1949ハワイ、開戦前夜5
哨戒艦ハレクラニの艦橋では聴音室からの不明潜水艦に関する失探の報告が続いていた。どうやら先程まで聴音機が捉えていた敵潜水艦の反応は、文字通り泡のように消えていったらしい。
だが、それを聞いても艦長のアイカウ大佐や操艦を任されていた副長のウラサワ少佐の顔に意外そうなものは浮かんでいなかった。
聴音室からの報告を聞きながら、アイカウ大佐は出動して不明潜水艦を確認してからのハレクラニや僚艦カマアイナ、そして目標となる不明潜水艦の航路が書き込まれた海図を一瞥していた。
「本艦が追尾していたのは欺瞞用の発泡装置、だな。先程この潜水艦は一時的に速度を上げていたようだが、その時にダミーを放出していたのだろう。もっとも発泡装置が独りでに動くはずもないのだから、エンジンを止めた潜水艦は対して動いてはいないはずだ。
だが、副長の判断を疑うわけではないが、発泡欺瞞装置は先の大戦でドイツ海軍が使い始めたはずだが、そんな新兵器を旧式のカシャロット級が装備しているのかな……」
ウラサワ少佐は首をわずかにかしげていた。
「さて……小官も潜水艦のことはよく分かりませんが、米海軍には予算もあるでしょうからこうした任務に投入するなら近代化改装位はするでしょう」
「何れにせよ、俺は這うように逃げ出す事しかできない潜水艦に乗るのはごめんだな。我が海軍に潜水艦が無くて良かったよ」
アイカウ大佐はそう言いながら伝令に向き直っていた。
「カマアイナに通信、アスディックの使用を許可する、だ」
通信指揮所に繋がる電話を握った伝令の復唱が聞こえてしばらくしてから、聴音室からカマアイナが使用したのであろうアスディックの反応があったという報告が上がっていた。
さらにカマアイナから接近する潜水艦の反応を捉えたとの報告が上がったのはそれからすぐのことだった。
アイカウ大佐は笑みを浮かべながら更に伝令にいった。
「聴音室に連絡、カマアイナのアスディックが停止したことが確認されたら、今度は本艦もアスディックを使用して精密測定に移れ。ああ、その前に回頭してカマアイナに艦首を向けよう」
「それでは、艦長が操艦されますか……」
海図台に向き直ったウラサワ少佐はそういったが、アイカウ大佐は首を振っていた。
「いや、操艦は副長指揮のまま、カマアイナと共同で狩りを続けよう……だが、これで敵潜も逃げ場がないことに気がついたはずだ……」
不明潜水艦らしい不明目標に近づいた時点で、アイカウ大佐はカマアイナに自ら探振音を発するアスディックの使用を禁じてハレクラニに続航することを命じていた。運が良ければ不明潜水艦に対して追跡艦が1隻だけだと誤認させられるのではないかと考えていたからだ。
それに加えて、ウラサワ少佐は巧みにハレクラニを操艦して不明潜水艦の逃走方向を限定させていた。受動的な聴音のみで潜んでいたカマアイナの方向に追い込む為だった。
そして今、不明潜水艦は2隻に挟まれている事を察したはずだった。
既に不明潜水艦が取りうる行動は限定されているはずだった。再度の欺瞞行動に出たとしても、ハレクラニとカマアイナのどちらかが聴音に徹すれば不明潜水艦を長期間失探する可能性は低いからだ。
ハワイ王国海軍には1隻もない潜水艦のことはアイカウ大佐もよく分からないが、英日などから得られた対潜戦闘の戦訓からすれば不明潜水艦はこれまでの潜水行動と欺瞞行動による増速などによって電池容量や艦内酸素を消費しているはずだったから、どのみち長期間の逃走は不可能ではないか。
聴音室からの報告によれば、現在は不明潜水艦はモーターを停止させて惰性で進んでいるらしい。先程一旦は速度を上げたものの、ハレクラニからの探知を逃れるために回頭したことで慣性の大部分を失っていたはずだから、今は殆ど潮流に乗っているだけのはずだ。
尤もハワイ王国周辺海域の気象条件を誰よりも知り尽くしたウラサワ少佐がいる以上は、不明潜水艦の艦長が巧みに海流を利用したところで失探の恐れはないだろう。
