1949ハワイ、開戦前夜7
既に船はハワイ周辺海域を越えてミッドウェー近くに辿り着いているらしい。船内の狭苦しい兵員居住区画にそんな噂が流れていた。
古びた貨客船を改造した兵員輸送船の船縁は噂を聞いた兵士達で鈴なりになっていたが、サンフランシスコを出港してから一度も見たことのない陸地はやはりどこにも無かった。
そもそもミッドウェー島に関して地名以上の知識はドラゴ二等兵にはなかった。出港前に聞いた話では、ミッドウェー島は太平洋に浮かぶ小島で本土とフィリピンを結ぶ航路の中継点になっているということだったが、それ以上は知らなかった。
別にドラゴ二等兵だけが無知だったというわけではないだろう。この時期の米陸軍兵士、というよりも本土の若者は大半が北米大陸の外に関する関心は薄かった。
それに低所得層が多いこの第24連隊の下士官兵は、軍に入るまで自分の州以外には出たこともないといったもののほうが多かったのではないか。
だからミッドウェー島をひと目でも見ようと、船酔いしているものを除けば船倉に押し込まれるように作られた居住区画から這い出てきた兵士の数は多く、出遅れたドラゴ二等兵の目には鈴なりになって危なっかしく手摺から身を乗り出している兵士達の後ろ姿しか見えていなかった。
だが、ドラゴ二等兵は落胆はしていなかった。兵たちの隙間から垣間見える青い海と、境目が分からないほど似た色がどこまでも続いている空だけでも目新しい光景だった。
北米中部の大平原にあるちっぽけな農村に生まれたデイビッド・G・ドラゴ二等兵が子供の頃に見上げていた空は、いつも黒々として薄汚れて見えていたからだった。
古来より北米大陸に住み着いていたインディアン達を二束三文の金と僅かな土地を与えて追い払った欧州からの移民達は、世代を重ねながら少しづつ肥沃な大平原を農村に変えていった。
その勢いが急速に増したのはドラゴ二等兵が生まれるよりも少し前のことだった。大量生産によって価格が著しく低下したトラクターが農村部に導入されていたのだ。
トラクターの導入に関しては、他国が農村単位による共同購入例が多かったのに対して、米国では個人単位の購入が比較的多かったらしい。入植者によって整然と構築された北米大平原の農地は広大なものであり、共同利用は現実的では無かったのだろう。
むしろトラクターの導入は、零細農家が淘汰されて資本力を持つ巨大な農場を誕生させる契機にもなっていたようだ。
実は第一次欧州大戦頃には米国製のトラクターをそれまで外交関係が険悪であった英国に大量輸出する可能性もあったらしい。多くの若者を兵士として戦場に送り出した英国では農村部でも人手不足が深刻化していたからだ。
ところが、英国は参戦自体は頑なに拒む米国に嫌気がさしたのか、試験導入目的で購入したトラクターを模倣した製品を同盟国の日本に造らせるという暴挙に出ていた。
当然のことながら当時米国は猛烈な抗議を行っていたが、英国の大量導入計画は契約化されたものではなく、また日本で製造されたトラクターの開発に携わっていた英仏日なども独自改良された部分もないことはない事を根拠に言い逃れをしていた。
旧大陸にしがみついた国家が示したアンフェアな態度に米国は激昂していたが、同時に米国民の多くは内心に侮りもあった。
既に工業化が進んでいる米国の高い技術力で組み上げられた製品が、僅か数十年前まで刀を振り回していた極東の野蛮人に模倣できるはずもなく、独自改良されたと彼らが主張する部分も、米国で完成していた設計に余計な付け足しをしたことで構造的な弱点となっているのではないか、そう考えていたのだ。
そうした事情はどうであれ、当時は米国内のメーカーには輸出用に用意された生産体制だけが残されており、値下げした上で大戦中の欧州市場を諦めて国内に販路を求めたようだった。
こうして農村に出現したトラクターは、保守派の農民からの反感をいくらかは買いつつも機械化による効率の良さによって農耕馬を使用した従来の手法を忽ちに淘汰していた。
北米大陸中部に誕生したいくつもの巨大な農場は、銀行から借りつけた資本で購入されたトラクターの機械力を駆使して、大草原の表土を粉砕し土壌を掘り起こして一面の小麦やとうもろこしの畑へと作り変えていた。
