1949飛島―呉7
従来、戦闘艦の砲術長は副砲や高射砲を含む搭載砲熕兵装を操作する砲術科全体の指揮を執ると同時に、戦闘部署においては主砲射撃を管制する主砲用の射撃指揮所を戦闘時の配置としていた。砲術長は主砲指揮官であり、さらに直近の主砲用方位盤が最も精度の高い観測機材であったからだ。
そのために実際には戦闘中は主砲射撃に専念することになる砲術長は、副砲や対空兵装に関しては副砲長や高射長に指揮を委ねていたし、艦長も直接高射長などに命令を下していた。
これは大型戦闘艦の進化に伴った最善の方策として長い時間を掛けて日本海軍が築き上げてきたものだったのだが、方位盤と射撃盤を一体化させたことで単体で照準動作を一貫して可能とした射撃指揮装置が実用化されたことで、砲術長の戦闘部署自体に変化が強要され始めていた。
本来は主砲射撃は艦橋上部の主砲用方位盤と砲術長が配置される射撃指揮所、それに艦内で射撃値を得るための複雑な計算を実行する射撃盤が置かれた主砲発令所の三者が一体となって行うものだった。
ところが、射撃盤を内包した射撃指揮装置の存在によってそうした前提は覆されていた。原理上は前後部の射撃指揮所天蓋に設置された射撃指揮装置に機能面での差異は無かったからだ。
元々以前から多くの艦では舷側の高射装置でも主砲の照準に必要な観測を行うことは可能だったが、その場合も高射装置の方位盤が行うのは標的の観測だけだった。
観測値から射撃値を算出するのは主砲用の発令所に備えられた射撃盤が必要だったのだが、射撃指揮所と連動した艦内の射撃盤は配置された発令所ごと必要性が失われていた。
それどころか大型艦の場合舷側に配置される高射装置の位置にも、最新鋭艦では独立した射撃盤が不要な47式射撃指揮装置が搭載されるらしい。
勿論いずれの射撃指揮装置も性能は同一であるし舷側配置の射撃指揮装置の計算機であっても主砲管制用の計算式も含まれているから、基本的にはどの射撃指揮装置でどの搭載砲も管制可能だった。
つまり47式射撃指揮装置を搭載した艦の砲術長は、従来の戦闘部署である主砲射撃指揮所で行なっていたように一つの方位盤に専念する必要はなかったのだ。
電探にせよ光学観測にせよ、地球が球状であるために最も高所に設置される艦橋最上部に装備されたものが一番遠距離の観測に向いているはずだが、接近すればわずか数メートルの設置高さは大した差にはならなかった。
しかも射撃に不可欠な方位盤と射撃盤が一体化された事で、理論的には射撃指揮装置の数だけ高い精度で分火射撃が可能だった。
極論すれば全ての主砲塔、高角砲が別々の目標を狙う事も可能だったのだが、それには各射撃指揮装置と各砲塔の組み合わせを周囲の敵情に合わせて適切に管理する必要があった。
指揮下にある射撃指揮装置全てが同一の精度を発揮すると仮定した場合、八雲で行われた複数の射撃指揮装置を活かした運用実績からは、砲術長の新たな役割は単に主砲の指揮を取ることではなく、それよりも上位の判断が必要な艦全体の火力を統制するというものになっていくだろうと考えられていた。
しかも、砲戦時には発見された既知の目標に対して適切な火力を割り振ると共にそれを管制する射撃指揮装置も選択しなければならないのだが、それには既存の射撃指揮所が有する機能では不十分だった。
射撃指揮装置の管制はともかく、射撃指揮所では捜索情報の入手に限界があるからだ。それに隣接する方位盤との関係がないのであれば、射撃指揮所を容積の限られる艦橋上部に設ける必要もなかった。
八雲や地上実験施設の運用試験から得られた結論は、砲術長も情報が集約される中央指揮所配置とすべきではないか、というものだったが、それが最適解であるという意見があったとしても簡単に変更できるわけではなかった。
人事面では、軍政を担う海軍省の機能を引き継いだ兵部省や軍令部など関係者の間で戦闘艦の基本的な定数表や部署に関する議論が何度も繰り返されていたらしい。
