表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
577/812

1950グアム島沖遭遇戦1

 ―――何だか大事になってきたなぁ……

 狭苦しい戦艦陸奥の航海艦橋で縮こまりながら、ミント・ポトチニク中尉はどこか他人事のようにぼんやりとそう考えていた。


 ポトチニク中尉の周りは、忙しく動く日本人ばかりだった。つい数時間前まで通常の航海直だった戦艦陸奥は、慌ただしく戦闘態勢に入っていたからだ。

 出入りする陸奥の乗員の中には、艦橋の隅で所在なさげにしているポトチニク中尉に気がついて怪訝そうな顔を向けるものもいたが、そのたびに中尉は締まりのない愛想笑いを返していた。


 昼間でも薄暗い艦橋であっても、明らかに陸奥の乗員ではないポトチニク中尉の存在は浮いていた。しかも、普段からかけている丸眼鏡が細長い馬面に収まると、誰が見てもポトチニク中尉の顔は悪人くさかった。

 ただし、指先一つで人間の命や大金を左右する大悪党といった貫禄はなかった。精々が胡散臭い田舎町のチンピラといったところだったが、実際のところ10年前まではポトチニク中尉は本当にその印象通りの男だった。

 ポトチニク中尉がユーゴスラビア王国軍の正規の教育を受けた士官となって、大演習を行う日本海軍に連絡将校として派遣されるまでには相当の紆余曲折があったのだった。



 第二次欧州大戦開戦直前のユーゴスラビア王国は内戦一歩手前の状況にあった。国内はセルビア人とクロアチア人の民族対立が長く続いていたし、外交上も強大なドイツとイタリアという隣国が隠そうともしない領土的な野心の前に緊張が高まっていた。

 さらに国内には不況の嵐が吹き荒れており、国境近くの街で自堕落な犯罪者一歩手前の生活を送っていた当時のポトチニク中尉も、当時は一介の無職青年に過ぎなかったのだ。


 だが、そうした状況はペータル2世の起こしたクーデターにより一変していた。本来は国王であるペータル2世がクーデターを起こすというのも奇妙な話だったが、このクーデターは要するにドイツとの同盟関係の締結を目論む実質的に政権を担っていた摂政に対抗するするものであったのだ。

 民衆は抑圧的な摂政を追い出して民族の和解と親英路線の外交という方針で親政を行おうとしていたペータル2世を熱狂的に指示していたが、ドイツ軍は怒りに燃えてユーゴスラビア王国に侵攻し、傀儡政権の樹立や領土の分割が被占領国国民の頭越しに行われていた。


 ペータル2世は英国に脱出して亡命政権を樹立していたが、ユーゴスラビア国内では元国軍将兵を中心にドイツ占領軍に対抗するための抵抗運動が誕生していた。

 ところが、ユーゴスラビア王国内に誕生した抵抗運動の多くは、戦前の民族主義を色濃く受け継いでしまっていた。

 セルビア系民族を主流とする旧ユーゴスラビア王国軍系のチェトニックと呼ばれる抵抗運動は、ドイツ占領軍と交戦するよりもクロアチア人民族主義者がファシズム党と結びついて作り上げたウスタシャと対立するばかりだったのだ。



 占領軍を尻目に主要な抵抗運動同士が抗争に明け暮れる一方で、市民からの支持を失いつつある既存の抵抗運動とは別に民族や階層に縛られない新たな組織も誕生していた。

 チトーという偽名を名乗る若い指導者を頂いた組織は共産党系の抵抗運動だった。共産党系組織は国民の大多数を占める農民や労働者から広範囲な支持を受けていたが、その思想上の違いから亡命政権との連携は難しかった。


 それに共産党系の抵抗運動は雑多な組織だった。ソ連からの指示系統を何よりも重要視する筋金入りの共産党員はむしろ少なかったのではないか。思想よりも現実を重要視する組織だったと言える。

 そうでなければ、占領軍から逃れる市民で空き家が目立つようになった街で繰り返していた空巣がばれて逃げ出した当時のポトチニク中尉の様な小悪党が組織内に潜り込むことなど出来なかった筈だった。

