1950グアム島沖遭遇戦19
軍政本部を置くために米軍が接収したホノルルの高級ホテルは、老人にとっては以前から馴染みがあるものだった。
老人は、ホノルルからやや距離があるオアフ島の農業地帯に、クーデター前から大地主だった父から相続した邸宅を構えていたのだが、ホノルルでの仕事が長引いた時などは官公庁街から程近いこのホテルに宿泊した事も少なくなかった。
それに、老人が財務部長を努めていた際は、外国から訪れた要人や大手商会の代表などと政府機関の庁舎内ではなく適度に格式ばった場所で面会する必要がある時もあったから、英国資本で欧州風の内装で固められたこのホテルの会議室などを借り受けた事も一度や二度では無かったのだ。
ホテル内では、本来この場を取り仕切っているはずの従業員が、慌ただしく出入りする軍政本部のスタッフや武装している占領軍の将兵に気圧される様に所在なげにしていたが、その中でも古株のものは軍政本部付士官の案内でホテルを出ていく老人に思わせぶりな視線を向けるものもいた。
本来なら老人に案内などいらなかった。士官がつけられた理由は案内というより監視なのだろう。
だから老人は不安そうな表情を浮かべている顔見知りの従業員を見つけても素知らぬ顔をしたまま言葉一つ交わさなかったし、それどころか目立たない様に古株の従業員に合図してこちらに注目しない様に促していた。
幸いな事に監視の目は老人に集中していた。英国資本とは言え、このホテルの従業員として雇われているものは、現地の先住民系ハワイ人が大半だったからだ。
雇用にかかる費用を考えれば従業員の大半は現地のものにせざるを得ないし、高級ホテルに外国から訪れるような上客に異国情緒を味あわせるには、英国人の給仕では興冷めされてしまうからでもあるのだろう。
白人が大部分を占める米軍将兵がホテルの従業員に警戒心を持ち合わせていないのは、ハワイの先住民は自分達が討伐したインディアン達同様に文化レベルの低い遅れた人種であるという侮りがあるのだろう。
そっと目立たない様に離れた古手の従業員達の様子を横目で見ながら、老人は内心でため息をついていた。自分が手をくださなかったとしても、いずれ米国軍によるハワイ統治は破綻する、そう確信していたからだった。
ホテルの玄関口には、老人が軍政本部に到着した時と変わらずに、前後を憲兵用の大型バイクに挟まれた一台の英国製自動車とその運転手が待っていたのだが、やはり護衛というより監視役の憲兵は、燦々と降り注ぐ陽光から逃げ出す様に、バイクから降りて日陰で涼んでいた。
老人の目には、ごてごてと装備品を追加して酷く醜く見える軍用のハーレーダビッドソンには、不用心なことに大口径の拳銃弾を使用する短機関銃が弾倉ごと車体側面に据え付けられたホルスターに突き刺さったままだった。
だが、老人が乗ってきた四人乗りのオースチン7の前には降りた時と同じ様にして運転手が待ち受けていた。帽子を目深に被っていたから運転手の表情は伺えなかったのだが、愉快な思いをしていなかったのは確かだった。
軍政本部に出入りする米軍将兵は、無遠慮な視線をオースチンとその前に立つ有色人種の運転手に向けていた。老人が所有するモデルは第一次欧州大戦終結からまもない時期に製造された一台で、英本国では旧式化していた。
しかも、オースチン7は本来は国家の重鎮である老人のような立場の上流階級が乗るような高級車ではなく、英国本土では安価な小型大衆車の類だった。エンジン出力でいえば老人宅に乗り込んできた憲兵達のハーレーダビットソンと同程度でしかないのではないか。
だから、無骨でも最新式で大馬力のハーレーダビッドソンと老人のオースチンを比べると、米軍将兵の目には草臥れた化石のように見えているのだろう。
運転手の肌の色からハワイ先住民系だと考えたのか、米兵達の中には陽光の元で主人を待って立っている運転手と旧式車を一緒にして奴隷根性とあからさまにあざ笑う声を上げるものもいるようだった。おそらくハワイ先住民には米語による俗語など理解出来ないと考えているのだろう。
だが、実際には聞くに耐えない罵声の類であっても彼らは理解していた。別に米語に精通している必要などなかった。兵隊達の態度や表情を見れば言葉よりあからさまにその内容を理解する事が出来るからだ。
嫌悪感を露わにした老人の雰囲気を察したのか、案内の士官が叱責する声を上げていた。その声が聞こえると慌てて憲兵達も愛車に向かっていたが、その光景を無視するように老人もオースチンに乗り込んでいた。
老人のオースチン7が旧式化していたのは確かだったが、それでもこの車両はハワイ王国では珍しい自家用車だった。
最近では輸出用の作物などを集積するために、近隣の日本が輸出した貨物車などはある程度島内でも見られるようになっていたが、まだこの国では自動車自体が希少だったから、なんということはない貨物車でも珍しがった子どもたちが追いかけてくる位だった。
勿論車両用の道路なども未整備だったから、元々馬車用の舗装路が作られていた英国本土内の道路事情で設計されていたオースチン7をハワイ国内で使用するには車体にかかる負担も大きかった。
それでも、オースチン7は運転手によって丁寧に整備されて磨かれていた。
ハワイ王国では予備の交換部品もなかなか手に入らないのだが、定期的な整備を欠かさずに自らの手で行っていれば、部品の交換時期や摩耗度は自ずと把握できるようになるから、定期的に来島する貨物船を利用して事前にオースチン社の日本法人などに部品を注文しておけば、大体の不調は回避出来た。
