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1950トラック諸島殲滅戦3

 最初に迎撃に上がってきた震電を撃墜してからはもう大混乱でした。いや、敵も味方もですよ。僚機が撃墜された震電は一気に加速しながら大旋回してました。

 いや、日本軍機が旋回しようとしてこうロールするでしょう、そうすると彼らの識別記号……あのミートボールみたいな赤玉の見え方が変わるんですよ。それでよく覚えてるんです。


 多分日本軍機はこちらの編隊の後ろを取ろうとしていたんじゃないかと思いますが、数的にはまだ4機揃っていたF-85の方が有利でした。だから私達は震電の邪魔をしてやろうとしたんですが、それよりも早く編隊の左右について援護姿勢に入っていた翼端援護機が火を吹き始めたんです。

 何てことをしやがるんだと思いましたね。あれで私達が考えていた戦術はおじゃんになりましたから。まぁ後から考えてみれば無理もない話でした。多分機密を重要視していたんでしょうが、我々の編隊はそれぞれどう動くか、そうした打ち合わせとか訓練をする時間が殆どなかったんですな。


 個々の部隊ではそれなりに訓練時間は取られていたはずです。実際我々もあの頃には母機からの出撃と回収まで何とか普通にこなせるようになっていましたしね。だが、その連携となると後回しにされて結局実戦では大混乱になりました。

 翼端援護機もそれぞれ2機づつ編隊の左右にきれいに別れて猛烈な射撃を開始していました。B-36の機銃は、普段は仕舞ってあるのが射撃するときだけこうぐるりと回り込んで引き出されるんですが、その様子はこの時は見ていません。気がついたら射撃を開始してたんです。



 翼端援護機に加えて、我々の母機まで気がつくと機銃を撃ちまくってました。ところがこれが全然当たらんのです。B-36の機銃は20ミリという大口径な上によく低伸するという話だったんですが、銃弾は皆日本機の遥か後ろを追いかけているだけでした。

 敵機に当たらなくとも銃弾は銃弾だから同士討ちが怖くてとりあえず我々も他人事みたいに見ていることしか出来なかったんですが、相手もこっちも動いていれば自衛機銃なんてものは当たらないんだとある意味で安心してしまっていました。


 ところが、戦時中に私も日本軍の爆撃機編隊に攻撃を仕掛けたことがあるんですが、この時はばんばんこっちに当ててくるんですよ。私は被弾しただけですみましたが、その時は撃墜された僚機もあってびっくりしました。日本軍機には天皇の魔法が掛かってるんだなんて言われてましたからね。

 報道関係者なら貴方もご存知かもしれませんが、特に初期に生産されていたB-36は機銃の命中精度が恐ろしく低かったんです。機銃座は機関砲しか無い無人のものでしたから、機銃手は離れたところでジャイロがごてごて付いた遠隔操作の照準器を使ってたんですが、どうもこれの精度が悪かったみたいですな。


 我々の母機もそうでしたが、元々翼端援護機は初期の……乗員の訓練だか試験用だかの機体を引っ張り出して改造したものでしたから当然照準器は悪いやつが付いたままでした。

 この時も派手に撃ちまくってる割には全く効果がなくて、チョーク諸島から離脱する頃には振動で機銃の方か照準器が故障した機体もあったようです。


 尤も我々も人のことは言えません。震電が旋回を終えないうちにそれ掛かれと防御機銃座も無視してF-85編隊で突っかかって行きました。もうその後は大混乱です。

 冷静にチョーク諸島に向けて進撃していったのは核爆弾を積んだ2機だけでしたよ。まぁあっちはあっちで機内は大わらわだったのかもしれませんけど。

 何せB-36といえば1基でF-85を2機は纏めて飛ばせそうな化け物エンジンを6基も積んでるんですから、母機の機関士席でメーターが並んでるのを見た時は卒倒するかと思いましたよ。

 それに開戦奇襲攻撃が成功するか失敗するかは彼ら、というかたった二人の爆撃手にかかってるんですからね。よく考えてみれば、あの瞬間は国家の命運をあの二人が握っていたということなのかもしれませんな……



 少なくともあの時の爆撃手は完璧な仕事をしたと思います。まぁ彼ら各爆弾搭載機を守るためにこっちは必死だったんですが……気がついた時は爆弾が投下されているどころか起爆して巨大なきのこ雲が出来てました。

 実際には空中爆発した核爆弾の衝撃波にゆすられてようやく気がついたといったところです。もうその時には先行する写真偵察機なんて姿かたちも見えなくなってました。


 核弾頭搭載機も実は1機落とされてました。先行して爆撃した水中爆発弾頭を落とした奴だったと思います。日本軍機はこっちを無視してでも投弾後のB-36を狙ってたんです。