 多少の学、というよりも機転が利いて文字の読み書き位は出来たものだから、いつの間にかポトチニク中尉は宣伝やら末端組織の教育やらに駆り出されるようになっていたのだが、そうこうしている間にまた大きくユーゴスラビア国内が揺れ動いていた。



 最初に起こったのは隣国イタリアの政変だった。ドイツを見限った王室を中核とする派閥が国際連盟側に鞍替えを図ろうとしたのだが、これを阻止すべく行動を起こしたドイツによってイタリア王エマヌエーレ3世が暗殺されていたのだ。

 これにより現役の海軍軍人でもある若い国王ウンベルト2世が跡を継いだイタリアは、国際連盟側に立つと前国王の敵討ちとばかりに熱狂的なほどドイツと激しく戦い始めていたのだが、国際連盟側に陣営を変えた時点でイタリア王国軍には少なくない部隊が海外に取り残されていた。


 ドイツ軍の東部戦線に派遣されていた部隊は早々に武装解除されていたのだが、ユーゴスラビア王国など占領地に展開していた部隊の中には、武装解除に来たドイツ軍の手を逃れて、あろう事か昨日まで敵対していたはずの現地抵抗運動に合流するものも多かったのだ。

 中には兵士個人個人ではなく部隊ごと装備一式を持ち込んできたものもあり、糧食の缶詰1つ残さずに逃げ出した彼らの駐屯地には、空の幕舎だけが残されていたらしい。


 大戦勃発から占領地においても良くも悪くもいい加減だったイタリア軍だったが、ドイツ軍嫌いは徹底していた。彼らを受け入れた共産党系抵抗運動は、にわかに組織だった戦闘力を手にしていたが、同時にイタリア本国を通じて国際連盟軍との太いパイプも手にしていた。

 これをどちらが利用したのかは分からないが、英国に逃れてユーゴスラビア王国亡命政権を率いていたペータル2世は、思想面で相容れなかった筈のチトー率いる共産党系抵抗運動と連絡を取り合うようになっていた。

 チトー側にも利点はあった。旧政権のお墨付きとなる上に、英国に逃れた後同国空軍に志願してドイツ軍と戦っていたペータル2世は、ユーゴスラビア国内の一般国民にも隠然たる支持者が少なくなかったからだ。



 実はポトチニク中尉も戦時中に直にペータル2世の顔を拝んだことがあった。当時司令部勤務だった中尉もユーゴスラビア王国の歴史的な瞬間に立ち会っていたのだ。

 国際連盟軍が派遣した特殊戦部隊の護衛を引き連れて、密かにペータル2世はユーゴスラビア王国国内に空挺降下で帰還していた。その上でラジオ放送で正式にチトーをユーゴスラビア王国軍元帥と臨時首相に命じると共に、民族を問わず占領軍に抵抗する彼の元に集うべしと国民に呼びかけていたのだ。


 共産党系抵抗運動司令部の一員だったポトチニク中尉もその瞬間に立ち会っていたのだが、そこは奇妙な空間だった。

 ラジオ放送が行われたのはアンテナだけを伸ばした洞窟内の拠点だったのだが、共産党系抵抗運動自体が民族的には混沌と言えるほど多様であったし、ペータル2世の護衛には国際連盟軍の中国人と日本人までがついていた。

 民族が分け隔てなく、しかも上は王族から末は小悪党の盗人まで一体感が得られたのは、後にも先にもあの場だけだったのではないか。


 確保できた電力量などの関係から放送時間が限られた海賊放送であったにも関わらず、ペータル2世の帰還と共産党系抵抗運動との融和という事実はまたたく間にユーゴスラビア王国全体に広まり、全国土でこれと連動した大規模な蜂起が発生していた。

 しかも、従来の強権的な民族主義的な抵抗運動からも穏健派が続々と共産党系抵抗運動に合流を図っていた。

 ペータル2世とチトーが率いる抵抗運動は、国際連盟軍の支援を受けて巨大化した組織力を駆使してそれまでの散発的な遊撃戦からドイツ軍との正規戦へと移行していたが、その戦闘も長くは続かなかった。

 ドイツ国内の反ナチスグループによってヒトラー総統が暗殺されていたうえに、総統代行となったゲーリング国家元帥が国際連盟との講和と対ソ戦への集中という道を選んでいたからだ。



