1949ハワイ、開戦前夜2
第一次欧州大戦の終結後、ハワイ王国は各国で余剰となった艦艇を安価に購入することで急激に戦力を充実させていた。
購入されたのは建造された本国ではいずれも補助戦力でしかない護衛駆逐艦ばかりだったが、ハワイ王国海軍の近代化がこの時期に一挙に進められたのは間違いなかった。
だが、それから20年が過ぎる頃になると同時期に揃って購入されていた艦艇の旧式化が目立つようになっていた。大戦を生き延びた老朽艦ばかりであったから現役で運用し続けるには無理が出ていた。
当時購入された駆逐艦と同型艦の中には、建造国であればまだ運用され続けているものもあったが、重工業に乏しいハワイ王国では軽易な予備部品の再生産すら難しいから、旧式艦の稼働率は著しく低下していたのだ。
ハワイ王国海軍では、当然のことながら乏しい予算を割いて艦隊の整備を図る動きもあったのだが、実は10年ほど前に行われていた艦隊整備計画で旧式艦の代替として考えられていたのは、日本帝国で建造が開始されたばかりの鵜来型海防艦だった。
鵜来型海防艦は再度の大戦勃発を予想した日本海軍が計画した船団護衛艦だったが、その建造計画は大戦勃発前から進められていた。おそらく日本海軍で当初建造されたものは、船団護衛で消耗することを前提として本格的な大量建造に入る前の実験艦のようなものだったのだろう。
それ以前の日本海軍における海防艦という艦種は、旧式化した戦艦や装甲巡洋艦などを編入する雑多な枠でもあったらしい。
鵜来型海防艦の建造計画が開始される前にも、旧式艦の他に国境警備用の新造哨戒艦艇もあったらしいが、鵜来型海防艦はその北方警備用の艦艇を原型として船団護衛に適した汎用性のある小型戦闘艦に再設計されたものだった。
日本海軍における海防艦という艦種は、むしろ鵜来型海防艦によって再定義されたといってもよかったのではないか。
雑多な旧式駆逐艦の代艦を探していたハワイ王国海軍は、早いうちから日本海軍が計画していた鵜来型海防艦に注目していた。
戦時中の消耗が激しい船団護衛に従事することを前提として設計されていた鵜来型海防艦は、同級の艦艇よりも建造費用や日数が抑えられていた上に、排水量も一千トン前後とハワイ王国近海で運用するにも手頃な排水量であったからだ。
ハワイ王国海軍の乏しい予算で高価な駆逐艦級の新造艦艇を購入するのは難しくとも、一回り小さく速力も低い為に機関部も簡素な鵜来型海防艦であれば予算をやりくりすれば複数隻の購入も可能のはずだった。
それに安価に放出された中古艦を節操なく購入していた結果、ハワイ王国海軍の装備は混沌の域に達していた。装備が不揃いである事は、見た目だけではなく実害も出ていたのだ。
性能の揃った同型艦の数が少ないから練度の低いハワイ王国海軍では他国海軍のように緻密な編隊を組んで航行するのは難しいし、予備艦から部品を取り外して現役艦に流用するのも難しかった。
鵜来型海防艦の購入と雑多な旧式艦の退役は、性能の一新の他に装備を統一して運用性を向上させるためでもあったのだ。
艦隊整備計画が意図していたのは海軍関係だけではなかった。政府の一部にも計画に期待するものがいたのだ。
鵜来型海防艦は排水量だけ見れば退役間際の旧式駆逐艦よりも更に小さいほどだったが、ハワイ王国海軍が同艦に期待したのは戦闘力だけではなかった。完全な形での建造は不可能であっても国内でブロック単位を日本帝国から持ち込めば最終組立程度ならば可能ではないかと考えられていた。
重工業に乏しいハワイ王国国内には一貫して大型船を建造可能な造船所は存在しないが、太平洋航路の途上にある為に修繕用の簡易な船渠はあった。適切な技術支援さえあればそこで小型戦闘艦を組み立てる位はできたのではないか。
どの様な形であれ戦闘艦の建造にハワイ人技術者が携わることが出来るのであれば、ハワイ王国全体の技術力が向上するから工業界にも大きな影響を与えられるはずだった。
つまり鵜来型海防艦の導入計画は単に海軍内の旧式艦更新などではなく、ハワイ王国海軍全体の技術を底上げすることまで目的としていたのだ。