村松中佐も、中央指揮所の指揮官たる戦術長と言う役職を新設する渦中にあって経験していたのだが、既存の体系を変更するのは容易ではなかった。
しかも戦術長の場合は中央指揮所に一人配置が増えるだけだが、既存の役職である砲術長の配置変更はより難しいはずだった。これまでの実績もあるし、今のところは新型の射撃指揮装置を備えた新鋭艦のみの変更となるのも別の意味で厄介だった。
海軍内で2系統の戦闘部署に関する体系が存在することになるから、将校教育なども分ける必要があるのだ。
それに人事だけではなく機構面での問題もあった。中央指揮所に増設しなければならないのは単に砲術長の席だけではなかった。砲術科将兵に戦術的な判断に必要な情報を提供すると共に、砲術長とその部下が射撃指揮装置と各砲塔を割り振るための何らかの操作盤も必要だった。
だが、強引に船室を改造して原型にない中央指揮所を設けた八雲には十分な余剰空間は残されていなかった。そもそも本来であれば情報が一括して流入する中央指揮所は艦内の防御区画内に収めるのが理想だったが、改造工事では限界があったのだ。
主砲射撃に必要なくなっていた主砲発令所から機材を撤去して中央指揮所に転用すればどうかとの意見も出ていたが、通信科と砲術科の将兵を勤務させるには空間容積が不足していたし、なによりも防御区画内の発令所まで膨大な結線を行う予算が確保できなかった。
結局、中央指揮所の機能を今以上に充実させる案は、これから先の就役期間がさほど長くないと思われる八雲では費用効果の点からも断念されていた。
その代わりに砲術長の配置である射撃指揮所と中央指揮所をつなぐ回線が拡充されて、射撃指揮所に全艦に備えられた射撃指揮装置や高射装置の管制機能が拡充されていた。
主砲発令所もその際に高射装置と連動する機構に改造されていたが、これは47式射撃指揮装置の電気式計算機と、発令所に備えられた従来の機械式計算機との比較試験用でもあったらしい。
肝心の砲術長の戦闘配置は変わらなかったが、職務内容は大きく変化していた。むしろ砲術士である中少尉や場合によっては先任下士官が充てられるであろう新設された射撃指揮装置の指揮官が主砲を実質的に指揮するという体制のほうが不自然かもしれなかった。
軍中央の官僚達は、八雲で得られた知訓を反映した新鋭艦への人事面、機構面での折込や従来艦との整合性を検討するので大忙しなのだろうが、その原因となった八雲も混沌とした定数表に苦悩していた。
それに砲術長を中央指揮所の戦術長に異動させるのは格段に難しくなっていた。射撃指揮所で各砲、各射撃指揮装置の管制を行うには経験が必要だったからだ。先任の砲術士も射撃指揮装置の担当から外すことが出来なくなっていた。
八雲乗組員幹部は兼任も多かったが、実験用機材を臨時に積み込む為に人の出入りも多かった。改装のたびに新規に搭載される機材も多いが、実験の結果早々に撤去されてその後は噂も聞かないものもあった。
本来水雷長として配属された筈の駒形中尉が愚痴をこぼすのも無理はなかった。新機材の搭載に伴う代償として中尉の管轄であった魚雷発射管は最初の改装工事で撤去されていたからだ。
元々ドイツ海軍が建造したアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦は有力な雷装を備えていたが、当然のことながらドイツ海軍が使用する53センチ径の魚雷は日本海軍の水上艦搭載魚雷の規格からは外れていた。
日本海軍の主力水上艦用魚雷は61センチ径と一回り大口径化していたから、発射管だけではなく予備魚雷格納庫などもそのままでは転用出来なかったのだ。
同様に規格の異なる主砲の場合は、大きな工数をかけながら主砲塔そのものの換装という強引な手法で日本海軍仕様に合わせていたが、魚雷発射管はそうは行かなかった。
