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1950グアム島沖遭遇戦6

 戦艦陸奥を旗艦とする前衛艦隊は、航行用の陣形から対空戦闘を前提とした輪形陣に急速に陣形を組み直していた。

 輪形陣の中心に配置されたのは、当然のことながら艦隊の主力である戦艦陸奥と尾張だったが、この2隻を取り巻く護衛艦艇の姿はまばらで、陸奥艦橋からの視界でも陣形はどことなく締まりがないものに見えていた。


 先の大戦中に輪形陣の間隔が広がっていったのは、艦載高射砲の射程延長や捜索可能範囲の広いレーダーの実用化が理由だったらしいが、今回前衛艦隊各艦の間隔が広がっていたのは、単に護衛艦艇の数が少なかったからだ。

 日本海軍の基準が求める完全な輪形陣を組むには、陸奥に同行する1個戦隊2隻の重巡洋艦と、同じく1個の水雷戦隊では数が少なすぎたのだ。

 僅か2隻の艦隊主力を援護するには、艦隊型駆逐艦を揃えたそれだけでユーゴスラビア海軍を圧倒する戦力があるであろう水雷戦隊があれば十分ではないかとポトチニク中尉は考えていたのだが、実際には駆逐隊単位で他隊に抽出されて戦隊指揮下の駆逐艦の数には欠員が多いようだ。


 旗艦陸奥以外の戦艦尾張や2隻の石鎚型重巡洋艦は第二次欧州大戦の終戦に前後して就役した新鋭艦で単艦での防空能力も高いというが、艦隊の防空体制にはまだ些かの不安もあった。

 本来であれば、艦隊前方に電探で早期警戒を行う哨戒艦を配置して艦隊全隊の索敵範囲増大を図るというのが大戦中に得られた戦訓だった。航空機の高速化が進んでいた為に、防御側の防空戦闘に必要な対応時間を確保するためには、少しでも遠距離で敵機を探知しなければならなかったためだ。

 だが、艦隊を構成する艦艇の少なさが、単艦で敵方向に進出するために状況によっては一方的に殲滅されかねない危険な任務である哨戒艦に輪形陣から艦艇を抽出する余裕を無くしていたのだ。



 結局、ポトチニク中尉は空襲の危険があるにも関わらず艦橋を離れなかった。士官次室に戻っても良いとは言われたが、居住区画に設けられた同室は分厚い装甲に覆われた防御区画の外にある事を乗艦してから聞かされていたからだ。


 何万トンもの鋼鉄の塊である近代戦艦は、中古の巡洋艦を購入するのに躊躇しているユーゴスラビア連邦王国の実情を知るポトチニク中尉からすれば、どんな攻撃も跳ね返す無敵の存在としか思えなかった。

 だが、実際には外から見える大部分は戦艦でも構造材としての鋼材であり、16インチ級の主砲弾では1トンにも達するという大重量の砲弾が直撃しても耐えられるだけの装甲が施されているのは一部分に過ぎなかった。


 分厚い装甲板に覆われた弾火薬庫や主砲を管制する機材、機関部などといった重要区画さえ無事であれば戦艦同士の主砲戦において実質的な戦力低下は抑えられるというが、裏を返せば艦橋内も居住区画も航空攻撃に対する危険性で言えば大差無いことになるのではないか。

 むしろ細かく区割りされた居住区画は、爆弾や徹甲榴弾の炸裂時に重要区画を防御する空間装甲としての役割を持たされてもいるらしい。


 尤も、ポトチニク中尉が兵たちの邪魔をしないように艦橋の隅に潜んでいたのは、士官次室と艦橋とどちらが安全かなどと冷静に考えていたためではなかった。

 どのみち危険であるならば、ごく薄い鉄板に囲まれただけで窓もない士官次室で状況が分からずに怯えているよりも、外が見える艦橋の方がまだ良いと考えていただけだったのだが、周囲の日本人たちはポトチニク中尉が艦橋に留まったのを豪胆な態度と勘違いしていたらしい。



