1949ハワイ、開戦前夜9
ニューヨーク郊外の静謐な高級住宅街にあるその邸宅に奇妙な客人が訪れたのは、暗い嵐の夜だった。全天は分厚い雨雲に覆われて星々の姿も垣間見えなかった。
邸宅の女主人は既に政治の表舞台から去っていたが、彼女を慕うものが訪れる事は少なくなかった。それでもその日のような土砂降りの中で訪問するものはいなかった。
ずぶ濡れとなって訪いを入れる客人の身元を訝しげな顔で確かめた使用人は、客人の顔を確認するなり慌てて女主人の所に駆けつけていた。
尤も書き物をしていた邸宅の主人、エレノア・ルーズベルトは眉一つ動かす事なく茶と客間の用意を命じただけだった。
客間の扉が開く音を聞いたカーチス前大統領は、濡れそぼった外套を乱雑に放り投げると慌てた様子でエレノア元大統領に深々と頭を下げていた。
老婦人に前大統領が傅く様はまるで米国が捨て去ってきた筈の旧大陸に残る女王と臣下の関係のようだったが、この景色を目撃したのは二人分の茶を載せた盆を持った若い使用人だけだった。
うやうやしく上座にエレノア元大統領を導くと、決まり切った挨拶の言葉を述べた後にカーチス前大統領は整えられた口ひげを震わせながら南部訛りの重々しい口調でいった。
「急な訪問申し訳ありませんマダム。ですが事は急を要します。マッカーサー大統領は戦争を決断しました。フィリピンの独立運動を抑え込むために問題の根源から断つつもりです。
陸軍航空隊にいる私の友人が、新型のB-36装備の重爆撃機部隊がグアムに展開する準備を行っていると知らせてきてくれました。既にフィリピンに派遣されている陸上部隊の存在を考慮すると、おそらく近いうちに日本に対して最後通告が行われるものと思われます。
日本帝国は来年早々に大規模な艦隊演習を予定しています。マッカーサー大統領はこれを我が国に対する明確な挑発行為であるとして何らかの懲罰的な行動に出る気かもしれません……」
カーチス前大統領はひどく憂慮した表情でいったが、エレノア元大統領の反応は鈍かった。
「その……新型機のことはよく分かりませんが、グアムではなく直接フィリピンに展開して独立派の民兵を威圧するつもりではないですか。マッカーサー大統領は元々軍人ですから、陸軍には強力なルートが有るはずです……確か貴方の政権時にもフィリピンに爆撃機を出動させていたと思いますが」
それを聞くなりカーチス前大統領は苦々しい顔になっていた。
「その可能性は、低いでしょう。私が推し進めていた重爆撃機による戦力の緊急展開構想は、フィリピンでは功を奏さなかったことはマダムも御存知でしょう。
ろくな武装や明瞭な拠点があるわけではない独立派に対抗するには爆撃機はあまりに不向きでした。彼らを殲滅するには虱潰しに歩兵で治安維持作戦を行うしかないが、それを行うには現地のフィリピン人部隊を総動員したところで頭数が足りませんよ。
元々フィリピンに投入された国防予算は対日戦を想定したマニラ要塞の構築に大部分が割かれていましたし……」
エレノア元大統領は、カーチス前大統領の言葉を検討するようにしばらく黙って目を閉じていたが、疑問点を一つ一つ消すように言った。
「そもそも、その新型爆撃機は貴方のペットプランだったのではないですか。あの頃は多くの試作機が航空会社に発注されて話題になっていましたね。確か計画名は……」
「フライング・フォートレス計画、ですね。確かにB-36は私が大統領のときに主導した計画から誕生した機体です。太平洋と大西洋という大海に挟まれた我が国は長大な海岸線が無防備でさらされている。これを目指す敵軍を海上で阻止するのが空中要塞計画の主目的でした。
だが、それはフォートレスの名が示す通りに空中の阻止線、要塞線のつもりでした。決して攻め込む為の機体ではない。それに、各社に試作機の発注を行ったのは経営状況の悪化からなる倒産の連続を避けるためでした。
マダムは日本軍が先の大戦で投入した一式重爆撃機をご存知ですか。私が大統領選に出る前にわかったことですが、あの機体は10年前にボーイング社が倒産した際に管財人によって売却されていた試作爆撃機が原型となっていました。
