1950グアム島沖遭遇戦11
挟叉が得られてから何度目かの斉射で、ようやく陸奥の主砲弾が敵艦に命中していた。巻き上がる水柱の向こうで明らかに爆発によるものである赤い光が見えていたのだ。
そして、水柱が落ち着いてくると敵1番艦の様子が伺える様になってきていた。
アイオワ級戦艦の均整の取れた長大な船体の中央付近から黒煙が立ち上がっていた。どうやら機関部辺りに命中弾が得られたらしい。
ただし、敵艦の速力などが目に見えて落ちている様子は無かった。機関室に施された分厚い装甲を貫けずに煙突の一部を破壊していたのか、あるいはいくつもあるボイラーの何基かを潰しただけなのかもしれない。
それでも命中弾を得られたのは間違いなく、陸奥艦橋は歓喜の声があちらこちらからあがっていた。それにアイオワ級戦艦には火災が発生していたからこれからは光学照準も容易になるのではないか。
だが、ポトチニク中尉は主砲発射による閃光の照り返しで浮かび上がった八方中佐の眉がしかめられているのに気がついていた。
「こんな調子でアイオワ級を叩き切れるのか……」
主砲発射時の轟音に紛れて八方中佐のつぶやきを聞いたものは少なかったようだが、何人かは居心地悪そうに身じろぎしていた。陸奥艦橋を敵弾命中の轟音と衝撃が襲ったのはそんな時だった。
あれ程激しく感じていた主砲射撃ですら比較にならない程の衝撃だった。しかもすでに日は西に沈んでいるにも関わらず、ポトチニク中尉は目の前に太陽が出現していた気がしていた。
同時に奇妙な浮遊感と生ぬるい感覚を覚えていた。その感覚の正体に気がつく前にポトチニク中尉は衝撃を感じて気を失っていた。中尉がいた航海艦橋付近に大重量の主砲弾が着弾して起爆していた。中尉は、その衝撃に吹き飛ばされていたのだ。
周囲を虻が飛んでいるような音がしていた。それは単なる耳鳴りだったのだが、ポトチニク中尉は虫たちまでが陽気に飛び出すような春の陽気を故郷の家で迎えているような気がしていた。
だが、次の瞬間両頬に鈍い痛みを感じて中尉は無理矢理叩き起こされていた。春の陽気どころではなかった。中尉の周囲に広がっていたのは灼熱の地獄だった。
破壊された航海艦橋の残骸の中には、敵砲弾の炸裂によって僅かな間に熱せられた金属がまだ赤く変色したままの部分もあったのだ。あるいは、聞こえていたのは耳鳴りではなく誰かの悲鳴だったのかもしれない。
気絶していたポトチニク中尉を叩き起こしたのは、険しい表情を浮かべた航海士だった。日本語で何かを喚いていたのだが、とっさのことで中尉には外国語の内容がさっぱり理解出来なくなっていた。
航海士の後ろでは、八方中佐が慌ただしく周囲のものに怒鳴って命令を下していた。おそらく航海士も中佐に命じられて気絶した乗組員を起こしていたのだろう。
強引に目を覚まされて両頬を赤くしたポトチニク中尉は、その様子を見ながら咄嗟に航海士に悪態をついていたのだが、単なる罵詈雑言の類はとても士官にふさわしいものとは言えなかった。
悪態をつくポトチニク中尉の様子は、まるで若い頃そうだったように街の暗がりに巣食う小悪党かの様だったが、当然ながら悪態の意味が分からなかった航海士は、目を丸くしながらも薄気味悪そうに険しい表情をした中尉を離して次の負傷者にかかっていた。
ふと我に返ったポトチニク中尉は、航海士が目を覚まさせる為に何度も張ったのだろう頬の鈍い痛みとは全く別の鋭い痛みを感じ始めていた。衝撃で何かに叩きつけられたのか体の節々も傷んでいたが、頭部にも鋭い痛みが走っていた。
それに何故か視界一部が赤く染まっていた。無造作に伸ばした手で顔をこすると、手に赤いものがこびりついていた。どうやら額の辺りを切っていたようだが、手についたぬらりとしたものが自分の血だけであるかは分からなかった。
