1950トラック諸島殲滅戦1
お待たせしました。隊の広報担当士官から話は聞いております。記者さんが自分に御用とか……ああ、これですか。
……よく写真が残っていましたね……間違いありません。これはたしかに我々が乗り込んでいたホブゴブリンです。
確かに我々の飛行隊に配属されていたのはマクドネルF-85ゴブリンです。ええ、今デイトンに展示されている機体も確かにゴブリンです。ですがこの写真をよく見てください。主翼の折り畳み位置と全体的な形状が異なるでしょう。
我々がホブゴブリンと呼んでいたのはこの写真の仕様の機体だったのです。この仕様の機体はすべてチョーク諸島への核攻撃に投入されて残存機はありません。自分を探し当てたということはもうご存知でしょうが、部隊の生き残りは私だけでした。
最初からお話しましょう。F-85が制式化されたのは1949年のことでしたが、私がF-85の実験部隊に配属されたのはその前の年でした。私の前にも何人かの操縦士が配属されていましたが、飛行試験はその時点でも難航していました。
あの当時の陸軍航空隊の戦闘機部隊は悲惨な有様でした。一応早い時期から完全ジェットのP-59なんてものもあったんですが、これも不出来な代物で……海軍初の完全ジェット機もあんまり褒められたものじゃなかったですから、米国製のジェット・エンジンそのものが問題を抱えていたのかもしれません。
確かドイツ製の鹵獲エンジンとやらもソ連経由で回ってきていたらしいですが、そっちより密輸入されたイギリス製の方が参考になっていたらしいです。詳しい話は知りませんが、ドイツ製はソ連の扱いが杜撰だったらしくて……いやこれは余談でしたね。
いずれにせよ、当時の陸軍航空隊の戦闘機部隊は旧式化したレシプロ機と今一パッとしないジェット・エンジン機だらけだったわけですが、当時の最新鋭機も蓋を開けてみれば海軍機と同仕様のカーチスの複合動力機であるF-83でした。
海軍仕様はF15Cでしたか。コクピットの前にレシプロエンジン、その後ろにジェット・エンジンを積んだ機体です。結局陸軍航空隊が太平洋戦争の開戦初期で使った主力はこれでした。
いや、私も何度か乗ったことがありますが、単独なら悪い機体ではないですよ。レシプロエンジンの方は慣熟した大出力エンジンだし、ブースト用のジェット・エンジンは信頼性の方は最初はあれでしたが、腕の良い操縦士が乗れば日本軍の震電相手でも何とかやれたんです。
それ以後の新型機が相手だと辛かったですがね……
当時の陸軍航空隊はこんな有様でしたが、私が配属されていた部隊もP-73、これも海軍のカーチスF14Cキティーホークの陸軍仕様でしたが、それからF-83に機種転換される予定だったんです。
ところが完全ジェット機のテストパイロットに選ばれたと聞かされて私は有頂天でしたし、周りからも羨ましがられました。今にして思えば私は運が良かったですね……
その後、私が所属していた原隊はF-83装備でフィリピンに展開して日本軍の航空撃滅戦ですり潰されていったんです。当時の私の同僚も大半は終戦を迎えられなかったようです。
それで、そう当時はまだXナンバーが付いていたからXF-85でしたが、ゴブリンを始めてみた印象ですか。まぁご想像にお任せしますが、原隊を意気揚々と出てきたのを後悔したのは確かでしたね。
まだ新興のメーカーに試作機を作らせていた時点で察するべきだったのかもしれませんが、まぁそれ以前の問題でしたからね、あれは。まともな戦闘機だと思ってるものは誰もいなかった。
あの頃の陸軍航空隊は、カーチス大統領の方針もあって重爆撃機部隊に集中的に予算が投入されていました。何かことが外国で起こったら、大型の重爆撃機が飛んでいって、鈍重な戦艦が来るまでの間は重爆の編隊で合衆国の威光を知らしめようというわけですね。
戦闘機隊はその煽りを食らって予算は抑え気味で、特に新型機の開発予算なんてものがないものだから40年代の主力機は海軍機の転用機ばかりでした。海軍の方は逆に艦隊防空用の戦闘機ばかりだったと聞いています。
