1949飛島―呉3
通商破壊戦に対抗するために国際連盟軍が主導して行なっていた船団の大規模化によって最初に破綻の一歩手前にまで追い込まれたのは、ドイツ海軍の潜水艦隊ではなく意外なことに日本本土に存在する港湾の荷役能力だった。
絶対量で見ると船団の大規模化がむしろ輸送量の減少を招いてもいたのだ。
在来型貨物船の荷役は、ほとんどの工程が大勢の港湾労働者を投入した人力作業に頼っていた。艀や桟橋から甲板への貨物の移動こそ貨物船に備え付けられたデリックや桟橋のクレーンが使用されていたが、船倉内の移動や固縛作業は大半が人の手で行われていたのだ。
大戦中に船団を構築した貨物船への荷役は、沖仲仕と呼ばれる港湾労働者達にすれば数は多くとも貨物船1隻の単位で見れば容易な仕事だった。大戦中は弾薬や被服などの種類ごとに搭載船が決められていたが、従来の貨物船では雑多な貨物を搭載するのが常だったからだ。
従来型貨物船で行われる輸送の典型的な様子は、穀物が詰まった重い麻袋や何が入っているのか分からない木箱の横に液体を満載したドラム缶が転がっているといった混沌とした光景であり、重量や嵩の異なる雑多な貨物を担ぎ上げながら固縛していく作業で数多くの作業員の人数と時間が掛けられていたのだ。
船便に必要な運賃の総計の中では、貨物船の運航費用は比率で言えばさほど大きなものではなかった。運賃の大半を締めていたのは、海上ではなく波止場で発生する膨大な工数を反映した荷役費用や、荷役待ちの貨物を桟橋近くで保管する倉庫費であったのだ。
しかも沖仲仕の仕事量は不安定なものだった。荷役作業が貿易コストの大半を占めるということは、高価値な品物しか国際貿易の対象になり得ないということになるから、貿易の動きも不活発なものでしかなく、賃金は高くとも継続した雇用は望めなかったからだ。
満州共和国が殆ど無造作に拡大を続けていた穀物生産量の拡大も、大戦に前後してばら積み輸送という画期的な手段が考案されていなければ、余剰生産となって国内で腐っていくのを待っていただけではないか。
沖仲仕達の仕事は、そうした不安定な国際貿易の影響を受けて航行する商船の運航計画に左右されるものだった。出入港する商船が限られてしまえば仕事を奪い合って長期間失業状態になることもあったし、逆に高操業状態が続く場合もあった。
不安定な労務状況と作業員の数が求められる特殊な沖仲仕の仕事は、現場作業を行う下請けの日雇い労働者達と、彼らをかき集めて人材斡旋を担当する手配師に二分されていた。
しかも危険な荷役作業に従事する体力自慢の日雇い労働者と彼らの日当をかすめ取る手配師達からなる業界はやくざ者ばかりで構成されており、港湾労働者が集団で居住する一帯はどこの港でも治安が悪い地域になるという噂だった。
沖仲仕の中でも船内で監督作業を行う熟練工の仕事は重要だった。雑多な貨物をバランス良く船倉内部に固縛していかないと、つり合いが崩れて航行中に大型貨物船でも傾斜してしまうかもしれないからだ。
1万トン級の貨物船の場合、この監督作業に加えて人力で行う荷役作業によって船倉を一杯にするまでは、どの港でも桟橋につけて荷役作業が開始されてから出港可能となるまでに一週間ほどかかっていた。
戦前は1万トン級の大型船が入港する港も限られていたから、船団の大規模化によって日本本土全体で一挙に積込作業が行われたことで、荷役能力の飽和が起こっていたのだ。
勿論、戦時中は政府によって斡旋された労働者の追加投入も行われていた。それに平時においては作業環境や賃金の値上げを狙った労使交渉も盛んだったらしいが、非常時に労働争議を起こして逮捕されるものは流石に少なかった。
政府主導によって行われた港湾労働者の増員によって可能となった交代制による昼夜を問わない作業時間の延長や、本来は造船業界用に建造されていた艀の投入によって一週間ほどの積み込み作業は多少は短縮されていた。