実はアイカウ大佐もまだ艦隊本部勤務の少壮将校であった時期に鵜来型海防艦の購入計画に携わっていた。大佐の感触では、当時のハワイ王国海軍の熱意に対して日本海軍も概ね好意的だった。
おそらくは貧乏な友好国相手の商売ということになるから相当に値引きされることになって日本帝国に利益はほとんど出なかったのではないか。
それでも単純に建造数が増えれば搭載機材などの単価は日本海軍に就役する艦艇の分も低下するし、彼等にとっても仮想敵である米国に対してハワイ王国海軍艦隊が側面から牽制する効果も多少は望めるはずだった。
ただし、両国が鵜来型海防艦に望む性能には若干の乖離があった。日本海軍は、本格的な護衛駆逐艦である松型駆逐艦を補佐することを目的に、対潜戦闘を重視した純粋な中長距離護衛艦艇として鵜来型海防艦を計画していたのだが、ハワイ王国海軍は同艦を多用途に使用する艦隊の主力と考えていた。
島嶼が点在するハワイ諸島が国土とはいえども、ハワイ王国には護送船団に同行する原型艦程の航続距離は必要ないし、対潜戦闘能力も過剰だった。その一方で高角砲兼用の主砲はともかく、雷装がなく対艦攻撃力が著しく劣る点はハワイ王国で問題視されていた。
積極的な対艦戦闘を行わなければならない状況、すなわち本格的な戦争状態はハワイ王国海軍としても本意ではないが、場合によっては大型艦にも対抗しうる能力があるかどうかは海軍全体の抑止力に関わる問題だった。
購入される鵜来型海防艦に関して、ハワイ王国海軍側は艦尾の爆雷投射機や投下軌条を一部撤去する代わりに魚雷発射管の追加搭載を要望していたのだが、日本海軍側は慎重な姿勢を示していた。
第二次欧州大戦前の日本海軍は軽快艦艇による雷撃戦を重要視していた。主力となる水上艦艇用の魚雷は61センチと他国列強よりも大口径になっていたし、駆逐艦搭載の魚雷発射管は多連装だったから装填時の魚雷発射管は重量も大きかった。
それに雷装関係の機密度が下がったのか今でこそある程度の情報は開示されているが、当時は強力な酸素魚雷は友好国といえども秘匿されていたから、ハワイ王国海軍には本国仕様の雷装一式は供与できないと日本海軍では考えていたようだった。
酸素魚雷の性能は秘匿しつつ、日本海軍側はハワイ王国海軍の翻意を促していた。機密は開示できなかったとしても表向きの理由はいくつかあった。
日本海軍は、鵜来型海防艦自体が雷撃に適していないことをまず指摘していたのだ。
鵜来型は、鈍足の輸送船に同行して敵潜水艦を警戒、制圧できる程度の速力しか持たされていなかった。
その20ノット前後という速力は、対潜戦闘時に敵潜水艦を追尾して戦術的な機動をとることは可能であったものの、高速の水上艦艇と相対した際に雷撃に最適な射点に遷移するには到底不十分なものであった。
さらに言えば、重量のある魚雷発射管を搭載する代替重量としては多少の対潜機材を撤去した程度では足りなかった。爆雷投下軌条どころか予備弾まですべて撤去する代わりに雷装を得ても、ひどくバランスの悪い艦になっていただろう。
だが、ハワイ王国海軍側も雷装の追加に関しては折れるわけには行かなかった。対艦戦闘能力がなければ鵜来型海防艦を艦隊主力とする計画そのものが成り立たないからだ。
有力な戦闘艦が後ろにいくらでも控えている日本海軍は鵜来型海防艦を純粋な船団護衛艦として使えるが、ハワイ王国海軍の場合は駆逐艦の代艦に据えねばならないからだ。
結局最後は妥協案が成立していた。日本海軍で運用する雷装関係の機材は重量があるために、廃艦となる旧式駆逐艦からより軽量な53センチ魚雷発射管を移植することとなったのだ。
ハワイ王国海軍仕様の鵜来型海防艦は、爆雷投射機の大半の他に後部高角砲も撤去されて、高角砲が装備されていた位置に魚雷発射管が据え付けられる予定だった。
対空、対潜能力は低下するが、抑止力としての対艦打撃力は無視できないものになるはずだった。当時の計画図では前後部の高角砲を入れ替えて残される艦首高角砲を単装から連装に交換する予定になっていたから、外観は原型艦とは大きく違っていた。