航海艦橋の中は僅かな間に地獄の釜の中に放り込まれたような有様に一変していた。着弾の衝撃で気絶していたポトチニク中尉はむしろ幸運な方だったらしい。壁面にひびまで走っていた艦橋内には負傷者があげる悲鳴が充満していたからだ。
八方中佐が怒鳴り上げているのも当然だった。普段通りの声では、自然と漏れ出ているのだろう悲鳴にかき消されてしまうからだ。
艦橋に残されているのは声を上げられる負傷者だけではなかった。そのまま放置されている傷も露わな死体もポトチニク中尉が倒れていた傍らにあったし、周囲には何かの破片と共に血が飛び散っていた。
むしろポトチニク中尉は、この状況で平然と命令を下しているように見える八方中佐の姿が死神の様に見えていた。周囲から引っ切り無しに聞こえてくる悲鳴に怯えて中尉は頭を上げて視線をそらしていたのだが、次の瞬間呆然とした表情を浮かべていた。
―――月が、見える、だと……
呆けた表情で見上げていると、陸奥の角度が変わったのか不意にポトチニク中尉の顔に眩いほどの月光が差していた。
あり得なかった。長門型戦艦の航海艦橋は、改装によって様々な機能が追加されていった結果として巨大化していった艦橋構造物の下層にあったからだ。むしろ従来の機能しか持たない航海艦橋は、他の追加された機能に取り残されていったと考えるべきではないか。
だから航海艦橋の天蓋には戦闘用の艦橋が幾層も連なっていたはずなのだ。
ところが、ポトチニク中尉が見上げた航海艦橋の天井の一部からは、いつの間に上がっていた月が見えていた。
既に陽は完全に沈んでいたらしい。月の光だけが天を照らし出していた。白く輝く月は、ポトチニク中尉がこれまでに見たことがないほど美しかったが、月が見えた理由に気がついた中尉は思わず吐き気を覚えていた。
ポトチニク中尉は確かに幸運だった。中尉の体を傷つけた破片は、おそらくは高速で炸裂した敵砲弾の破片ではなかったからだ。最初の衝撃波で体を吹き飛ばされた中尉は、航海艦橋の機材か、あるいは他の将兵の体躯に守られていたのではないか。
命中弾があったのは航海艦橋よりも上の戦闘艦橋部分だったようだ。だが想定される主砲戦距離において3,400ミリもの分厚い防弾鋼板を貫くという16インチ砲弾の前では、司令塔を除けば装甲を有さない艦橋構造物など紙切れ一枚程の抵抗にしかならなかった。
命中箇所の艦橋上部は一瞬のうちに砕かれてしまったのだろうが、徹甲榴弾である砲弾は艦橋構造物を突き抜けて海面に出たところで起爆したのではないか。
敵砲弾の炸裂によって生じた破片は、大部分が何もない宙に飛び去るか海面に叩きつけられていたはずだった。砲弾は本来戦艦の重装甲を貫くのに足りるだけの存速、つまり運動量を与えられていたから、炸裂後も大部分の破片は前方に向けて飛翔するからだ。
それに戦艦の主砲弾は、どの国でも対空、対地射撃などに使用される榴弾を除けば、分厚い弾殻の内部に炸薬を詰め込んだ徹甲榴弾を対艦攻撃用の徹甲弾として使用しているらしい。
この徹甲榴弾に装填された炸薬は、通常の榴弾と比べると砲弾重量に対する割合は少量だった。装甲を貫通して敵艦内部の重要部品を破壊するのが目的だったから、多数の将兵を細かな弾片で殺傷させるよりも、運動エネルギーを保持した大重量の弾殻で頑丈な機材に損害を与えられる様に設計されているのだ。
だから、砲弾が炸裂しても確率的に炸薬が起爆した際の衝撃で後方に飛来する破片は少なかったはずだが、それでも陸奥の艦橋上部を吹き飛ばすくらいのエネルギーは十分にあったのだろう。
むしろ航海艦橋が天蓋の一部が吹き飛ばされた位で、まだ艦内電話も通じているのが奇跡の様なものだった。
艦橋内部に視線を戻したポトチニク中尉の耳に八方中佐が唸るような声で言っているのが聞こえていた。
