる数の攻撃隊でなければこの規模の損害は生じないからだ。
逆説的に言えば米軍はこの戦争を短期で終結させる見積もりを立てているはずだった。トラック諸島への攻撃や同時期に行われたハワイ王国の占領を実施した部隊を除けば、米本土内における大規模な動員は確認されていなかったからだ。
企画院の分析によれば、米国内における産業界や軍工廠も戦時体制に再編成されている兆候はないらしい。米国内の株式市場などは公開されている情報が多いから、膨大な資金が必要な工場の新設などは隠せるようなものでは無いからだ。
ただし、それ以前から米国内部における一部科学研究費用の流れには不自然なものがあった。先端科学、特に物理学の分野に傾斜した政府資金の投入が見られたのだ。
日本帝国及び同盟国である英露は、仮想敵となるソ連とその友好国である米国の経済や先端技術の調査を長期的に行っていたのだが、不自然な資金投入に日英露が気がついた切欠は意外なものだった。
米国内の物理学とは関わりが無いある分野の研究者が、政府資本が特定分野に偏って投入されているのは公平ではないと訴えていたのだ。しばらくしてからその訴え自体がなかったことにされていたのだが、情報が封鎖されるより前に英国がその調査に乗り出していた。
米国内の調査は日本では企画院が担当していたが、主に経済面における公開情報を中心に分析している日本のそれとは異なり、英国ではやはり人種の利点があるためか密かに諜報員まで米国内に潜入させていた。
その調査によって北米に秘匿された研究都市が存在することが確認されていたが、その調査結果を閲覧出来たのは軍関係者では統合参謀部の一部高級将校に限られていた。
実は、日本でも同様の先端技術研究が行われていた。
しかも仮想敵国に対する調査と同様に日英露の共同計画となっていたのだが、秘匿性という点では米国よりも高かったかもしれなかった。統合参謀部でも秘匿された研究都市の正確な場所を知らされているものはいないのではないか。
技術者達の間では公然の秘密となっているが、ロシア帝国領のシベリアに秘匿された研究都市が存在していた。関係者の間では研究都市への招集をシベリア送りと呼ぶ俗語まであった程だ。
ただし、正確な研究都市の位置を知るものはいなかった。都市付近まで重機材の搬入などを考慮して船便が用意されているのは明らかなのだが、乗組員や船内は厳重に調査選別されたものばかりだった。
都市への入り口はある意味で分かりやすい所にあった。アムール川の河口とハバロフスクの間に分岐点があるからだ。
旧首都サンクトペテルブルクなどが存在する欧州側領域をソ連に不当に占拠されたと正統性を訴えるシベリア―ロシア帝国にとっては、ハバロフスクは仮首都という扱いだったが、河口から急速に拡張を遂げている同市間の河川交通量は、厳冬期には氷結して航行できないにも関わらず相当に多かった。
それでも研究都市への航路が秘匿出来たのは、河口近くの入り組んだ支流に入り込む必要があったからだった。
アムール川は、ハバロフスクより上流の中露国境線付近の流域を含めて、厳冬期以外はシベリア鉄道が開通した後も主要な交通手段の一つとして用いられてきた。
河川交通と聞いてもせいぜいが利根川水域程度を想像するので精一杯の日本人的な感覚では信じがたいが、河口から千キロほどもあるハバロフスクまででも外洋航行可能な大型貨物船が遡行する事も珍しくなかったから、鉄道では難しい大重量貨物を運ぶには船舶輸送は欠かせなかった。
ただし、河口付近では支流も数多く存在していた。水先案内人がいなければすぐに迷い込んでしまうような大半の支流は、大規模な治水工事などには縁がないから合流点から直ぐに曲がりくねって大型船の航行を阻むか、あるいは前人未踏の湿地帯が広がる荒野で何処とも知れずに消え失せるだけだった。
研究都市への航路もそうした一つらしい。浚渫工事などが行われたかどうかは知らないが、合流点から曲がりくねった名もないアムール川の支流を越えると、シベリア鉄道などからは直接伺うこともできない距離にいきなり都市が現れる、らしい。
秘匿された冬季の交通や人員輸送用のシベリア鉄道からの支線もあるというが、いずれもロシア軍の厳重な監視下にあるという話で、支流の河岸には監視哨どころか固定された魚雷発射管まであるという噂もあった。
いくら大河とはいえ、回避行動の自由が効かない河川航行中に雷撃されれば、どんな船でも一溜まりもなく破壊されてしまうだろう。
つまりシベリアの研究都市とは、前人未踏の僻地そのものを情報保全の手段とする為に建設されたと考えてよいのだろう。
勿論そんな土地に研究都市を建設する費用は膨大なものであった筈だ。切欠が何なのかは分からないが、研究都市は単一の、例えば米軍が使用した新型爆弾といった特定の研究を行うものではなく、最新の研究設備を備えた複合的な施設であるようだ。