だが、こうした妥協案の成立までに時間を費やしている間に日本海軍の方は事情が大きく変化していた。第二次欧州大戦への本格的な介入を決意していた日本帝国内の工業力が有事体制に移行していたのだ。
最初は問い合わせ回答の延期が相次いでいたことだった。日本海軍側の担当者が別件に追われ始めていたのだ。おそらくは当時の担当者も船団護衛用艦船の大量建造計画に従事していたのではないか。
第二次欧州大戦緒戦の推移は急速に進んでいた。ドイツによるポーランド侵攻後の停滞が嘘だったかの様に短期間でフランスは敗北していた。
亡命した自由フランスの存在は政治的には意義は大きかったが、国際連盟側生産力は大きく削がれていたし、それ以上に欧州本土における拠点の喪失は大戦の長期化を予感させるものだった。
当時の日本帝国では慌ただしく出師準備が整えられ、商船団も再編成と欧州とアジアを往復する船団の構築が始まっていた。これに伴い当然のことながら船団を護衛する艦艇の急速建造も計画通りに進められていた。
日本帝国全体が有事体制に切り替えられていったことで、ハワイ王国海軍向けの兵器輸出は等閑に付されていた。量産体制に入った鵜来型海防艦の建造計画の中には、量産性を落とすハワイ王国海軍仕様を紛れ込ませるような余裕はなかったのだ。
皮肉な事に妥協案による設計変更が少なくない足かせとなっていたのだ。もしも原型艦通りの設計であれば次から次へと就役する海防艦を融通する余地はあったのかもしれないからだ。
この時点でもハワイ王国海軍が鵜来型海防艦を取得する可能性が無くなっていたというわけではなかった。本格的な参戦と国際連盟軍への派兵を決意していれば、訓練された将兵の不足に喘いでいた日英は新造艦艇の1隻や2隻は喜んで供与していたのではないか。
積極的に最前線に赴く必要すらなかった。例えば護送船団の中間寄港地である南アフリカまでの護衛艦艇派遣といった補助的な任務程度であっても、その分の戦力を前線に回せるのだから海防艦の供与は十分にあり得た。
勿論これは現実的な想定ではなかった。1万人規模の師団でさえ前線であっさりと消滅するという世界規模の大戦の中へ、総人口が僅か40万のハワイ王国が飛び込む事は出来なかった。
あの大国フランスでさえ第一次欧州大戦の戦禍によって兵士達であった当時の若年男性層が著しく数を減らして男女、年齢層の人口比が異常な数値になっているというのだ。下手に小国のハワイ王国が大戦に手を突っ込めば国家の衰退に直結しかねなかった。
最終的にハワイ王国は国際連盟の一員としての司令部要員の派遣という実質的には観戦武官程度でお茶を濁していたのだが、その間も海軍の装備更新は停滞したままだった。
幸いな事にこの時期の米国はハワイ王国、というよりも国際連盟諸国に無関心だった。彼らの友好国であるソ連とドイツが交戦状態に入っていた事で、間接的ながら国際連盟と米国は味方ではないが敵の敵という手を出し辛い相手になっていたからだ。
ハワイ王国海軍の装備はその間も老朽化が進んでいたが、享楽的な国民の多くは国防体制の穴には無関心だった。有事体制になって嗜好品が不足するようになった国際連盟各国向けに砂糖などの輸出が好調になっていたことで、ハワイ王国内の景気は上向いていたからだ。
大戦序盤は、輸出する品物はあっても欧州航路に回されて輸出品を運ぶ船がないという状態であったが、戦時標準規格船の大量建造計画が軌道に乗ってくると性能の揃った同船のみで護送船団を組むことも多くなり、在来船がハワイ航路に投入される余裕も出てきていた。
好景気による収入拡大をうけて、ハワイ王国海軍の予算もにわかに増大していた。
遅れに遅れていた鵜来型海防艦が実際にハワイ王国に到着したのは大戦も終盤になってドイツに敗北が見えていた頃だったが、この頃にはハワイ王国海軍の艦隊整備計画は大きく様変わりしていた。
鵜来型海防艦ハワイ海軍仕様案
鵜来型海防艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/esukuru.html
松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html