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1950トラック諸島殲滅戦2

 核攻撃の本命に用意されたB-36は4機ありました。御存知の通り、投下された核弾頭は2発ですから、もう半分の2機は予備でした。結局ミッドウェーで行われた点検でもどちらの機体も正常だったので予備機は必要なくなったんですが、護衛機を兼ねて彼らも最後まで随伴しました。

 使用された核弾頭は2発……ずいぶん気合を入れたものですが、最初の1発は水中爆発、次の1発は空中爆発となるように時限信管が調整されていました。


 F-85の実戦仕様機、ホブゴブリンに乗り込んだ我々の母機も核攻撃機に随伴していたんですが、爆撃隊には他に写真偵察機型のB-36も配属されていました。しかも、これも予備含め4機です。

 2機は我々を含む本隊に先行してチョーク諸島に集結する日本艦隊を撮影してました。簡単な任務に見えますが、時間差が重要でした。

 核攻撃は大統領のラジオ演説と宣戦布告の直後と決められていましたが、本隊よりもあんまり先行すると日本軍に警戒されるし、本隊の攻撃前に撮影しないと偵察になりませんでしたからね。

 残りの2機は核攻撃後に進入して戦果を確認するための機体だったんですが、こっちはあんまり上手く行かなかったらしいです。あのきのこ雲だとか、水面の霧だとか、核爆弾が炸裂したあとの諸々が邪魔になってうまく撮れなかったんだとか……


 あとは我々随伴機ですね。護衛戦闘機のF-85が我々4機、その母機が同じく4機。その他に翼端援護機仕様が4機随伴しました。これは爆弾倉を空にする代わりに機銃弾を追加搭載して防御火力を強化したという触れ込みだったんですが……実際あんまり上手くは行きませんでした。

 何にせよ随伴機はちっぽけな我々を除いて合計8機、つまり先行して偵察機2機、本隊が12機、後続の偵察機が2機の計16機の爆撃隊でした。



 16機のB-36に、整備兵を乗せた輸送機なども加えれば飛行隊は優に20機を越えた大編隊になっていました。そんな大型機ばかりの大編隊も、少しばかりの訓練後にはネバダの基地を発進してミッドウェーに向かいました。

 そこで我々は初めて攻撃目標がチョーク諸島であることも聞いたのですが、それよりも私などは始めて来たミッドウェー島の風景のほうが印象的でしたね。 訓練中は兎も角、太平洋を横断している間は我々も搭乗員なのに操縦桿から離れて母機の中で待機していましたから、まるで自分が荷物になったかのようでした。

 だからミッドウェー島ではようやく人心地ついた気がしました。近くにはハワイ王国もあったはずですが、飛行中は見ませんでした。後からあの時点でハワイ占領部隊を途中で追い抜かしていったことを知りましたが、途中そんな話は一度も出ませんでしたね。



 本土からミッドウェー島までざっと5千キロ位はありますから、B-36や輸送機ならひとっ飛びってところなんでしょうが、私達戦闘機乗りに取っては尻込みするどころではない距離です。

 今もそうなんでしょうがミッドウェー島と言うのは殺風景なところでした。以前はサンド島とイースタン島の2つの島を海軍と海兵隊が分け合って使っていたらしいですが、あの頃はもう海兵隊は隅の方に追いやられて海軍と陸軍が幅を利かせていました。


 何と言っても太平洋を西へ東へと移動するのは海軍と陸軍、というより我々陸軍航空隊がほとんどです。大きな方のサンド島だってそんなに大きな島じゃなかったんですが、半世紀ほどの間に苦労して島ごと改造されて要塞化されたそうです。

 尤も島に降りた我々には要塞という感じは無かったですね。元々ミッドウェー島、というよりミッドウェーは環礁ですからサンゴ礁かなにかに毛が生えたような感じだったらしいですが、サンド島の方はそれがほとんど真っ平らにされて滑走路と駐機所だらけになってました。