というよりも、大戦中に秘匿すべき研究施設を一纏めにした結果が都市の建設だったのではないかと小野田大佐は考えていた。
厳密には公開されたものでは無かったが、最近陸海軍で採用された電気式計算機を組み込んだという画期的な射撃指揮装置もその研究都市産であるという話だったが、研究都市では複雑な数値が絡み合う射撃計算よりもさらに高度な計算を行う最新の計算機なども導入されているのだろう。
それだけに研究都市に関しては高度な機密性が保たれていた。存在そのものは関係者では公然の秘密だったけれども、表立って研究都市のことを話題にするものはいなかった。
だが、逆に言えば研究都市産の研究成果に正面から言及出来ない事が正常な議論を阻害する結果につながっていた。
フランス通信社が曖昧に記載している米軍が投入した新兵器の正体を語ろうとすれば否応なく研究都市にも言及しなければならなかった。日本でも進められているという先端技術に触れずには議論のしようもなかったからだ
異論を唱えた外務省の人間もこれは予想外だったのか、詳細を知るもの、知らないもの、それに何かを察した他の出席者のが入り乱れて会議室内には白けた雰囲気が漂っていた。
誰もが牽制しあっていた雰囲気を吹き飛ばしたのは栗田大将だった。
「状況がどうであろうと、米軍の奇襲を見抜けずに艦隊に損害が生じた責任はすべて連合艦隊司令長官たる小官にある。
小官は責任を回避するつもりは……」
重々しい調子で栗田大将は口を開いていたが、大将が言い終わる前に衛兵が前に詰めていたはずの会議室の扉が無造作に開けられていた。呆気にとられて小野田大佐が振り向くと、不機嫌そうな老人が室内を無遠慮に見回していた。
老人は兵部大臣の永田退役大将だった。後ろに見慣れない神経質そうな顔の男を従えていたが、二人とも背広姿に違和感があった。
永田大臣は先の大戦が終結するまでは現役の陸軍軍人だったから、その人生の大半は軍衣を着込んでいた。そのせいで現役定限年齢を越えた今でも背広姿が似合っていなかったのだろう。
大臣と共に入室した見慣れない男の方も背広は似合っていなかったが、その理由は大臣とは違っているように見えた。
男は中年に差し掛かっているようだが、軍人らしい体格ではなかった。むしろ分厚い眼鏡をかけた顔立ちから普段は白衣か作業衣でも着ているのが似合っていそうだった。
男が軍人だったとしても技術関係の軍属といったところなのだろうが、眼鏡のレンズ越しに見えるその目は現役の軍人達と並んでも違和感がないほど鋭く光っていた。
永田大臣は空いた席に勝手に腰を下ろすと言った。
「諸君、軽挙妄動は避けろよ。これまでに判明している今回の開戦に関する経緯は、御前会議で全てご説明申し上げた。陛下からは、開戦に至ったのは残念だが、これ以上将兵をいたずらに失うことないようにとの仰せを頂いてきた。
栗田大将、そういう訳だから君の出した進退伺は見なかった事にする。御聖断が下されたのだから責任問題をとやかく言うのは後回しだ。今は、我々に何が出来るかを確認しておきたい」
そう言って永田大臣は会議室内を睥睨していた。その姿は、しばらく前までは兵部大臣をいかに早く辞任するかと考えていると噂されていたのと同じ人物とは思えなかった。
軍令機関の頂点にあたる統合参謀部が戦時中に誕生したのと比べると、軍政機関を集約した兵部省の設立はやや遅れていた。
二度に渡る欧州大戦において欧州に派遣された陸海軍部隊の統合運用の必要性から統合参謀部は求められていたのだが、軍政機関の変更は軍令機関よりも擦り合わせなければならない法的な問題などが少なくなかったからだ。
それ以上に、現地での戦闘に直接は関与しない軍政関係を戦時中に慌てて統合を図る必要性が無かったのも兵部省設立が遅れた理由だったのだろう。
第二次欧州大戦が集結した後に陸軍航空隊と海軍航空隊の一部が分離統合されて空軍が誕生した事で、ようやく三軍の軍政を統一する兵部省が、旧陸軍省と海軍省、それに両省が管轄する数多くの学校や研究機関を統合して誕生していたのだ。
欧州大戦の終結によって軍縮が進められると考えられた時期に、陸軍省と海軍省に加えて空軍省まで並列して存在していては不経済という理由は些か乱暴なものだったが、最大の問題は巨大な省庁となった兵部省そのものではなく、これを指揮すべき兵部大臣の人選にあった。
実務を執り行う官僚や軍人達はともかく、内閣の一員でもある陸相、海相に変わる大臣をどう選出するかは、政治的に厄介な論争を引き起こしていた。
それまでの陸相、海相のどちらかを任命させるという案は早々と無くなっていた。どちらを選んでも選ばれなかったほうの軍が騒ぎ出すのは明白だったからだ。
いっそ兵部省管轄大臣としてどちらも残せばいいと言う妥協案も、新設された空軍関係者による根強い反対で消え去っていた。
軍部大臣現役武官制が過去のものとなった今、新設の兵部大臣にも政党政治家を充てればよいという声もあったのだが、その大臣候補の政治家にも問題は残されていた。