尤も同時に作業監督の不足から未熟練者の投入による事故も相次いでおり、日本各地に分散しても大規模船団の荷役が完了するには結局は優に一ヶ月は見る必要があった。
つまり欧州への航海日数に等しいほどの時間を、大多数の貨物船は船団を構成する僚船の準備が揃うまでただ待機し続けていたのだ。
しかも、大戦中に追加して動員されていた港湾労働者の大半は、終戦直後一斉に沖仲仕の集団から解雇されていた。正確には日雇い労働者の雇止めが行われたというべきだったが、閉鎖的な沖仲仕達は他業界と比べても新参者を受け入れようとはしなかったのだ。
沖仲仕達は上から下まで文字通りの一家だった。手配師達はどこも親分子分の関係にある任侠団体のようであったし、末端の労働者も一族や古馴染みばかりで固まっていたからだ。
コンテナ輸送はこうした閉鎖的で能率の悪い荷役を一変させられる可能性があったのだが、元々は純粋に戦時中の荷役能力が飽和したことへの対策として始められた研究であった。海軍艦政本部に所属しながらも一貫して戦時標準規格船建造計画に携わっていた岩崎少佐が参加していたのもそれが理由だった。
ところが、コンテナ輸送体系の研究は戦時輸送の拡大という本来の目的が消滅した終戦後も継続されていた。これでは英国が計画から一歩引いた位置に下がったのも当然のことだったのかもしれなかった。
計画の参加者も当初から随分と様変わりしていた。概念研究の段階であった計画初期の頃から継続して携わっていた岩崎少佐の方が異端であった程だった。
英国の海軍、海運関係者が初期の参加者だったのは当然だった。コンテナ輸送の想定は日本本土と英国本土を結ぶ航路に使用する事を前提としていたからだ。
終戦と共に英国政府の関係者は研究継続に消極的になっていたが、彼らに代わってドイツやフランスなどの旧交戦国の参画もあった。
英国に代わって日本の主要貿易国である満州共和国やシベリアーロシア帝国も積極的に関与するようになっていたが、それよりもコンテナの規格が定まってくると国内の陸上輸送に関係機関から派遣されてきた参加者も増えていた。
少し考えてみればそれも当然だった。船舶を利用した海上輸送や、港での積み下ろし作業だけを考慮してコンテナ規格を考案していた岩崎少佐達の考えは片手落ちだったのだ。
コンテナ輸送とは、言ってみれば荷役作業の一部を前倒しすることを可能とする手法だった。戦時標準規格船で本格導入された設備の整った地上工場で先行艤装を行うブロック建造とはある意味で似ているのかもしれなかった。
これまでは設備や数が限られる桟橋で一つ一つ積み下ろしされていた船便の貨物を一定の大きさのコンテナに予め詰め込む事で、桟橋や船内設備の専有時間を最小限に抑えようというのだ。
これによって船団が大規模化しても既存港湾施設で短時間で全船の荷役が可能となるから、遊兵化する貨物船の数は最小限に抑えられるはずだった。
しかもコンテナに荷物を詰め込んで扉を封印した時点で重量を計測しておけば、貨物船が入港する遥か以前から予め船倉内で吊り合いが取れるように積み込むコンテナの配置を計算しておく事も可能だった。
終戦後は電気化された計算機の性能と寸法が格段に向上していたから、コンテナを取り扱う港毎に重量の吊り合いを専用に計算する計算機を配置することも不可能ではないだろう。
つまりは船内で大きな工数を要求される人力労働と、沖仲仕達の感と経験に頼っていた積載場所の選定の双方がコンテナ化によって機械的に迅速に行うことが可能となるはずだったのだ。
概念研究の段階から長い時間を掛けてきたコンテナ輸送計画もようやく実用化の時期に来ていた。特設運送艦を用いた実証実験は規格化された寸法のコンテナの試作を兼ねたようなものだったが、今回は周辺機材の試験も兼ねた大規模なものだった。
