1950グアム島沖遭遇戦9
米海軍艦隊には逡巡が見られる。陸奥の航海艦橋内からはそんな声も聞こえていたが、ポトチニク中尉には俄には信じられなかった。この海域で待ち構えていた敵艦隊が整然とした陣形を保ちながら接近してくる様にしか中尉には見えていなかったからだ。
見張員からの報告によれば、敵艦隊は複数の単縦陣で構成されているようだった。その中でも中央の単縦陣は、新鋭艦らしいスマートな姿の艦橋マストをもった大型艦2隻が先頭となっているらしい。
―――相手は米海軍の新鋭戦艦、なのか……
ポトチニク中尉は、航海艦橋の隅で縮こまりながらそう考えていた。
正確な敵艦隊の艦種などはまだ不明な点も多かったが、概ね彼我に大きな戦力差は生じていないようだ。そのせいなのか日米双方の艦隊は交戦意欲をむき出しにして接近を図ろうとしていた。
トラック諸島救援の為にその障害となる敵艦隊をここで無力化しなければならない前衛艦隊は勿論だが、米海軍の艦隊も前衛艦隊を友軍方向に誘出するような素振りは見せずに、グアム島からの救援が望み薄い孤立した海域での戦闘に臨もうとしていた。
ただし、前衛艦隊の戦闘準備はまだ整ってはいなかった。
空襲を跳ね除けた後も、艦隊司令部が更なる航空攻撃を警戒して輪形陣のまま前進していたものだから、敵艦隊のマストを水平線の向こうに確認した後になって、迫りくる夕闇に追われるように慌ただしく水上戦闘用に陣形を組み直し始めていたのだ。
艦隊旗艦の陸奥航海長である八方中佐も、海図と周囲の状況を忙しく確認しながら、艦長から委ねられた陸奥の操艦に専念していた。
前衛艦隊は米艦隊に対抗するように3本の単縦陣を構築しようとしていた。中央は陸奥と尾張という戦艦2隻に、同じく2隻からなる重巡洋艦戦隊を連ねた大型艦4隻からなる主力部隊だった。
残る水雷戦隊は、2個の駆逐隊毎に単縦陣を構成する計画だったのだが、輪形陣から単縦陣への敵前での陣形変換は時間がかかっていた。
前衛艦隊の中では陸奥と尾張は陣形の要として相対的な位置が固定されていたのだが、艦隊は輪形陣外縁を構成していた駆逐隊の集合に手間取っている様子だった。
2隻の重巡洋艦はそれぞれ加速しつつ輪形陣から抜け出して戦艦の後尾につけるだけだから比較的運動は容易なのだが、広い範囲に散らばっていた駆逐艦群が隊列を整えるには、それぞれの艦艇で異なる複雑な機動を要するようだった。
本来であれば、日本海軍の標準的な戦法では敵主力艦に対しては水雷戦隊での一斉雷撃を行う方針と聞いていたのだが、実際には集合に時間がかかって陣形変換によって混乱している隙を敵艦隊に突かれるのを恐れて、艦隊司令部は駆逐隊単位での襲撃に切り替えていたようだ。
水雷戦隊旗艦に充当された軽巡洋艦は、駆逐隊を指揮すると共に火力でこれを支援する役割が与えられていたはずだが、これでは軽巡洋艦が直卒出来ない駆逐隊は敵艦を制圧する火力が不足して雷撃の実施が困難なのではないか。
ただでさえ前大戦の戦訓で夜間でもレーダーによって遠距離からでも機動を読まれやすい雷撃は戦術上の優位性を失っているとまで言われていたから、駆逐隊は苦戦するのは必至だろう。
前衛艦隊がそのように混乱した状況で陣形を立て直しているため、余計に敵艦隊が悠然と構えているようにポトチニク中尉には見えていたのだが、実際には米海軍にも混乱が見られるらしい。
接近する水上戦闘部隊の背後には、こちらに背を向けている空母の姿が確認されたというのだ。行き交う日本語から必死で意味を読み取っていたポトチニク中尉は、唖然として海面に目を向けていた。
既に高さのある大型艦の艦橋辺りは暗くなっていた。海面も次第に赤い色が失われつつあるのだ。水平線の艦影も角度によっては背景に溶け込むようにしか見えていないのではないか。
レーダーでは反射波強度から艦体のサイズしか分からない筈だから、艦種が識別されたということは見張り員の目で空母と確認されたのだろう。
呆けているようなポトチニク中尉の顔が面白かったのか、忙中閑ありといった様子で僅かな明かりに照らされた海図台から離れながら部下に指示を終えた八方中佐が言った。