規格が異なることよりも、むしろ第二次欧州大戦における幾度かの戦訓から従来日本海軍が重視していた雷撃という攻撃手段そのものが軽視され始めていた時期に改装工事が計画されていたことが、八雲の改装工事における雷装の撤去という方針につながっていたのかもしれなかった。
結局は八雲に最初に行われた改装工事で、甲板室の拡大、高角砲の射界確保などの理由で既存の魚雷発射管を全て撤去していた代わりに、ドイツ海軍の装甲艦などを参考に艦尾に新たな魚雷発射管が装備されていたが、これは単に魚雷自体の試験用機材で指揮装置も簡易なものだった。
水雷長率いる水雷科は、昨今では大威力の魚雷を用いた対艦攻撃の花形というよりも対潜兵装の運用が専らとなっていた。ただし、八雲では対潜能力の方も限定的だった。
元々日本海軍は巡洋艦級の大型艦に積極的な対潜攻撃を行わせる想定はしていなかった。音波探信儀を含む索敵用の機材は既存艦でも増備されていたが、対潜散布爆雷などの前方投射兵器は自衛用としての運用に留まっていた。
アドミラルヒッパー級の原型は艦尾に爆雷投下軌条を備えていたが、日本海軍に編入された八雲で軌条に爆雷が載せられたのは、正式に艦隊に編入される以前にドイツ海軍兵装の試験を行なっていた時に限られていた。
その後は特に試験の邪魔になるものでも無かったからか、爆雷投下軌条は操作員の配属もなく魚雷発射管の脇で放置されていたのだが、今頃になって軌条の撤去が今回三陽造船で行われる改装工事で実施されていた。
しかも八雲でここ暫く行われていた音波誘導魚雷の試験が終了したために魚雷発射管まで撤去されていたものだから、水雷長としての駒形中尉の仕事は激減してしまっていたのだ。
にわかに広大になった軌条撤去後の後部甲板に装備されることになったのは奇妙な金具だったが、元々の爆雷投下軌条が水雷科の管轄であった為か、今回の改装工事も完全に指揮下の雷装が無くなってしまった水雷長の駒形中尉が監督を命じられていたのだ。
三陽造船の社員の手で行われている改装工事に関わる書類を取り上げながら、村松中佐は言った。
「艦尾の改造工事は予定通りだな……あとは仕上げ工事かい」
駒形中尉は一旦視線を虚空に彷徨わせて考え込んでから言った。
「例の金物の溶接工事は完了しました。いま溶接後の手入れをしていますが、流石に元工廠職員ですから溶接作業自体に問題はないでしょう。
午後から造船所のクレーンを使って実際に例の箱が固定出来るか試験を行いますが、問題がなければ明日中に仕上げ処理と再塗装を行って艦尾の工事は終了です。
しかし……あんな箱を軍艦に詰め込んでなにか意味があるんですかね……」
舷窓から桟橋に向けられた駒形中尉の視線を村松中佐も追いかけていた。そこには先日搬送されていた巨大な箱、コンテナが鎮座していた。
村松中佐が視線を上げると、隣接する桟橋に係留された改造工事中の戦時標準規格船の姿があったが、実はその船で行われているものと八雲艦尾の改造工事はほとんど同じ内容だった。
つまり八雲の艦尾で行われていた工事は、将来的に商船で多用されるようになるだろうというコンテナという箱を固縛する専用金物の取り付け工事だったのだが、最近三陽造船で行われている工事も既存商船に対するコンテナ化対応工事だった。
コンテナ化工事の対象となっているのは一隻だけではなかった。というよりも、コンテナ化自体が実験段階にあるものらしい。駒形中尉などは金物形状などを把握する為に、改造工事中の戦時標準規格船に見学に行っていたが、今のところはコンテナ化対応工事の内容は安定していないようだった。
コンテナの固定金物は規格化された一種類しかないのに、既存船のコンテナ化改造工事はまだ手探りで行われているようだった。
重巡洋艦八雲1949
八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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