 まぁあの頃は母機から誘導される大型の誘導爆弾で対艦攻撃を行うのが流行ってましたから、少数機で艦隊上空に殴り込みに来た我々が対艦誘導爆弾を落としたのだと日本人たちも勘違いしていたんでしょう。


 核の炸裂でそれもこれも一気に吹っ飛びました。いや、海上の光景はよく見てません。戦艦も沢山沈んだらしいですが、我々も揺さぶられるやら急に無線が通じなくなるわで戦闘時以上に大混乱でしたからね。

 日本艦隊は大損害を被ってチョーク諸島もひどいことになったらしいですが、そっちは私は報道した内容くらいしか知りません……当時は日本軍の大演習を報道するというので国際連盟加盟諸国がわんさか報道陣を送っていたらしいですな。


 海兵隊が占領した後も合衆国が有利な証拠として各国の報道陣には好きにさせていたので、被爆直後から正確なところが全世界に知れ渡ってしまってました。まぁ私もそれでチョーク諸島の惨劇を知ったんですが……

 今から考えると何てことをしてくれたんだと思いますが、核を落とした我々でさえあの頃はなんだかすごい威力の爆弾位にしか考えてませんでしたからね……



 ええ、そこで爆撃機の仕事は終わりです。でも我々の仕事は終わってませんでした。それに完璧に仕事が出来たとも思えませんでしたがね。

 大した数がいたわけでもないし、奇襲攻撃になったはずでしたが日本軍機は優秀でした。あるいはこっちが弱かったのか、核爆弾を積んでいた機体が1機、我々の母機が1機、翼端援護機はのべつ幕無しに撃ち続けていたのが目立っていたのか2機が撃墜されてました。

 しかも我々の仕事は投弾したら終わりじゃありませんでした。後続する写真偵察機の帰還を待たなくちゃならなかったんです。


 核搭載機3機に翼端援護機2機に減った本隊が離脱していくのを恨めしそうに見ながら私も周囲を警戒していたんですが、いつの間にかF-85の僚機は1機だけになってました。

 震電の姿も見えなくなっていましたが、誰が撃墜したのか、あるいは爆風にでも巻き込まれたのか、それは分かりませんでした。当時の記録だと出撃した日本軍の震電は全機未帰還だったという話ですが……


 何にせよ母機が3機にF-85が2機という歪な組み合わせになった我々は、廃墟にしか見えないチョーク諸島の周りをゆっくり旋回していました。後続の写真偵察機は遅れて到着しました。

 実は向かい風で本隊が加速していたときも無線封止中で後続機には知らせていなかったようで、写真偵察機の方からすればなんで本隊があんなに先行しているのかという思いだったのでしょう。

 しかも写真偵察機は何度もチョーク諸島の上を往復していました。核攻撃後の雲だとかが邪魔で写真が撮れなかったそうで、実際撮影された写真も不鮮明なものばかりでした。


 そんなこんなで写真偵察機が仕事終えた頃にはF-85はもう燃料切れギリギリで、慌てて私らは母機に回収アームを伸ばすように言ったんです。

 ところが、私の母機はアームを無事伸ばせたんですが、僚機の方はアームが伸びても掴むハンドのところがいかれて、無線機からは僚機の焦った声がひっきりなしに入ってました。


 幸か不幸か、発進させたF-85が未帰還になった母機が1機残ってくれてましたから、僚機はそっちが回収することになりました。私の機体もぎりぎりまでアームを伸ばして僚機の様子を見せてくれてたんですが、何とか僚機がアームにしがみついたので、それで安心して母機に回収をお願いします。

 だから僚機が吹き飛んだところを見たのは格納庫の扉が閉まる直前でした。眼の前で僚機のF-85が母機ごと吹き飛んだんです。いや、正確に言えば吹き飛んだのは母機だったんでしょう。

 根本から吹き飛んだアームは皮肉なことにF-85にしがみついたままで、周りの気流が剥がされたのかエンジンはまだ動いている様子でしたが、最後の僚機は石ころのように海面に真っ逆さまに落ちていきました。



 私が回収された母機も衝撃波で揺さぶられたんですが、そのときにはもう格納庫扉は閉まってました。普段ならすぐに母機の乗員がF-85の狭苦しいコクピットから引き出してくれるんですが、その時はなぜか誰も来ませんでした。