既に呉の三陽造船でコンテナ専用船に改造された戦時標準規格船3型の1隻は、改造工事後の公試を終えて宇品で船倉にコンテナを満載にして出港していた。
最初にコンテナ化に対応した専用ガントリークレーンなどの地上設備が実験を兼ねて設置されたのは、陸軍船舶司令部がある広島市の宇品港だった。同港には山陽本線から広島駅で分岐する宇品線が通じていたから陸上交通との結節も容易だった。
名古屋港の外れに新たにコンテナ化した埠頭が建設されたのも、まずは名古屋市内の陸軍工廠との連絡を考慮したようだが、陸軍工廠間で1万トン級貨物船の船倉を一杯にするほどの貨物輸送需要が頻繁にあるとは思えなかった。
陸軍船舶司令部内にある宇品はともかく、おそらく飛島というこの農村に設けられた港は民間に開放される日も近いのではないか。
満州共和国も資金面で関わっているらしいが、既に関東州大連でもコンテナ化対応設備を有する港湾の建設が始まっていた。もしかすると大陸への輸出入は、この農村の外れに設けられた小さな港が主力となる日が来るのかも知れなかった。
ただし、それにはさらなる周辺施設の拡充が必要だった。現状では飛島村から交通の結節点となる名古屋市中枢を結ぶ陸上交通が貧弱すぎて大規模な輸送には適していないだろう。
それに関しては、陸上輸送用としてはコンテナの規格は大き過ぎたのかもしれないと今更ながらに岩崎少佐は考え始めていた。
嵩張る荷物なら一回の出荷でコンテナ一杯にすることもできるだろうが、小柄で高価値な品物であれば12メートル級のコンテナを満載にするのは実用的な出荷期間内では大半の品目で難しくなるのではないか。
将来的にコンテナ輸送が輸出入に限らず船舶輸送の主力となるのであれば、実際には生産地と港の間には出荷先に合わせて複数の荷主から受け付ける荷物をまとめてコンテナに詰め込む集配所となる中間結節点が必要となるかもしれなかった。
あるいは先行してコンテナ化が進められたこの2箇所が宇品の船舶司令部と名古屋工廠という陸軍の機関であったのも、ここが被服廠などの世界各地に展開する陸軍部隊に支給する物資の集配所としての機能があったからかもしれなかった。
ふと寒気を感じながら岩崎少佐は頭を振っていた。どうも思考が商人のようになっていると考えてしまっていた。
本来は少佐も純粋な技術将校として日本海軍に入隊したはずだったのだが、本流である戦闘艦の建造に携わる機会は殆どなかった。入隊直後から戦時標準規格船を担当するようになってしまったのが運の尽きであったような気がする。
そろそろ、その元凶である戦時標準規格船3型が姿を現す頃かもしれなかった。
岩崎少佐の険しい表情に気がついたのか、港湾局の職員はこちらを伺うような視線を向けていた。
「海軍さんはこんなところで油を売っていていいんですか。あの何でしたっけ、企画院から来たという女史はクレーンの辺りを見て回ってましたよ。
企画院なんて雲の上の人を見たのは初めてだけど、東京の方じゃこんな港の光景も珍しいんですかね」
―――企画院の長谷さんか……
岩崎少佐は揶揄するような職員の言葉に眉をしかめていた。
元々岩崎少佐と共に企画院に所属する長谷もコンテナ計画の初期から関わっていたのだが、研究段階では要所要所で出席する程度だった企画院の関係者は、戦後は戦時輸送量の拡大という大義名分を失った諸機関が手を引きかけていたところで、逆に計画遂行の主導権を握っていた。
本来は戦時経済の統制などに関する企画立案を担うはずだった企画院は、組織統合の果てに内閣直属の得体のしれない多方面に渡る政策研究機関に変異しているらしい。
その企画院がなぜこの計画にここまでのめり込むのか、岩崎少佐にはまだ分からなかった。
戦時標準規格船三型の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji3.html