不明潜水艦の包囲に成功したことでアイカウ大佐は安堵していた。とりあえず現状では最善の状況に持ち込むことが出来たのではないか。大佐はこれからおそらくはハワイ王国海軍の防備体制を探っていたのであろう不明艦の艦長がこの状況をどう判断するかを考えていた。
米国で対外強硬派のマッカーサー政権が発足したあたりから、ハワイ諸島が浮かぶ太平洋でも緊張が高まっていた。直接的な原因はフィリピンにおける領有権問題だったのだろうが、その根本的な理由は東南アジア諸国が続々と独立を果たしていたことだろう。
植民地独立の切掛となったのは、先の大戦中に国際連盟軍によって「解放」された旧フランス領インドシナ諸国の独立であったのだろう。自由フランスへの協力と引き換えという形であったが、周辺地域も二度における大戦への貢献を理由として自治権の拡大を主張する声が大きくなっていた。
それに苛烈な植民地支配のもとで育まれてきた民族主義を力で抑え続けることは、大戦で疲弊した欧州の本国にも大きな負担となっていた。
現在では、フランス領に加えて英国の植民地や保護国も新たに独立国となるか、少なくとも近い将来に確定された独立に向けた準備として段階的な自治権の拡大が行われていた。
例外となっているのはマレー半島の突端にある英領シンガポールとオランダ領東インド諸島だったが、その理由は大きく異なっていた。
マレー半島の英領が近い将来における現地人政権を想定した高度な自治権を有するマラヤ連邦として再編制されていたのにたいして、交通の要衝となるシンガポールのみは国王直轄地の名のもとで英国の直接統治が続いていた。
マラヤ連邦の多数派であるマレー人は表向き英領シンガポールの存在に懸念を表明していたのだが、同時に来るべき新国家内で経済的な対抗勢力となりうる中国系の住民がシンガポールに流入していく様子と、英国軍が駐留を続けるシンガポールを安全保障上の必要悪とでも呼ぶべきものだと理解はしていた。
一方で戦後も過酷な植民地支配が続いていたオランダ領東インド諸島では、バタヴィアを本拠地とするオランダ本国が派遣した総督府と、独立を主張する現地勢力との武装蜂起を含む抗争が続いていた。
現地に派遣可能な兵力の限界から劣勢にあったオランダ政府は、周辺諸国の仲介でアチェ王国など一部地域の独立を容認せざるを得なかったものの、今でも現地勢力は分断されながら各地で紛争を続いているらしい。
第二次欧州大戦自体に参入せずにいた米国は、当初はこうした植民地の独立騒ぎも対岸の火事と捉えていたはずだが、彼らの見通しが甘かったことはすぐに判明していた。植民地独立闘争がフィリピン、特にイスラム教徒の先住民が多数派を占めるスールー諸島に飛び火していたからだった。
北米大陸外への進出を望む米国内の一部勢力は、中国市場に進出する場合に拠点となりうるフィリピンを米西戦争で獲得した太平洋で唯一の安定した領土と考えていたようだった。
ところが彼らの意識を逆撫でするように、最近になって日本はグアムなどの本土からフィリピンに至る米国領を取り囲むように存在する委任統治領の独立を見越した政策を取り始めていた。
日本は第一次欧州大戦後に太平洋のドイツ領を国際連盟委任統治領として託されていたのだが、彼らが固有の領土とみなす小笠原諸島以南のマリアナ諸島やマーシャル諸島に関して独立を問う住民投票の実施を布告していたのだ。
一部の島でリン鉱石が採掘されるのを除けば漁業以外に南洋諸島が有している産業はさとうきび畑が一面に広がる程度だから、日本本土からすれば経済的には持ち出しの方が多いらしく、艦艇の泊地や航空隊の急速展開地以外は直接統治に魅力が無くなっていたのだろう。
米国からすればフィリピン周辺が続々と独立していく様子に苛立ちを覚えているのだろうが、アイカウ大佐にはハワイ王国と違って植民地状態が続いていたマリアナ諸島などの先住民達が安易に自ら独立を選択するとは思えなかった。