ダミー会社をいくつか間に挟んでいたとはいえ、軍用の爆撃機仕様のまま海外に売却される事は通常ならありえませんが、ボーイング社は売上を得るために軍から発注した試作爆撃機を民間機仕様に改造していたらしく、そのまま売却されていたようです。
これは我が国の国防体制にとって重大な過失事件であったといえますが、関係者の多くは別の受け取り方をしました。つまり日本は所詮猿真似しか出来ない2等民族であり、同時に自分たちの技術力は世界大戦に置いても通用するものであるとの結論に達したのです。
ですが、これは手前勝手で矛盾を抱えた考えだと言わざるを得ません。技術力というものの本質を理解していないと言っても良い。日本人達が製造した機体はボーイング社の試作機そのままではないし、戦時中に彼らが投入した改良機の存在も無視していましたから。
不思議なことに実際に操縦桿を握ったことのないものほどこうした考えに取り憑かれていました。操縦士は、誰よりも実際の機体の良し悪しに命をあずけるからでしょう。
私は多くの会社にチャンスを与えるとともに、操縦士達に選択肢を委ねる競合試作を提案したつもりでした。だが、実際に採用された機体はあまりに攻撃的な機体であったと言わざるを得ません。おそらく陸軍航空隊の強硬派は重爆撃機部隊だけで戦争を終わらせるつもりなのでしょう」
それを聞いてもエレノア元大統領は目をつぶったままだった。しばらくして薄く目を開いてから記憶を探るように淡々とした口調で話していた。
「合衆国内部の……ニューヨーク証券取引所の株価を見る限りでは開戦の兆候はみられないわね。重車両を含む自動車業界の銘柄は未だ低迷していたはずです。船舶関連も大半が軍需であるはずですが、代々の政権で大型艦の建造維持に集中していたから商船関連は未だに低水準ね。
航空機関連は貴方の代で確かにだいぶ軍需が伸びたはずですが、ここ最近ではチャンスヴォート・コンヴェア、ダグラス、ロッキード・マーチン……このあたりの主要メーカーはどこも大きな値動きは無かった……」
一旦エレノア元大統領は口を閉じると、まるで眠気がそこで吹き飛んだとでもいうかのように目を見開いてカーチス前大統領の顔を見つめていた。
「仮に戦争になるのだとしたら、もっと重要な産業があるわね。消耗品である弾薬や製鉄関係に対して政府からの発注があるはず。経済を統制するにしても我が国は資本主義からなる自由の国なのだから限度がある。
少なくとも今のところ経済面からは開戦を伺わせる兆候は見られません。重爆撃機部隊の移動は平時の行動ではないという貴方の主張に証拠はあるのですか」
実際のところ、政権を担っていたときからカーチス前大統領は経済には疎かった。今も経済紙を毎日のように読み込んでいるのであろうエレノア元大統領の知識に圧倒されていたが、しどろもどろになりながらも答えていた。
「その……マッカーサー大統領は既存の兵器と備蓄された分の弾薬で事足りると考えているのではないでしょうか……」
「それは少し考え辛いわね。貴方はいけ好かないかもしれないけれど、マッカーサー大統領は工兵畑で陸軍の最高位まで上り詰めた人です。それに日本軍は強大な艦隊と多数の同盟国を有しています。
それに我が合衆国がフィリピンやグアムを舞台に日本と戦争になった場合、太平洋という広大で何もない海域に補給線を設定しなければならないという不利な点があるのではないですか。
十分な準備もなしにマッカーサー大統領が安易な開戦を決断するとは私には思えませんね」
真っ向から否定された形だったが、カーチス前大統領も頭を振っていた。
「マッカーサー大統領、いえ、陸軍航空隊には既存兵器の範疇に留まらない切り札が存在していると思われます……」
懸念顔のカーチス前大統領に対して、エレノア元大統領は表情を消した顔を向けていた。
「例の……原子核兵器ですか……あれがもう完成しているというのですか」
カーチス前大統領も苦々しい顔で頷いていた。
「やはりマダムも原子核兵器のことを臨時大統領に就任した際にお聞きになっていたのですね。あれは元々マダムの御主人が大統領に就任していた時期の半ばにナチス・ドイツへの備えから始められた計画だと聞いています。