F-85やその後のF-87……カーチス・グラマンF-87ブラックホークあたりはそれとはまた別です。この2機種は全く異なる機体ですが、どちらも重爆撃機部隊を護衛する為に開発された機体でした。
あの当時の戦闘機はどれも航続距離が頼りなかったんですが、逆に重爆撃機の方はB-32にB-36、あとにはB-60と重爆撃機の性能のほうがずっと進んでしまったんですね。
F-87の方はご存知ですか。四発複座の大型機で燃料を大量に積み込んで重爆撃機部隊に随伴して直接護衛するための戦闘機でした。F-85の方は全く違います。
子鬼のゴブリンとはよく言ったもので、極端に小型化した機体で、用があるまでは重爆撃機の爆弾倉の中に収容されることで航続距離を補おうとしたんですな。
F-85と言うのはとにかく特殊な機体でした。爆撃機の爆弾倉に収まるように主翼は折りたたまれるし、胴体はエンジンを積んだたらコクピットと機銃で精一杯です。
しかも、爆撃機の腹から出撃して、また腹に戻らなくちゃならないんですからね。
配属された当初は私も最初は妙ちきりんな機体の担当になっちまったと嘆いたものですが、そういつまでも嘆いてばかりはいられません。とにかく実用化に向けて試験飛行が繰り返されました。
最初はまぁ……卵みたいな飛行機が本当に飛ぶか不安でしたがね。飛行特性は確かにそれほど良くなかったです。試作機は初翼面積も小さかったですしね。ただ、意外と速度は出ました。抵抗となる翼面積が小さいのと……あとはレーサー機みたいに胴体も短くて空気抵抗が少なかったんですかね。
ああ、そうですデイトンの展示機はその試作機の方なんですよ。
いや、最初はずっとその試作機で飛んでました。困ったのは地上走行用の車輪がなかったことですが、それだと実用試験がいつまでも進まないので仮で固定の脚をくくりつけてもらってそれで何度か飛ばしてみました。
私が配属された当初、試作機が2機体制だった頃は実は実用試験もそんなに進まなかったんです。よくは知りませんが、配属前なんか試作機の片割れは飛行試験どころか風洞実験に持っていかれていたようですが。
飛行試験の結果もあんまり良いものじゃなかったです。発進はできても帰還するときは母機で気流が乱れて失敗してましたから。普通ならそこで実用化の見込みなしでおしまいになって機体はスクラップとなっていたところです。
あの頃には長距離ジェット戦闘機のF-87も試験飛行段階でしたし、空中給油だって実験ぐらいはやっていたはずです。それがF-85が急に実用化が進められたのは、あの段階で開戦時に核攻撃部隊を出撃させようと思ったら、随伴できる戦闘機はF-85しか無かったからだと思いますね。
当時は上層部の思惑はよく分かりませんでしたが、古株の整備員達から聞いた話では急にF-85の開発計画も優遇され始めていたそうです。まぁあれが優遇だったかどうかは搭乗員からすれば異論もありましたがね。
確かに機体の改良は急に進められるようになりました。一番の変化はF-85の方じゃありません。母機の方でした。
F-85は試験飛行の段階ではB-32を母機にしていました。B-36はその頃に制式化されたばかりで生産数も少なかったですし、こんな胡乱な機体の試験には使えなかったんでしょう。
ところがF-85の実用化が急がれると急に改造されたB-36がぽんと渡されたんで、古株の整備員はびっくりしてしまったらしいです。私なんかはすぐに母機がB-36になったものだからこんなもんだろうとしか考えていなかったんですがね。
母機がB-36、しかも専用の改造機になったのは相当ありがたかったようです。B-32だって悪い機体じゃないんでしょうが、B-36は恐ろしいほどの巨人機で、どの数値を見てもざっとB-32の倍は有りましたからね。
我々にとって有り難かったのは爆弾倉が大型化していたことです。何と言ってもF-85のねぐらですから。F-85の折りたたみ式の主翼は大型化されましたし、折りたたみ箇所も格納庫の余裕が出来た分だけ外翼側に移動して強度も向上しました。