「本艦も新兵ばかりを押し付けられたが、まだ古狸の様な古参の下士官もおるからな。昔は夜襲をかける水雷戦隊などには神憑り的な視力を持つものもいたものだよ」
訓練されたというよりも、どちらかというと暗闇で育った野生のケダモノの類ではないか。引きつった笑みを浮かべながらポトチニク中尉は水平線の敵艦隊に視線を戻したのだが、不意に視界が眩くなっていた。
「先手を取られたか……」
八方中佐はそう呟いていた。今の光は、敵艦隊の1番艦が放った砲火だった。
戦時中は長門型戦艦は大規模な改修を行えなかったとはいえ、追加で搭載されたレーダーを用いれば現在の陸奥も視界の効かない夜間における主砲の照準も可能だった。勿論だが最新鋭の紀伊型戦艦である尾張も、陸奥以上に高精度のレーダーを保有していた。
だが、まだ太陽が完全に沈み込む前とはいえ、事前の探照灯照射や照明弾の使用も無しに初弾を放ってきたということは、米海軍も相応の精度のレーダーを装備していると考えてよかった。
ふとポトチニク中尉は、自分の体を振り回そうとする外力が働いているのを感じていた。敵艦の発砲と呼応しているかどうかは分からないが、陸奥は暗くなり始めた艦首甲板に勢いよく飛沫を巻き上げながら、急角度で左舷に向けて沈みつつある太陽を背にするように変針を開始していたのだ。
旗艦である陸奥を先頭とする前衛艦隊主力を構成する単縦陣は、敵艦が発砲するまでトラック諸島に向けて概ね南下する針路をとっていた。これに対して、敵艦隊は前衛艦隊の針路を塞ぐように北東に艦首を向けて斜行していた。
角度が若干あるものの、このまま前衛艦隊が前進を継続すれば敵艦隊の針路と交差する可能性が高かった。しかも、こちらの前方を抑えた敵艦隊は艦首尾線に装備された全主砲を発砲可能だったが、前衛艦隊は艦首側装備の砲塔しか対応出来なかったから格段に不利だった。
ただし、両艦隊はほぼ反航していたから、前衛艦隊が敵艦隊との交戦を避けることは不可能ではなかった。敵艦隊を引き付けてから射程圏外で南西に進路を向ければ短時間の反航戦で敵艦隊をすり抜ける事は出来たのではないか。
勿論それでも状況は流動的だった。あるいは敵艦隊が斜行していたのは、前衛艦隊を西方のグアム島から出撃する航空攻撃の範囲内に追い込んで艦隊と挟撃するつもりだったのかもしれないのだ。
それに米艦隊の艦種は未だ不明だったから、相手が前衛艦隊で最も速度が遅い陸奥よりも高速であれば、後方から追尾されて不利な状況で交戦を強いられる可能性もあるし、敵艦隊主力が鈍足の旧式戦艦であったとしても高速の軽快艦艇を切り離して前衛艦隊の足止めを行うことも出来るだろう。
艦隊司令部が下した決断は、敵艦隊の進路と積極的に交差する東方への回頭だった。つまり短時間で終了する反航戦から本格的な砲撃戦を行うための同航戦に移行する意図があるのだろう。
一時的に傾斜していた艦橋の床面が元に戻ろうとしていた。側面の艦橋窓から僅かに赤く光って見えていた水平線が上がっていたのだが、回頭を終えて陸奥の動揺が収まるにつれて元の位置に下がっていった。
既に陸奥は回頭を終えていたが、ポトチニク中尉が感じた床面の傾斜からしても変針は随分と急角度だった。これでは彼我の照準は実質的にやり直しになっているだろう。当然のことながら変針前に行われた敵1番艦の射撃も無駄に終わるはずだった。
敵艦から放たれた砲弾の着弾を伝える見張員からの報告は、ポトチニク中尉には唐突だった。敵艦の発砲が閃光によって確認されてから既に1分近くが経過していたが、順に回頭を行っていた前衛艦隊は既に尾張に後続する重巡洋艦が転舵を開始していた所だった。
着弾点は、前衛艦隊主力が次々と転舵している点よりも先の南方に発生していた。夜目にも鮮やかに白く光って巨大な水柱がいくつか沸き起こっていたのだ。
ポトチニク中尉は相対的な位置を脳裏で計算していたが、それよりも早く誰かのつぶやきが聞こえていた。
「回頭していなくとも当たらんかったんじゃないか……」
敵艦から放たれた初弾が巻き上げた水柱の位置は正確性を欠いていたらしい。詳細は分からないが、もしも前進を継続していたとしても命中弾は得られない位置に水柱は発生していたのだろう。