しかし、同時期に英日もまた同種の兵器開発に着手していたのは間違いありませんでした。しかも、ソ連が占領した地域のドイツにはナチスの科学者は殆ど残されておらずに南西部に疎開させられていました。
ドイツ人科学者、特に先端技術開発に携わっていた著名な科学者が出国した後にいまの南西ドイツに帰国した様子がないことからしても、ナチスの研究は英日に吸収されたのは間違いないでしょう。
彼らに対抗するためにも進められていた原子核兵器ですが、私が政権を担っていた時期にはまだ未完成ということでした。ただ、政権末期になると御存知の通り私の無能ぶりは知られていましたから、原子核兵器の開発に熱心だった航空隊の強硬派はホワイトハウスから距離をおいていました。
あるいは、試作段階であれば密かにその時期に原子核兵器は完成していたのかもしれません。それが対外強硬派、いや強いアメリカを掲げるマッカーサー政権に開戦を決意させる切っ掛けとなったとも思われます」
一旦口と目を閉じると、大統領時代に市民に見せていた快活な笑顔の痕跡も見られない程に憔悴した表情でカーチス前大統領は続けた。
「おそらくマッカーサー大統領と陸軍航空隊は全く新しい形の戦争を始めるつもりなのでしょう。強大な威力を持つ原子核兵器を開戦初頭に用いて一方的に攻撃を行えば、前兆を隠したまま戦略的な奇襲を行うことが出来ます。グアムに移動する部隊は、原子核兵器の運搬機として運用されるに違いありません」
憂いを帯びた声でカーチス前大統領は言ったのだが、エレノア元大統領の視線は冷ややかなものだった。
「現状でも開戦はありうるという貴方の判断理由は理解しました。しかし、わからないことが一つあります。貴方はそれを私に説明して何を期待しようというのですか」
カーチス前大統領は一瞬唖然としたが、意を決するように口を開いていた。
「原子核兵器があるとは言え、マダムがおっしゃった通り日本には英国を始めとする同盟国が存在します。仮に予想外の長期戦となった場合、合衆国は複数の戦線を抱えかねません。
ソ連との関係も微妙な今、合衆国は外交手段を用いた問題解決を試みるべきなのではないでしょうか。そのためにもマダムのお力添えをお願いしたいのです」
カーチス前大統領が強い意気込みを込めていたが、エレノア元大統領の視線は変わらなかった。
「何か勘違いされているようですが、貴方がどう思っているかはともかく、マッカーサー大統領は国民の信託を受けた大統領です。それに対して私達は元大統領、さらに言えば貴方は兎も角、私は国民の信託も受けずに大統領になりました」
慌ててカーチス前大統領は何かを言おうとしていた。支持率を考えればエレノア元大統領が女性ながら選挙に勝って再任される可能性は無いわけではなかった。
それをこんな私邸に隠遁させるようにしてしまったのは誰が行っても難しい世界大戦の講和会議における仲裁人などを自分が押し付けてしまったからだった。そう考えていたのだろう。
エレノア元大統領はカーチス前大統領の思いを知っているのか知らないのか、手で遮りながら続けた。
「元大統領、その肩書を手にすれば厚かましく政権にものいうことも出来るでしょう。ですが忘れてはなりません。自由と平等を掲げるこの国において私達の立場は一国民に過ぎないのです」
エレノア元大統領の独白のような言葉を聞くと、カーチス前大統領は目に見えて憔悴して頭を垂れていた。内心で元大統領はため息を付いていた。どうにもこの元パイロットは人は良いのに政治家としては諦めが良すぎる気がしていた。
「我々には元大統領として今の政権に口出しする権利はありませんが、外交の窓口を確保しておくことに意味はあるでしょう」
その声を聞くなり安堵の色を隠そうともせずに顔を上げたカーチス前大統領は、まるで子供か子犬のようだった。その様子に苦笑しながらエレノア元大統領は視線を反らしていた。
だが、二人にも予想外だった。マッカーサー政権は最終通告など行わなかった。米国陸軍航空隊の狙いは日本海軍の艦隊演習そのものだったからだ。
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