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1949飛島―呉4

 いつの間にか岩崎少佐が渡した新聞を読み終えていたらしい港湾局の事務員は、少しばかり緊張した様子で建屋の外の様子を伺い始めていた。おそらく企画院の長谷がいつまでも戻ってこないからだろう。

 事務員の様子を横目で伺いながら、少佐は今朝宿で受けた指示を思い出して新聞を手にしていた。


 出来るだけ自然に聞こえるように装っていたが、やはり傍から見れば岩崎少佐も緊張の色を隠しきれてはいなかった。

「何か気になる記事でもあったのか……」

 印刷がいい加減なのか、それとも事務建屋に容赦なく吹き込んでくる潮風のせいなのか、紙面がべとついてめくり辛くなっていた地方紙は東京の親会社か提携している会社から送られてきた全国記事を除くと、このあたりの地方に密着した些細な記事ばかりだった。



 だが、岩崎少佐の強張った表情とは逆に、緊張感が急に抜け落ちた事務員は満面の笑みを浮かべながら地方記事の一角を指差していた。

「なんと言ってもこれですよ。昨日はこの港に付きっきりだったもので、さっぱり分からなかったものですからねぇ」


 意味が分からないのはこちらのほうだった。岩崎少佐は首を傾げながら地方記事の見出しを読み上げていた。

「この……港のガントリークレーンを写した記事なのか」

 もしかするとこの男も取材されたのだろうか、岩崎少佐はそう考えたがこの港に関する記事自体は短いものだった。

 しかも撮影された角度からすると既存の名古屋港の外れから望遠で撮られたもののようだった。記者はおそらくこの村にまで来なかったのだろう。直線距離ではさほど既存港から離れていないが、河川に遮られている為にこの区画は名古屋市中核からの交通の便は悪かった。


 記事内容を見る限りでは珍しい形状のクレーンを撮影しただけのようだった。

 飛島村の新造埠頭にも触れられていたが、記事の中では既存の名古屋港の拡張工事という扱いで、ガントリークレーンの形状も特異であるということ以外の機能面には全く触れられていなかった。記者にそこまでの専門知識がなかったのだろう。

 岩崎少佐にはさほど注目すべき記事とは思えなかった。



 首を傾げる岩崎少佐に事務員の男は呆れたような顔を向けていた。

「海軍さん、あんたは何を言ってるんです。こっちに決まっているでしょう。巨人軍沢村栄治、逆転ホームランで勝利、昨日の試合の結果ですよ。沢村は地元の英雄ですからなぁ。

 御時世とやらで中止していたプロ野球が再開してからしばらくは今一ぱっとしませんでしたが、最近は沢村もまた調子を取り戻してくれたみたいでねぇ……来週は結城ブレーブスの杉山と同郷対決っていうんで、こっちじゃオッズが大盛りあがりですわ」

 事務員の男は恐ろしく饒舌になっていた。そのあとも暫くは沢村、杉山と話が広がっていったが、岩崎少佐にはかろうじて野球のことを話しているらしいということしか分からなかった。


 それよりもこの建屋の扉の向こうに先程から人影が見え隠れしているのが気になっていた。

 隙間風が吹き込むような薄い扉だったから、岩崎少佐でもすぐに気が付くほどだったが、扉を背にして熱弁を振るう事務員には死角になっていた。おそらく人影は室内の状況を見極めているのだろう。この手の作業には手慣れた人間なのではないか。



 ぼんやりと考えていた岩崎少佐は、ゆっくりと事務員の顔に向き直っていた。

「失礼……その、なにか言ったかな」

 さっぱり理解できない話に適当な相槌をうっていた岩崎少佐の耳に事務員の赤ら顔が近づいていた。

「ですからね、海軍さんも一口どうですか。来週の試合一つから掛けられるんです。何、一口は大した額じゃないですし、信頼できる胴元ですから。運試しのつもりで一つどうですかね」