だが、ポトチニク中尉が以前聞いた話では、そもそも数十キロ向こうに砲弾を飛ばし合う戦艦同士の長距離砲戦とはまず初弾で命中が得られるようなことはなく、何度も着弾の観測と修正を行うものだということだった。
レーダーや光学機器、複雑な弾道計算を行う計算機械の進歩によって以前よりも格段に遠距離で照準作業を行うこと自体は可能となったのだが、それでも長距離砲撃では数々の要因が積み重なる誤差が無視出来なかったからだ。
それにお互いに腰を据えて砲撃戦を行うのではなく、有利な態勢を狙って時速4,50キロもの速度で機動する場合は、狙った地点から今の前衛艦隊のように敵艦が動いてしまえばそもそも照準は無効化されてしまうのだ。
戦艦主砲の長大な射程を生かして遠距離砲撃を行ったとしても、30キロ程も向こうの標的に砲弾が届くには発砲から着弾まで1分近くもかかる為に照準に必要な計算が正確であっても、照準点そのものが相対的に敵艦から離れてしまうためだった。
ポトチニク中尉が聞きかじったその程度の事は敵艦の指揮官も当然だが理解していた。後続艦とは艦種が異なるのか発砲は敵1番艦のみだったが、初弾以降の発砲は無かったのがその証拠だった。
戦艦主砲の発射間隔は概ねどれも分間2発程度らしいから、敵艦が連続して発砲を行うつもりならば着弾前に次弾を放つ際の閃光が観測されてもおかしくはなかった。
だが、前衛艦隊の先手をとって初弾を放ったにも関わらず、敵1番艦は2射目以降を発射していなかった。この遠距離では着弾の修正を確実に行うつもりだったのだろう。
その頃になって見張員からの報告が伝えられていた。敵1番艦はアイオワ級戦艦の可能性が高いらしい。おそらく発砲炎の照り返しから正確な艦影を観測したのだろう。
米新鋭戦艦の1番手となったノースカロライナ級戦艦は、建造時期から軍縮条約の影響を受けた結果として特異な主砲塔を艦橋前方に集中させる英ネルソン級戦艦に似たスタイルをとっていたのだが、その後に建造されたサウスダコタ級戦艦は主砲塔を前後に割り振った常識的な配置をとっていた。
そしてサウスダコタ級戦艦に続くアイオワ級戦艦は、全体的な配置は前級を踏襲しているものの、基本性能の点で差異があるらしい。
旧式戦艦群を代替する純粋な主力艦としてサウスダコタ級戦艦が要求されたのに対して、アイオワ級戦艦は戦艦と言いながらも、レキシントン級巡洋戦艦の後継艦として巡洋戦艦に近しい能力を期待されているというのだ。
第一次欧州大戦に参戦せずに近代化が遅れていた米海軍にとって、レキシントン級は強大な主砲と速力を併せ持つ唯一の巡洋戦艦として貴重な存在だった。米海軍は大戦で活躍した日英などの巡洋戦艦を高く評価していたらしいからだ。
確かに16インチ砲を装備したレキシントン級は火力面では当時就役したばかりの長門型戦艦にも匹敵するものがあったし、速力では巡洋艦と同程度となり、従来の戦艦に対して戦術的な優位性を有していた。
ただし、制限排水量の中で火力と速力に割り振った分、防御はおざなりなものになっていた。機関出力を確保するためにボイラーの一部は装甲防御の外に配置されているという噂もあったほどだ。
アイオワ級戦艦は、米海軍の視点で見ればレキシントン級巡洋戦艦を再構築したものとして設計されたらしい。つまり、同級は完全に軍縮条約が無効化されたことで余裕が生じた排水量でもってレキシントン級では不可能だった攻速防を高い次元で成立させた新時代の高速戦艦というのだ。
その真価が今前衛艦隊の前で試されようとしていた。
紀伊型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbkii.html
ノースカロライナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbnorthcarolina.html
レキシントン級巡洋戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ccrexington.html