だが、広大な農場で農作物が収穫されるようになった一方で、生産された膨大な量の穀物を消費する市場は開拓されていなかった。既に国内で消費し切る分を遥かに超える量の農作物が生産されるようになっていたのだ。
米大陸に旧大陸の勢力を干渉させず逆に干渉もしないモンロー主義は、欧州諸国が有する市場からも米国を締め出していた。米国は開かれた市場を訴えていたが、欧州諸国は逆に北米市場からの締め出しを理由に米国の市場進出を拒否していた。
飢餓状態にあったソ連への支援などを目的として米国政府は農作物の一部を買い上げていたが、中部大平原に広がる耕作地全体の収穫量からすればそれも極僅かな量でしかなかった。
国内市場で飽和した農作物は価格を著しく下落させていた。そして利益の低下は大農場を次々と襲っていた。トラクターなどの機械力を維持する為には豊富な資金力の裏付けが無ければ不可能だったのだ。
結局、トラクターで耕された多くの農場が放棄されていた。あとに残されたのは乗る人もなく買取も拒否された早くも錆びついた中古のトラクターと、ただ耕されて地表を露出させただけの土地だけだった。
皮肉な事に、大恐慌の切っ掛けともなったこの農作物取引価格の下落という危機を乗り切ったのは零細農家ばかりだった。様々な理由でトラクターの導入を行わなかった農家は、生産性は低かったものの農村内部の自給率は高かったからだ。
トラクターと違って昔ながらの農耕馬は農村外部から交換部品や石油を運び込まなくとも村内に設けられた牧草地で餌は確保出来たし、堆肥を発酵させれば有機肥料になるから、やはりトラクターの導入と同時に外部から購入されるようになった化学肥料も不要だった。
実は農耕馬は米国内ではトラクターの導入によってむしろ余剰となっていた。第一次欧州大戦によって欧州やアジアの農耕馬は戦場に送られて数を減らしていたが、中立国だった米国はその例外だったからだろう。
だが、そうした従来通りの農法を守りながら穀物の価格下落を生産費用の圧縮で乗り切ろうと経営を続けていた零細農家にもやがて災いは舞い降りていた。米国中部の元大平原を黒い嵐が襲っていたのだ。
ドラゴ二等兵が子供の頃に見上げていた黒い嵐の正体は、放棄された農地で乾燥して強風によって巻き上げられた表土だったのだ。
トラクターによって耕作された表土は通常の耕作地なら次の種蒔きによって人間が手とり足取り世話をする穀物の種子や苗が植えられるのだろうが、放棄されていた農場ではその多くが土壌がむき出しのまま放置されていた。
しかも、その耕作地も一度は完全に除草されていたものだから、文字通り草一本とて生えていなかった。耕作作業によって巻き上げられた土壌は、数十センチ程度は表土がかき回されて露出するも同然になっていた。
広大な放棄耕作地にも容赦なく太陽光が降り注いでいた。かつては植物に分け隔てなく恵みを与えていた太陽の眩しい光は、黒い土をひたすらに乾燥させていった。
そして次に単なる乾燥地になった場所に強い風が吹くと、乾燥した表土を高く持ち上げて風が赴くままに天から土を降らせていたのだ。
米国中部で広く見られたこうした風景はまるで地獄の様だったが、そこで生まれ育ったドラゴ二等兵にはある意味ではそれが日常だった。
2世紀ほど前には同じ場所には広大な大平原一杯に広がる草原と、そこを自由に行き交うバッファロー、そしてそれを追って敬意を持ってバッファローを狩るインディアンがいたことなど信じられなかった。
ドラゴ二等兵には、それは母親から聞かされた夢物語に過ぎなかった。インディアンだという父親のことは自分のミドルネームと同じ名前だったことしか知らなかった。
頻発する土嵐で寂れた農村にあるたった一つの雑貨屋兼居酒屋がドラゴ二等兵が生まれた家だったが、一族で経営する店を継いだのは伯父であって母親はその店員に過ぎなかった。
元々はドラゴ二等兵の祖父に当たる人物が始めた店は、伯父たちが子供の頃は随分と繁盛していたらしい。というよりも拡大を続ける農村自体に活気があったのだろう。
だが、祖父が死んでドラゴ二等兵が生まれた頃には村は寂れかかっていた。その予兆が見え隠れしていた時に父親と母親は出会ったらしい。
ドラゴ二等兵の父親はインディアンだった。母にはアゴン族の戦士といったらしいが、両親が出会った頃にはインディアンの反乱はとうに終結していたから実際の戦闘経験は無かったのだろう。