「状況は確認した……全艦に達する、本艦指揮はこれより航海長がとる。まだ残っているならマストに不関旗を掲げろ。生き残っている回線でも発光信号でも構わん。尾張に我に指揮能力無し、代わって指揮をとれと伝えろ……まぁグレさんならもう陸奥の状況は察しているかもしれんがな。
おい、後部艦橋の射撃指揮所からは発令所にまだ繋がらんのか……副砲射撃指揮所からも駄目か」
八方中佐に尋ねられた伝令の答えは、中佐の予想内ではあったものの、不本意なものであることに変わりはなかったようだ。首を振りながら中佐は吐き捨てる様に言った。
「やむを得んな、各砲塔は砲台長の指揮で応急管制させろ。砲側照準のみで射撃を行うんだ。副砲指揮所は主砲発令所に繋がらんのならば同じく接近する巡洋艦に射撃続行だ」
八方中佐はそう言いながら険しい表情を崩さなかった。
わずか一発の命中弾で陸奥は戦闘能力を大きく減少させていた。単に砲弾によって艦橋が破壊されただけではなかった。艦橋と共に艦長や艦隊司令部といった個艦と艦隊司令部双方の指揮機能が喪失してしまっていた。
空襲の再来を恐れていたのか、見晴らしのいい戦闘艦橋に陸奥幹部と艦隊司令部の要員が集合していたものだから高級将校の人的被害が集中していたのだ。
しかも、人員だけではなく物理的な被害も艦橋だけにとどまらなかったようだ。八方中佐達のやり取りからすると、主砲に関する射撃管制機能が実質的に失われていたらしい。
長門型戦艦の主砲管制機能は第一次欧州大戦などの戦訓を反映して建造時から段階的に近代化されていたようだが、現状でまず最初に照準を行うのは、戦闘艦橋に隣接して艦橋最上部に配置された主砲射撃指揮所だった。
主砲担当の指揮官でもある砲術長が陣取る主砲射撃指揮所は、敵艦を観測する測距儀などのセンサを組み込んだ方位盤と一体化していたが、観測値を分析して射撃諸元を算出する計算機能は無かった。
方位盤から得られた観測値を元に射撃に必要な膨大な計算を行うのは、装甲の奥深くに配置された主砲射撃発令所に置かれた巨大な機械式計算機である射撃盤だった。
この射撃盤で計算された結果が各砲台に伝えられて、最終的な射撃に必要な砲塔の旋回角度と仰俯角が定まっていくのだ。
艦橋上部と共に吹き飛んだ主砲射撃指揮所は、熟練した砲術科員が操作する機器が配置されて主砲の射撃管制機能の中で重要な機能を分担していたのだが、本来は代替機能が存在していた。
ある意味で射撃管制機能で最重要となる機材は、防御区画内に収められて複雑な射撃計算を行う射撃盤だった。そして射撃盤に観測値を提供出来る機材は射撃指揮所の方位盤だけではなかったのだ。
つまり、後部艦橋の予備射撃指揮所や本来は副砲を管制する副砲指揮所からも、精度は劣るにしても観測値を転送することは可能であるはずだったのだが、実際には射撃盤と各方位盤を接続する回路に不調が起きていた。射撃盤には、計算の元となる観測値がいつまでたっても送られてこないのだ。
問題が発生しているのは、今も敵艦を観測し続けている各方位盤の方ではなかった。どうやら艦内奥深くの発令所に設置された射撃盤の方らしい。
射撃盤に組み込まれた主砲射撃指揮所から残存する各指揮所方位盤への切り替え回路が故障したのか、あるいは途中の電路が切断されたのか、原因は今のところ不明だった。
今の陸奥に可能だったのは、主砲塔に搭載されている機能が制限された観測機材で各個に射撃を行う近代化改装どころか第一次欧州大戦以前のやり方で射撃続けることだけだった。
皮肉な事に、戦艦陸奥は艦橋以外の損害はごく僅かで物理的には戦闘能力は十全に発揮できる状態であるにも関わらず、たったの一撃で主砲射撃能力が著しく低下してしまっていたのだ。
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