南洋の諸島に対して日本は医療等に関する若干の支援はすれども積極的な移民などは行っていなかった。少なくとも第一次欧州大戦以後に工業化の進んだ日本本土から南洋に進んでいくような物好きは一部の冒険家でもない限りいなかったのだろう。
逆にこれまで日本からの支援を受けていた島嶼国家の独立は政治経験のない先住民達では相当に困難なのではないか。下手に独立しても外国勢力に根こそぎ資源を簒奪されかねないだろう。
尤も外国勢力の影響を無視できないという点は、日本からすれば南洋諸島よりも先にあるハワイ王国も同様だろう。
自然とアイカウ大佐は眉をしかめていた。この先、この国は外国勢力とどうやって付き合っていくべきなのか、それは安易には結論を出せない問題だったが、今のように中途半端な軍拡を続けることが正解だとは思えなかった。
不明潜水艦の存在から今後のハワイ王国の行く末までを思考していたアイカウ大佐は、艦橋伝令の報告に現実に引き戻されていた。
アイカウ大佐は眉をしかめたまま伝令の報告を聞いていた。艦内電話を握りしめた伝令の相手は意外なものだった。てっきり聴音室から新たな不明潜水艦の動きでも報告してきたのだろうと思ったのだが、実際にはレーダーを管理する通信室からの報告だった。
―――対水上レーダーに不明探知だと……
接近する船舶があるという意外な報告を聞いたアイカウ大佐は、海図を一瞥してハレクラニの現在位置を確認していた。
ハレクラニとカマアイナが根拠地とするカウアイ島から出撃してから意外なほど時間が経っていた。不明潜水艦を追尾するうちに既に2隻の哨戒艦はニホア島付近に達していた。
今は波が高く安定した視界が得られないが、ハワイ王国陸軍の守備隊が配置されたニホア島をすでに目視できてもおかしくは無かった。
ただし、島の周囲が断崖絶壁の小島であるニホア島は生産能力がほとんど無く、以前は実質的に島の領有を主張するためだけに守備隊を置いていただけだった。
最近では対米関係の悪化などから守備隊の哨戒能力を高めるために苦労して機材が運び込まれていたが、稼働したばかりだから艦隊への支援能力は低かった。
この海域はハワイ王国における最辺境だった。国内輸送の定期航路は存在しないし、ニホア島守備隊の人数も少数だったから補給船の往来も少なかった。
こんな海域を航行するものがあるとすればハワイ王国に寄港する外国船だけの筈だったが、アイカウ大佐が出撃するまでに確認させた中には今日は外国船の寄港予定は無かったはずだった。
アイカウ大佐は、不機嫌そうな顔で伝令に言った。
「接近する船舶に警告しろ。こちらハワイ王国海軍哨戒艦ハレクラニ、本艦は領海内で作戦行動中につきこの海域から退去せよ、だ」
アイカウ大佐はそういうと海図に向き直って不明潜水艦に集中しようとしたが、艦橋伝令が大佐の命令を通信室に伝える前に続報が入っていた。
アイカウ大佐とウラサワ少佐は顔を見合わせていた。通信室からの報告によればレーダー探知された目標は2つあるらしい。しかも、その2つは真っ直ぐこちらに向かっているようだった。
ハワイ沖は相互支援が必要なほど危険な海域では無いのだから、複数で行動する商船は不経済になってあまりに不自然だった。しかも針路からすればこちらをレーダー探知しているか、逆探で捉えているのは間違いないだろう。
アイカウ大佐は、艦橋側面に出ると嫌な顔をしながらレーダー探知された編隊が存在する方向に双眼鏡を向けていた。
見張り員の声が上がったのはその直後だった。見張り員の報告に従って双眼鏡を彷徨わせたアイカウ大佐は、視界に入ってきた艦影に無意識のうちに舌打ちをしていた。
ハレクラニとカマアイナ、そして2隻が制圧する不明潜水艦が水面下に潜む海域に侵入しつつあるのは明らかに軍艦、しかも相当な大型艦だった。
考えてみれば、鵜来型海防艦としては初期建造艦にあたるハレクラニに搭載された対水上レーダーの能力は限定的なものだったから、目視圏内よりも遥か彼方から探知されたという時点で対象が大型艦であるのは間違いなかったのだった。