 そう言ってから一歩引いた事務員の顔にはしまらない笑みが浮かんでいた。


 どうやら事務員は野球に関する賭博に岩崎少佐を誘おうとしているようだが、運試しだの何だのと軽い口調で言う割には、笑みを浮かべながらも事務員の目は真剣味を帯びていた。

 何故か岩崎少佐の脳裏には、子供の頃になにかの本で読んだ妖怪が暗がりに獲物を引き摺り込もうとする光景が思い浮かんでいた。事務員の顔に浮かんでいるのは共犯者を探す犯罪者のような濁った目だったからだ。

 薄気味悪さを覚えた岩崎少佐は思わず身を引いていたが、事務員の男の視線はすぐに反らされていた。派手な音を立てて彼の背後で扉が開かれていたからだ。



 無遠慮に室内に入ってきたのは一組の中年男女だった。

 女の方は岩崎少佐と同日に名古屋入していた企画院の長谷だったからこれまでに何度も顔を突き合わせているのだが、鋭い目つきの男は今朝宿で長谷に引き合わされるまで岩崎少佐には面識はなかった。


 屈強な港湾労働者に混じっても違和感の無い体格の事務員を除けば室内にいるものは細身のものばかりだったが、一気に二人も増えると事務建屋の一室は手狭に感じられた。

 それなのに入ってきた長谷達は地味な色使いの外套を脱ごうとはしなかった。事務員の男は引きつった愛想笑いを浮かべながらストーブの前を譲ろうとしたが、それよりも早く冷ややかな表情を浮かべた男が言った。


「それがあんたが胴元の沖仲仕が牛耳る組の言いなりになって工作をしていた理由か……背後の思想関係を洗っても何も出ないはずだな。

 賭事、特に博徒が仕切るものは結局最後には勝てない様に出来ている。奴らに入る寺銭の上がりが無いと賭場を開く意味が無いからな」

 そう言うと男は鋭い視線を事務員に向けながら続けた。

「これはうちよりも一般の……経済犯罪を担当する刑事部の仕事ですな。後で身柄は刑事部に移すが、本省の後藤さんから依頼なので無下にも出来ませんから、まずはこちらで調べますよ」



 ―――まるで獲物をいたぶる蛇の様だな……

 他人事の様に岩崎少佐は建屋に入ってきた公安部の刑事に睨まれた事務員を見ていた。


 今朝、宿を立つ前に長谷に伴われて現れた男は、岩崎少佐に県警警備部公安課の刑事だと名乗っていた。

 一般の刑事事件ではなく国家体制を覆そうとする思想犯などを取り扱う公安課は、以前は特別高等警察と呼ばれていた。

 強大な権限と過酷な取締で共産主義者などを震え上がらせていた特別高等警察は、先の大戦後に行われた民主化運動の一環として公安課と名前を変えて指揮系統も内務省警保局の直轄から各県警に編入されていた。


 ただし、県警の公安課と名前を変えても彼らが行っている任務の内容は実際には変わらなかった。未だに内務省本省の警保局と活発に行われている人事交流などで関係が強かったから、内務官僚の出向者も多い企画院の依頼で動かすことも出来たのだろう。

 目の前の男がその公安刑事であることを察したのか、事務員は視線を泳がせながらも言った。


「一体なんの話ですか……私はただの公務員ですよ」

 弱々しい口調の事務員の声に答えたのは、油断なく事務員を睨んでいる刑事ではなく、怜悧な容貌に水晶玉の様に感情が伺えない目をした企画院の長谷だった。


「建設開始当初から、本港の工事では投入された工数と出来高が釣り合わないという認識がありました。それで工事担当者に関する捜査を以前から依頼していたのです。

 捜査の結果、帳簿上から導き出された工事計画を遅延させていた犯人は港湾局事務員のあなたで間違いありませんでした。他の工事に関係した人間では工事計画全体に手を出すことは立場上不可能です。

 それに飛鳥村の役場にも妨害の手を伸ばしていましたね。以前から村役場には土地の買収問題でこちらの担当者も顔を出していましたから、密かに村役場に干渉した人間の背後関係を探っていたのです」