 ひどく心細くなって私はF-85のコクピット窓を蹴破る勢いで母機の格納庫に飛び移りました。F-85の母機は子機を掴むアームに移動用の梯子が取り付けられていたのですが、押し倒された状態のアームの上をそのまま私は母機の操縦席に向かって走り出していました。

 いや、多分アームにしがみつきながら四つん這いで動いていたとは思うんですが、気分の上では走っているのと同じです。とにかく急げ急げで、与圧されていない格納庫の中は息苦しかったはずですが、そんな事も気になりませんでした。


 B-36の爆弾倉には与圧された操縦席と後部居住区画をつなぐトンネルがありましたが、F-85の母機にはさらに格納庫内からアクセスするための扉が増設されてました。

 エアロックなんて高尚な代物はないから扉を開けた瞬間に与圧区画から風が吹き込んで来たんですが、多分あの時の私は気にしなかったと思いますし、いきなり与圧が抜かれた母機の乗員も何も言いませんでした。

 慌てて僚機の様子を伺った私は、乗員の一人が指差す方向を無意識のうちに見つめて唖然としました。その海面には戦艦がいたんです。まさかあんな巨大なきのこ雲を作った核攻撃を生き延びていた戦艦がいたなんて思いませんでしたから、その時の私にはまるで幽霊戦艦のように見えていたと思います。



 今なら分かりますが、僚機を母機ごと吹き飛ばしたのは日本軍の戦艦、紀伊でした。

 これも後でわかったんですが、核攻撃で沈んだ日本軍の戦艦は演習で仮想敵となるはずだった旧式戦艦ばかりでしたが、その中の一隻、しかも旗艦だった戦艦が故障してしまったので、その代わりとして紀伊は慌ててチョーク諸島に向かっていたのだそうです。

 つまり他の戦艦が核攻撃の瞬間に安心して錨を落としていたのに対して、あの戦艦紀伊だけが多分ボイラーの火を落としていなかったのでしょう。それが紀伊だけが動けた理由だったようですが、まさか核攻撃の直後に戦艦が主砲を撃ってくるなんて思いも寄りませんでした。


 私達はF-85を回収するために編隊でゆっくり直線飛行していましたから、狙いをつけるのは簡単だったのでしょう。不思議と対空砲は1発も撃ってきませんでしたが、考えてみたら装甲の薄い対空砲は核でひどい目にあっていて、分厚い主砲塔だけがまともに動かせていたのかもしれません。

 私は唖然としたままでしたが、母機の方は大慌てて逃げ出していきました。やることがない私だけが彼方に消えていく紀伊を見つめていました。だから紀伊を最後に目撃していたのは私だと思います。



 あの紀伊は、未だに見つかっていないらしいですね。チョーク諸島で唯一核攻撃直後も稼働していた紀伊は、外洋に出たのはいいものの多分水中爆発の衝撃と空中爆発の熱線で何処もかしこもぼろぼろだったはずですから、人知れず環礁から離れた海域で沈んでいったんじゃないでしょうか。

 いや私もその後のことは覚えていますし、これまで何度も証言もしました。日本軍は紀伊を隠し持っているとか、密かに同型艦の尾張とすり替えられたとかいう奴です。

 私はあんな巨大な戦艦を隠し通せるとは思えないんですがねぇ……


 まぁこの話はこれで終わりです。私とF-85いやホブゴブリンとの関係も終わりました。実は私の機体もグアム島にたどり着いてからよく見たら被弾して使い物にならなくなっていました。

 元々開戦奇襲攻撃のために用意されていたような機体でしたから、その場で放棄されました。ミッドウェー島程ではないしてもグアム島の基地も開戦直後に増援部隊が次々来るものだから手狭となっていましたから、使い道のないホブゴブリンはスクラップヤードですぐに潰されていたはずです。

 母機の方もアームを取り外して強引に通常の爆撃機仕様にされたらしいです。それどころか核を投下した機体も翼端援護機もすぐに通常仕様にされて、消耗が激しかった日本本土爆撃に投入されて乗員ごと撃墜されていったと聞いています。

 結局それで核攻撃に参加して生き延びたのは、仕事がなくなった整備員と一緒に輸送機で本土に帰還した私だけだったということです。いやその後も私もF-87に機種転換して実戦にも参加したのですが、幸いなことに終戦まで撃墜はされませんでした。


 考えてみれば奇妙な戦場でした。あんなちっぽけなF-85ゴブリンとあんな巨大な戦艦紀伊が核攻撃のきのこ雲を背景に直接撃ち合っていたわけですからね。あんな奇妙な戦場はあそこだけだったと思いますよ。

四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/46f.html

紀伊型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbkii.html

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