それに取り外した部品も再整備すれば摩耗は隠せなくともある程度の再利用は可能だった。そうして騙し騙し運用していた苦労の結晶が、老人が乗り込んだオースチン7だった。
だからこそ老人はこの愛車を貶した米兵に不快感を抱いていたのだ。
―――半世紀も北米でぬくぬくと引き篭もっていたものに何が分かるものか……
そのように老人は考え込んでいたものだから、最初は運転手の違和感に気が付かなかった。
「お屋敷の方でよろしかったですか」
聞き慣れない声だった。オースチン7の運転手席は老人が乗り込んだ左後方の席とは斜向かいだったが、狭い車内で見間違えることは無かった。
本来は要人は運転手席のの背後に座るべきだと言うが、大人二人分の重量を右側に偏らせて小型のオースチン7の貧弱な足回りに負担を掛けないようにと理由をつけて、いつも老人は視界の良い左側後ろの席に座っていた。
だが、老人が呆気にとられていた時間はそれ程長くはなかった。すぐに男が古い知り合いである事に気がついていたからだ。
この男に会うのも随分久し振りな気がしていた。最後にあったのは、老人が亡き父と共にクーデター未遂事件に関わっていた時期ではないか。
不思議と大きな時の流れが生じる時にばかり現れる男だった。あの時も、日本人がハワイ王室に婿入りさせた皇族を守る為にクーデターに介入する可能性が高いとこの男に示唆された為に、老人は父や友人達を説得してクーデター派から離脱していたのだ。
そのおかげで老人はクーデター後もハワイに残留した米系市民のまとめ役として王室から許されたのだと思っていた。その幸運からすれば、最後までクーデターに関わってハワイを追われたものから裏切り者扱いされた事など大したことでは無かった。
思ったよりも感慨にふけっていたのか、中々発車しないオースチン7を憲兵や士官が不審そうな顔で覗き込んでいた。老人は殊更に不機嫌そうな顔を作ると、家だとだけ言った。
そして走り出した車内で老人は言った。
「……君は、どうしたのかね」
馬力は小さくともオースチン7の旧式エンジンががなり立てる音は大きく、姿の見えない正規の運転手の名前が男に聞こえたか分からなかったのだが、不思議と男と老人の会話は成立していた。
「運転手さんはお屋敷にいらっしゃいますよ。今日はお休みとのことです。それで、会談は如何でしたか」
それを聞いて今更に老人は疲労を感じていた。オースチンの後部座席に背中を深々と預けると、老人は酷くしわがれた声でいった。
「あいつらは半世紀前から何も変わっておらん。自分達の……アメリカ人の常識は世界中どこででも通じると思っているのだ。自由と平等をうたいながら、その実欧州の人間より差別意識が強い。英仏人はもっとあからさまで分かりやすいからな。
どうしようもない……米国の占領統治はすぐに破綻するだろう……」
「では、事態を静観されるのですか」
老人は男の無遠慮な声に嫌そうな顔になっていた。
「そうもいかん。後々の事を考えれば何とか致命傷は避けたい。日系人の拘束はともかく、陛下との面会は取り付けられた。まさか陛下が土壇場で皇太子に大佐を指名するとは思わなかったが、大佐の艦隊が国外に無事脱出出来れば、当座のハワイ王国の正統性は亡命政権に委ねられるだろう。
あとは如何に日本人や英国人と連絡を取りつつ国内で流血の事態を避けられるかだ」
ともすれば先導任務を忘れて悪路を突っ走ろうとする憲兵仕様のハーレーダビッドソンにオースチンで何とかついていきながらも、どことなく男は不思議そうな顔でいった。
「ですが、米国が最終的に勝利する可能性は考えていないのですか。戦力差を考えれば日本軍は相当に不利ですよ。彼らが言っていたとおりに戦艦だけ見てもその数はざっと3対1です」
老人は皮肉げに言った。
「ソ連を除いて米国は半世紀も積極的な外交関係を重視していなかった。彼らは総力戦と国際連盟軍による集団安全保障体制を理解していないのだ。彼らは敵をハワイと日本だけに絞れると考えているだろうが、いずれは彼らも世界を敵にしたと知るだろう。
それに……力を誇示するものは、いずれ力によって滅びるのだ」
老人は、自らを戒めるかのようにそう言ってから険しい表情のまま続けた。
「一体米国はどこで道を違えたのか……2度の大戦を他人事として困窮する国々を見捨てたからか、それともこの国を併合し損ねたからなのか……
まさか市民戦争の最中に日本の開国に中途半端に介入していたからではないだろうが、もしかすると北米に食詰めた欧州人が押し寄せた時点でこうなる事は決まっていたのかもしれないな……」
そう言って目を閉じた老人に、男も不思議そうな顔のまま聞いていた。
「そう言われるということはあなたにはまだ米国人としての意識が残っているのでしょうか。
もし米国人として過去をやり直せるとすれば、あなたは過去に戻りたいと思いますか」
妙な事を聞く男だ。そう考えながらも老人は頭を振っていた。
「いや、ただの愚痴だな。もはや儂はハワイ人だ。二度と陛下を裏切るわけには行かぬ。米国は……北米は祖父母の墓があるだけの場所だよ」
思えばそれが老人と生まれ故郷との完全な決別であったのかもしれなかった。気がつくと老人の家が近づいていた。これからやる事は多かった。
日系人官僚がどれほど釈放されるか分からないが、ハワイ人官僚を占領軍に組織的に面従腹背させて密かにサボタージュをさせねばならなかったし、亡命政府や島内に潜伏したであろうハワイ王国軍残党との密かな連絡手段も構築しなくてはならなかった。
老人にとって長く死を伴う戦いが始まろうとしていた。