本来のアゴン族が居住していた地域や現在のインディアン居留地は、米国中部とは遠く離れていた。ドラゴ二等兵の父親は、村の近くにあったインディアンの寄宿学校を脱走して彷徨っているうちに母親のいた村にたどり着いていたのだ。
しばらくは父親も店や周りの農家などの手伝いをしていたらしいが、ドラゴ二等兵が生まれる前に寄宿学校からの追手を恐れて村からも逃げ出していた。
インディアン寄宿学校は、国策によってインディアンの子供を教育するための施設だったが、そこには独自の言語、宗教を有するインディアンから文化を剥ぎ取って旧大陸から移住していた来たアメリカ人に同化させるという目的があった。
つまり、長期的にはインディアン文化を伝える若年層と固有の文化を捨てられない老人達との繋がりを断絶させる事で、アメリカという存在に取り込む為の戦略的な兵器であったのだともいえるのだが、その運用は稚拙だった。
ドラゴ二等兵の父親が脱走した頃には、予算不足で医療や食料の供給も満足に出来ずに脱走者が相次いでいたようだ。そんな状況では父親が恐れたという追手も満足に手配できたとは思えなかった。実際に恐れたのは閉鎖的な農村の人間に通報されることだったのだろう。
本来はインディアン部族の多くは部族や親族単位で構成されるコミニティ全体で子育てをするものであるらしい。ドラゴ二等兵は会ったこともない父親から聞かされた話だと母からまた聞かされていた。
近代的な米国人の常識とは異なり、生まれた時から個人というよりも集団の一員として子供を育てていたのだろう。
インディアン寄宿学校では、強制的に親元、というよりもインディアンの部族から引き離された子供達に米国人らしい近代教育を与えることで同化させる筈だったが、多くの寄宿学校では程なくして資金不足に陥っていた。
大恐慌に前後して寄宿学校だけではなくインディアン関係に対する補助金などの予算が打ち切られていたからだ。中にはインディアン居留地を切り売りしてしまう部族もあったようだった。
インディアン関係予算の削減は、世論からの後押しも強かった。
自由競争による資本主義で社会を発展させてきた米国において、生まれに基づく特定の集団に対する優遇措置は平等理念に反するという美辞麗句のもとにインディアンに対する支出が議会で削減を要求されており、政府も強くこだわりは見せなかった。
だが、米国市民の多くは誤解していたか、あるいは見なかったことにしている事実があった。インディアン達に支出される予算はお情けの助成金などでは無かった。本来はインディアン達と合衆国政府との間で決め交わした契約に基づくものの筈だったのだ。
今の米国市民の多くは旧大陸からの移住者だった。彼らは荒々しい自然をねじ伏せて新大陸を開拓してきたこと自体を誇りとしていたが、実際にはそこは無人の荒野ではなかった。
米国が誕生した土地には元々の先住民であるインディアン達がいたのだが、旧大陸で発達したキリスト教的な観念を持たない彼らには「近代的」な土地の所有という概念は無かった。
そこにつけ込む形で旧大陸からやって来た人間はインディアン達から土地を手に入れていったが、少なくともその初期は決してインディアン達も一方的に搾取される存在ではなく、新たな住民の間にに溶け込み、また彼らを利用していた。
インディアンという単一のくくりで彼らを考えること自体が誤りだった。先住民たるインディアン達もそれぞれの部族に分かれており、その生き方も様々なものだったからだ。
当初は対等だったインディアンと移住者達は、近代の技術と数で次第に移民勢力が圧倒するようになっていた。それぞれの部族を分断して取り込んでいった移民勢力はすでにインディアンを必要としなくなっていた。
移住者が増大した結果不足するようになった土地は、容赦なく弱者となっていったインディアン達から奪っていたが、当時の米国政府には最低限の良心は残されていた。
広大な土地を奪う一方でインディアンの居留地を定め、不足する物資を補う為の食料援助も約束していたのだ。
だが、傲慢で一方的ながらも鷹揚なところもあった当時の米国政府の方針は、世紀が変わる頃になると変化を見せていた。というよりも米国内部に広く停滞感が漂い始めていたのだった。