母機側のアームが大型化したのも改善点の一つでした。B-32の爆弾倉には収まりきれなかった程の頑丈で長大なアームは、母機近くの乱流を回避して安定してF-85を掴み取るのが目的だったらしいです。
実際に改善点がどれだけ効果があったかは分かりませんでしたが、我々の飛行隊もB-36を母機とすることで何とか訓練段階までこぎつけたのは確かです。たった四機とはいえ、改良型が曲がりなりにも入ってきたので、試験飛行で使われていた試作1,2号機は返納することになりました。
そうです、デイトンの機体は返納された実験機です。それで原型のゴブリンと区別をしようということになって、欧州の怪物に詳しい人間が実戦投入された機体をホブゴブリンと名付けたんです。名付けの理由ですか。いや、私は知りません。
制式化されたとはいっても、部隊に来たのは試作機に毛が生えたようなものでした。微妙に仕様も違っていたのは治具もなしに手作りで製造されていたせいか、何かを見分ける試験目的だったのか、いずれにせよその頃からは実戦投入を前提とした試験というよりも訓練が専ら行われていたと思います。
よく分からないまま移動の命令が来たのは、そうでしたね新年を迎える少し前だったと思います。若い整備兵がどこから持ってきたのかありあわせの機材で焼こうとして近くの農家から七面鳥を買い叩いてきたのを覚えてます。
結局、七面鳥は基地外に放されました。クリスマスが来る前に母機ごと西海岸に移動が命じられたんです。
西海岸には既に攻撃隊が集結していました。いや、もちろんその頃にはなんの集まりかも知らなかったんですが、開戦初撃の爆撃機部隊が勢ぞろいしていたんです。
それに我々のような随伴機、いやF-85だけじゃあありません。母機もF-85も妙な機材を満載した試作機のようなものだったから整備兵を乗せた輸送機までぞろぞろと付いてきましたから大所帯でした。ネバダ州のちょいと内陸にあった基地は手狭になるくらいでした。
そうですね、あの爆撃隊の事も説明しておきましょうか。そうです、チョーク諸島の日本艦隊を殲滅した、あの爆撃隊のことです。記録には色々と残っていると思いますが、爆撃隊に参加して……実際にチョーク諸島の上空に行った将兵で太平洋戦争を生き延びたのは私だけという話ですから。
ああ、それは先程も言いましたか……いえ、違います、F-85の搭乗員だけじゃありません。爆撃隊に参加した全員が、私を抜いてその後戦死したんですよ。
爆撃隊の主力は言うまでもなく核攻撃用のB-36です。あいにく細かいところは私も知りません。なにせ駐機中でも警備の兵隊がうろうろしてましたから。警備の兵隊を乗せる輸送機も態々用意されてました。
ただ、核攻撃用と言っても機体には特に大きな改造はされていなかったらしいです。B-36が大型で別に改造しなくとも爆弾倉に大型の核爆弾を詰め込めたというのもあるんでしょうが、あの頃は核弾頭と言っても結構杜撰に扱われていましたから。
チョーク諸島で核が本当に使われるまで、多分敵も味方も核のことなんて本当はよく知らなかったんじゃないかと思いますね。警備の兵隊も核だから警備してたんじゃなくて、秘密兵器だから守ってただけなんじゃないでしょうか。
警備の兵隊を乗せた輸送機とはミッドウェーで別れました。いや、うちの整備兵を乗せた輸送機とはもちろんグアムで再会しましたが、警備兵はどうなったかは知りません。
あの頃は本当に陸軍航空隊も一期一会でしたよ……
カーチスF14Cキティーホークの設定は下記アドレスで公開中です。
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カーチスF15Cフェニックスホークの設定は下記アドレスで公開中です。
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四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。
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