 いくつか防空戦闘機用の掩体もあったんですが、B-36用の巨体でも収められるような掩体なんて、あの小島にはとてもとても作れるもんじゃ無いですから、駐機所に輸送機と一緒に置くのが精一杯です。



 そんな吹きさらしの駐機所でしたが、輸送機で同行した整備兵と元々ミッドウェー島守備隊所属の整備班とで、我々のF-85を含めてみっちりと整備が行われました。

 その間に我々含め搭乗員はイースタン島の居住区で一休みさせてもらいました。流石にミッドウェー島にいる間は警備の兵隊も肩身が狭そうでしたよ。何せ狭い島で、駐機所でも核攻撃機も区別されずに翼を接するばかりに置かれてましたから。


 広い方のサンド島が滑走路と駐機所を担っている分、イースタン島は居住区画が集中していました。

 元々は両島おんなじように整備されていたらしいですが、どんどんミッドウェー島を中継地として使用する機体が大型化するものだから、イースタン島の滑走路では短すぎて追いつかなくなってきて、結局航空機の支援機能をサンド島に集中させていったらしいです。

 それにサンド島には他にも地下を掘り下げて巨大な燃料タンクも置いてあったらしいです。いや、今もあるんでしょうが、もしかすると我々は燃料タンクの上で生活していたのかもしれません。


 B-36は頑張れば一機あたり百トンの燃料を詰め込めるんです。つまり我々の飛行隊だけでざっと千トンか二千トンの燃料が島から持ち出されるという寸法ですよ。

 もちろん戦争となれば我々だけじゃありません。実はB-36はフェリー輸送状態ならミッドウェー島を通り過ぎて直接本土からグアムあたりまで飛べたらしいですが、大半の機体はミッドウェー島を訪れて途中給油していたはずです。

 飛行機だけじゃない。海軍の艦隊だってハワイを占領してからもミッドウェー島を利用していました。何でもハワイには旧式の整備施設しか無くて、結局大半の艦艇はミッドウェー島を利用していたらしいですね。


 ミッドウェー島が改造されていたのはサンド島とイースタン島だけじゃありませんでした。この2つの島の間には元々環礁の中に入り込むための水道というのでしたか、掘り下げられた道があったらしいですが、守備隊の兵隊から聞いた話ではそれがこの何年かで一気にイースタン島側に掘り込まれていました。

 それで環礁の内側には飛行機や艦艇が消費する膨大な量の燃料を本土から運んでくるタンカーだの貨物船だのの桟橋はあるわ、仮設の浮きドックはあるわで足の踏み場もないんじゃないかという有様でしたね。



 どっちを見ても人工物のほかは海しか無くて、しかもその海も出入りする船のせいか油っぽい気がして泳ぐ人間もいませんでした。いや、誰もはしゃぐ気にはなれなかったのは開戦を控えた緊張感もあったのかもしれませんが……

 念入りに整備されてからも何日か我々は待機していました。多分本土の、合衆国政府の準備か何かを待ってたんでしょう。あるいは単に作戦スケジュールどおりだったのか……


 しばらくしてから出撃命令が下りました。多分核弾頭もこの時に準備されたんでしょうが、流石にこの日は警備兵も張り切っていて我々も母機を離れられませんでした。というより私達は出撃したら愛機の狭いコクピットにもう乗り込んでました。

 実はその前にミッドウェー島からは海兵隊の姿が消えてました。彼らも多分チョーク諸島占領部隊の一員だったのだと思います。今にして思えば彼らのうち何人がミッドウェー島まで戻れたのか……


 多分我々の飛行隊も途中で彼らを追い抜かしていったのだと思います。上空の我々も輸送船団の彼らもミッドウェー島からグアム島に向かう様に最初は針路を偽装していました。最後の変針点までは実際にグアム島に向かう針路を辿っていたはずです。