 淡々とした口調で続けられた長谷の説明に事務員よりも先に岩崎少佐の方が怪訝そうな顔になっていた。公安の刑事が建屋の外で準備を整えている間に室内に事務員を引きつけておいてほしいと今朝になって急に少佐は頼まれていたのだが、土地買収の話は初めて聞いていた。

 うなだれた様子の事務員を無視するようにして、岩崎少佐は怪訝そうな顔になって長谷に尋ねていた。


「この港に関する土地買収は完了していたのではないですか。確か将来的に港の拡張があったとしても既存の土地でなく埋め立て工法になるという方針だったはずだが……まだ土地が必要な事業計画があったかな」

「直接港湾部に関わる話ではないので一部の関係者にとどめていましたが、商業港として開放される前に鉄道院に諮って関西本線から分岐する貨物用の支線を引いてもらわないといけませんから、その大部分が通る予定の飛島村には予め話をしていました」


 長谷の説明を聞いていた事務員は自嘲的に笑い声を上げていた。

「そんな未来のことまで決まってるんじゃ俺のした事も無駄だったな。親分も無理筋を言ったものだ……」

「親分、というのは沖仲仕の元締めですね」

 そう言って長谷は一人の男の名前を言って、力無く事務員が頷くのを確認していた。それが港湾労働者を束ねる親玉なのだろう。長谷がそんなやくざ者の名前を知っていたことも岩崎少佐には驚きであったが、更に彼女は続けた。


「コンテナ計画で障害となるとすれば既存の港湾労働組合による荷役拒否だと考えていましたが、この段階で違法行為にまで手を染めるのは予想外でした。既存港に隣接する程度ではまだ近すぎたかもしれませんね」

 それを聞いて、ようやく岩崎少佐はこんな所にコンテナ専用の港が作られた本当の理由に気がついていた。単純なことだ。最大の理由はコンテナ化を阻止しようとする勢力の妨害を恐れてのことだったのだ。



 コンテナ化の利点は港湾部に集中する費用の大きな荷役作業の短縮を図るというものだったが、それは逆に言えば港湾労働者の仕事量が減少するということだった。

 既存の港で荷役作業を牛耳る沖仲仕達が過去に各地で苛烈な労働闘争を実施していた経緯からしても、コンテナ船の荷役拒否という事態も考えられるのではないか。


 だから企画院が立案したコンテナ港の位置は、何れも新規建造かつ既存の港湾労働者が集まる箇所とは違う新たな環境を作り上げたかったのだろう。

 そう考えると船舶司令部のある宇品港は陸軍関係者で固められていたし、名古屋工廠に近い飛島村の港は既存港に隣接していても新規に建設された埠頭だった。



 だが、岩崎少佐には根本的な疑問も残っていた。

 ―――コンテナ化は一過性のものではなく、本当にそれだけの影響力を有しているのだろうか……

 岩崎少佐はそう考えているだけだったが、長谷の方は別の考えを抱いているようだった。


「その港湾労働者の元締めが下した判断には興味がありますね。どうにかして会いたいものですが……」

 岩崎少佐は、エリート官僚の長谷と沖仲仕の元締めであるやくざ者の親分が会合する場が思い浮かばなかったが、公安課の刑事に連れ出されようとしている事務員がふとおもだしたかのように言った。

「そういえば、親分はこのままでは沖仲仕の仕事はなくなるだろうから、今のうちに河岸を変えたほうが良いと古い知り合いに忠告されたとか言っていたな……結局古い知り合いの言うことを素直に聞いていれば、俺もこんなことにはならなかったのかもしれないが……」


 岩崎少佐と公安課の刑事は怪訝そうな顔を見合わせていたが、長谷はわずかに口角を上げて珍しく笑みを浮かべていた。

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[一言] わぁ、また出てきましたね古い友人氏 古い友人の忠告には真摯に耳を傾けた方がいいですね
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