 実質的にユーゴスラビア王国、あるいは第二次欧州大戦におけるバルカン半島の戦争はその時点で終わっていた。占領軍であったドイツ軍は武装解除されて粛々とバルカン半島から退去していたし、それを見届けたのちに陽気なイタリア兵達も両国国境から意気揚々と祖国に帰還していた。

 戦力の空白地帯となったバルカン半島にはソ連軍が迫っていたが、国際連盟軍の支援を受けた現地軍の再展開によってソ連軍もルーマニア、ハンガリー国境線の向こう側で留まっていた。


 その後に正式な終戦を迎えたユーゴスラビア王国では、ソ連と袂を分かったチトーが復権したペータル2世によって正式に首相兼国防相に任命されて組閣を始めていた。

 多民族国家である連邦王国と名を変えたユーゴスラビアだったが、その軍事力には戦後に些かの問題が発生していた。

 大戦中に実質的な国軍となっていた共産党系抵抗運動を中核に連邦軍として新生国軍の再編成が開始されていたのだが、共産党系組織の雑多な戦闘員の多くは、平和となった戦後は元の仕事に戻ってしまっていた。

 自然と国軍の中核、特に高度な軍事教育を受けた士官層には旧王国軍系将校団出身者の比率が高まっていたのだが、過激な民族主義団体である元チェトニクを含む旧王国軍系士官の比率増大は、民族融和を掲げる新政府が望むところではなく、旧王国軍とは隔絶した出身の士官途用が求まれていたのだ。


 ポトチニク中尉に正式な士官任用という白羽の矢が立ったのはそんな時だった。中尉のような存在は新生ユーゴスラビア国軍士官にうってつけだったからだ。戦時中はチトーの司令部近くにいた一方で、筋金入りの共産党員ではない事も旧王国系からみても許容しうる存在だったからだ。

 しかも、ポトチニク中尉が国内の人口比率がクロアチア人よりもさらに低いスロベニア人であったことも、多民族の融和を目指す新生国軍の士官にふさわしいと考えられていた。



 開戦前は無職というより無頼の輩で、避難民が残した家で空巣をする小悪党だったというポトチニク中尉の経歴は、正規の士官教育を受けるように推薦された時点で綺麗さっぱり忘れ去られていた。

 時流に乗ったといえば聞こえは良いが、実際には荒廃した国土でも職がなくうらぶれた人生に逆戻りかと悲観していたポトチニク中尉は、単に流されるままだったというだけの話だった。

 それは今も変わらない気がしていた。正規の士官教育を受けて任官したポトチニク中尉は、しばらくは司令部で宣伝やら急速に再編制が進む為に凄まじい量になる書類仕事についていたのだが、しばらく前に大使館付駐在武官補佐を命じられていた。

 どうも旧共産党系士官の司令部勤務を嫌った派閥によるものらしいが、皮肉なことにポトチニク中尉自身には何の思想も派閥意識も無かった。


 だが、派遣先が日本というのは些かポトチニク中尉に不安を抱かせていた。バルカン半島のユーゴスラビア連邦王国にとって極東の日本は遥か彼方の存在だったが、係累もない根無し草の中尉にとって距離は大した問題ではなかった。

 ポトチニク中尉は日本人はもしかすると言葉の通じない蛮族なのではないかと考えていたのだ。戦時中にペータル2世の護衛についていた特殊戦部隊の中には日本人の士官がいたのだが、中尉は目の前でその日本人が曲刀を振り回してドイツ兵の首を刎ねる所を目撃して卒倒しかけていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] またも厨川大尉の剣術に恐怖する人が… 大尉の剣客物語はヨーロッパ中で色々と伝説して語り継がれそうですね(…本人の意図しない形でw) 第二次欧州大戦から数十年後 老人「ニッポンのサムライがド…
[一言] 立憲君主制共産国家とは興味深い。一世紀前のモンゴルみたいに前例が無いわけじゃないけど。
[一言] >>戦時中にペータル2世の護衛についていた特殊戦部隊の中には日本人の士官がいたのだが、中尉は目の前でその日本人が曲刀を振り回してドイツ兵の首を刎ねる所を目撃して卒倒しかけていたのだった 1…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