 そうした偽装針路をとってもミッドウェー島からチョーク諸島までは5千キロ位だったらしいです。もちろん当時の戦闘機で飛べる距離じゃありません。無茶苦茶な運び方をされる我々が動員されるのも、作戦計画からしたら無理もなかったということですね。


 開戦直後にチョーク諸島は占領される予定でしたが、輸送船団の他にグアムから出撃した艦隊も有りました。

 空母機動部隊で制空権を奪取する予定だったんですが、彼らも無線封止やらなにやらで開戦後にしか戦闘機を出撃できなかったようなので、核弾頭を投下するその瞬間に爆撃隊を援護できるのは我々だけでした。



 最後の変針点を回ったあたりから編隊も慌ただしくなってきました。まぁ我々の乗り込んだF-85のコクピットに入ってくるのは、有線でつながった母機の機内通信だけだったんですけど、それでも慌ただしく加速するのが分かりました。

 どうも向かい風だったらしくて、変針点から速度をあげなくちゃ良いタイミングでチョーク諸島にたどり着けなかったらしいです。ええ、さっきも言った通り核弾頭投下のタイミングは大統領の宣戦布告を告げるラジオにあわせて行われる予定でしたからね。


 そのラジオですか、ああ、全将兵が聞くことにされていたという話ですが、あれは嘘です。というより誇張されてますね。

 我々のように飛行中の部隊だってあったんですから、ラジオ放送を聞けたのはミッドウェー島やグアム島みたいな海底ケーブルが繋がった中継点の近くか、よほど通信機能が充実した……そう、海軍の艦隊くらいだったんじゃないですかね。



 当時の我々にしてみたら、ラジオ放送による宣戦布告は余計なことをしてくれやがってという感覚でした。そんな派手なことをするから早々に見つかったんじゃないかと考えていたんです。

 そうです、我々F-85は予定よりも早く出撃することになりました。勿論私たちは文句を言いましたよ。何と言ってもF-85は30分しか飛べないんですからね。

 でも、実はその時編隊本隊から先行する写真偵察機が既に日本軍の戦闘機と邂逅してたんですな。チョーク諸島には震電の部隊がいて、多分変針点のあたりから島に置かれたレーダーで探知されてたんでしょう。怪しい編隊が段々とこっちに近づいてくるというので出撃してきたんでしょうな。


 B-36改造母機から降ろされた我々は真っ先に震電と遭遇しました。本土じゃ日本は二線級の劣等民族だのと言われてましたが、実際にはずんぐりむっくりのF-85よりあっちの戦闘機のほうがずっとスマートで強そうでした。

 戦前に識別表を見ていたときは、日本軍の震電は主翼のほうが後ろに付いてる妙ちくりんな機体と考えていたんですが、実際に機尾から火を吐いて飛んでいるのを見るとそんな考えは一瞬で吹っ飛びましたよ。


 識別表によれば実はF-85の方が震電よりも最高速度は上のはずなんですが、実際に飛んでいる姿からするとそんな感じはしなかったですね。

 あっちは開戦時点でも5年近く就役してる機体でしたからエンジンを換装していたのか、それとも機体全体の迫力がそうみせていたのか、実際多分一対一で戦えばF-85は格段に不利だったと思います。速度は兎も角、武装も機動性も多少旧式でも震電の方がずっと上だったと思います。


 でも、最初に落ちたのは震電の方でした。今だから言うんですが、あれは宣戦布告前の攻撃だったのかもしれません……多分震電の方はF-85の方を認識していなかったんじゃないかと思います。それはそうでしょう、爆撃機の爆弾倉から戦闘機が出てくるなんで、普通は思いつきませんよ。

 そうです、あの戦争で最初に撃墜されたのは編隊に警告しに来た震電で、撃墜したのは私の僚機のF-85でした。まさかあんなちっぽけな戦闘機が開戦の号砲を撃つことになるなんて、きっと誰も信じなかったと思いますよ。

四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/46f.html

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