 陸奥を中核とした前衛艦隊が南下を続けている間も、しばらくは敵機の動きに変化は見られなかった。ただし、レーダーで敵機を詳細に捉えていたのは、戦艦尾張の最新で大型の対空レーダーだけだった。

 艦隊司令部が乗り込む陸奥には、間接的に尾張から報告が入るだけだったから、司令部の要員はもどかしい思いをしているらしい。何度か陸奥と尾張の間に慌ただしく連絡が取られている形跡があった。

 元々演習のためにかき集められた指揮官と参謀で構成された前衛艦隊の司令部は、急遽陸奥に乗り込んできたものだからこんな緊急事態の発生で本艦乗員との意思疎通にも支障を来しているのかもしれなかった。


 本来であれば、敵艦隊の存在が付近に予想される場合は少なくとも艦隊の本隊は無線封止を行うべきだった。

 原理的に高性能の逆探知機があればレーダーは索敵可能範囲よりも遠くから発振する電磁波を探知されてしまうために、レーダーも特定の1隻、それこそ前方哨戒艦に使用を限るべきではないか。

 無駄にレーダーを使用して電波源を大きく見せてしまわなくとも、レーダー性能に優れる哨戒艦が敵機の襲来を察知した時点で他の全艦で起動しても結果は同じだと八方中佐などは考えているらしい。

 慎重な彼らが電子兵装そのものに懐疑的というわけではなかった。むしろ仮に実戦経験はなくとも戦訓や演習での実績などから電子兵装の威力に触れているからこそ、その危険性にも考慮しているのだろう。



 演習の想定において前衛艦隊の旗艦が外交の都合で陸奥に押し付けられたことによる瑕疵がこの状況で顕になっていた。旗艦設備で言えば両戦艦に大差はないはずだが、それ以外の陸奥と尾張の能力には格段の差があった。

 建造から幾度かの大規模な改装を受けて、長門型戦艦は少なくとも16インチ砲戦艦としての攻防速を高い次元で現在でも維持していた。日本海軍でも最新の紀伊型戦艦と比べれば砲力には劣るものの、相手が米海軍の16インチ砲戦艦であれば新鋭艦でも対向に渡り合えるのではないか。

 むしろ長門型戦艦と紀伊型戦艦の決定的な差異は、直接的な戦闘能力よりもレーダーなどの電子機器に関して生じているようだった。


 長門型戦艦が最後の大規模改装工事を受けたのは、先の大戦直前の事だった。その時点での最新鋭機材を搭載した上で防御も強化していたというから実際に大戦勃発に前後して就役していた日本海軍の常陸型戦艦や米海軍のサウスダコタ級戦艦と比べても遜色ない戦力価値を有していた。

 ところが、大戦中は艦艇の火砲よりも各種電子兵装の方が格段に進化していた。その点では長門型戦艦の改装工事は時期が悪かったと言えるのではないか。改装工事を行われていた時点ではまだ電子兵装の強化は大して求められていなかったためだ。


 建造当初から各種レーダーの搭載を行っていた常陸型戦艦などは、小規模な工事で旧式化したレーダーの換装を行うこともできたようだが、目視による観測以外考えられていなかった時期に建造された長門型戦艦の旧式な構造では、理想的な位置にレーダーを備えるのは難しいらしい。

 それ以前に、基本的に第一次欧州大戦時の技術や戦訓を反映して建造されていた長門型戦艦では、各種電子兵装を満足に稼働させるだけの電力量を確保することが出来なかった。

 結局先の大戦中に搭載されていたのは駆逐艦級の軽快艦艇に搭載されるような能力の限定されたレーダーでしかないから、現状では索敵能力など電子兵装では紀伊型戦艦どころか格下の重巡洋艦級にも劣る能力しかなかったのだ。



 捜索可能範囲の広い大出力レーダーを既存艦に追加搭載して稼働させるには、安定している上に捜索に有利な高所が望ましいという矛盾した条件を満足させる設置場所の確保が必要だったが、同時に電力の供給という問題も無視できなかった。

 単に発電機を置くだけなら、巨大な戦艦のどこにでも置けそうなものだが、実際には発電機の増設は容易では無いらしい。


 蒸気タービンにせよ、ディーゼルエンジンなどの内燃機関にせよ、発電機原動機を駆動させるには高圧蒸気配管や可燃物の燃料配管の増設が必要だったし、同様に電路の増設も既存構造に追加するのは、天井付近の工事量が大きい為に工数と工期が増大する難工事となる可能性が高かった。

 それに重要機材が詰まった防御区画の中に発電機を増設するのも単純に難しいのだが、逆に居住区などを圧迫して防御区画外に追加した場合も被弾時の電力喪失という危険性を抱える事に繋がっていた。



 抜本的な発電能力の増大は、艦内レイアウトの大胆な変更でさえ可能な大規模改装工事の機会に限られるということになるようだが、開戦前に大規模改装工事を行っていた長門型戦艦は、第二次欧州大戦中は改装工事を行う機会が無かった。

 大戦中は欧州戦線で損害を受けた艦の修理や、新造艦船の建造で日本国内の造船、修理能力は飽和していたし、長門型戦艦をはじめとする旧式戦艦群自体がドイツと交戦するソ連よりの中立という複雑な立場であった米国への抑止力として日本本土で待機を続けていたから、長期間戦列を離れる改装工事は許容できなかったためらしい。


 終戦後も損傷艦や売却船の修理や、建造計画が進んでいた新鋭艦の建造が優先されていたから、中途半端に戦力価値を保持していた長門型戦艦の大規模改装は軍縮傾向の中では俎上にも載せられていなかった。

 もしかするとそれ以前に、悪化する対米関係など混沌とする状況から日本海軍では長門型戦艦の残り艦齢の見積もりすら定まっていなかったのかもしれなかった。

 長門型戦艦に大規模な改装が行われるとすれば、旧式艦の整理が完了して艦隊の若返りが行われて余裕が出来てからになったのではないか。



 だが、現実は過酷だった。第一次欧州大戦後に就役し、先の第二次欧州大戦でも日本本土に留まっていた長門型戦艦の陸奥は、唐突に実戦のさなかに放り込まれていたからだ。

 もし政治的な制限がなく、純粋に軍事面だけを考慮することが出来るのであれば、前衛艦隊の旗艦はすんなりと新鋭艦で電子兵装が充実した尾張に決まっていたのではないか。


 友好国とはいえ、これまで国際連盟軍において海軍戦力を供出したことのないユーゴスラビア連邦王国の武官であるポトチニク中尉は概要程度しか聞かされていないが、最近の日英海軍の大型艦ではレーダーや無線による情報を集約して指揮官に提供する指揮所が設けられているらしい。

 ところがそうした指揮所は元々は第二次欧州大戦序盤における英国本土防空戦で活用された地上の司令部機能を再現したものだから、小型化や電気化が図られていたものの相応の空間が要求されるらしい。勿論今の陸奥艦内には艦隊司令部を収容する指揮所を設けるような余裕はどこにもなかった。


 ポトチニク中尉は、今の陸奥のように艦隊の指揮官は艦橋で風に当たりながら指揮をとるものだと思っていたのだが、現代戦ではそうではないらしい。

 だが、そう聞かされた事でポトチニク中尉は幾ばくかの不安を覚えていた。要するにこの前衛艦隊は、個々の戦闘艦は最新の装備を身にまとっていたとしても、旧態依然とした指揮系統しか持たされていないということではないか。

 日本人達が意識したことではなかったのだろうが、逆に戦艦紀伊がトラック諸島に回されたことで仮想敵艦隊は最新の指揮系統で旧式艦を率いるということになっていたはずだ。



 もしも想定通りにトラック諸島沖で演習による戦闘が発生していたとすれば、どちらが有利な事になっていたのだろうか。ぼんやりと航海艦橋の隅でそう考えていたポトチニク中尉は、電話員の鋭い声で我に返っていた。どうやら敵機の接近を僚艦が感知したらしい。

 反射的にポトチニク中尉は窓から外の様子を確認していた。太陽は中天を脱しつつあるが、まだ海面は眩いばかりに輝いていた。今日という日は、まだ長い日になりそうだった。

紀伊型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbkii.html

石鎚型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/caisiduti.html

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