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1949飛島―呉2

 雑多な荷物を内部に保管したまま輸送される箱であるコンテナという存在は、歴史的に見ればそれほど新しい概念というわけではなかった。英国では鉄道や運河輸送用に前世紀から既に使われていたらしい。

 だが、コンテナと一括りに呼ばれていても、これまではその規格は統一されていなかった。輸送業者、あるいは輸送を依頼した業者ごとに規格は乱立していたし、それ以前に工業的な意味での規格が定まっているとは言い難い手作業で製作された大雑把な形状のコンテナも少なくなかった。


 今回岩崎少佐が関わった計画では、コンテナの寸法、それも基本的な外寸などだけではなく固定金具などの周辺機材を含む規格を一括して定めていた。しかもこれは日英露満を始めとする多国籍の計画だったのだ。

 戦時中から開始されていた計画が大掛かりなものとなったのは、これが国家間の荷動きを飛躍的に簡素化すると考えられていたからだが、実際にはその実感を得ているものは極少なかった。

 むしろ大多数の関係者ですら計画の本質的な意義を理解していなかったのではないか。



 コンテナ規格の統一は容易なことでは無かった。それどころか最初に規格で使用する寸法体系を決める所から始めなければならなかったほどだった。

 英国はフィート単位の使用を強く押したのだが、この件に関しては日満に加えてフランスが強固に反対して規格はメートル法で寸法が定められることとされていた。

 その後も最終的に全て却下されたのだが、既にコンテナを運用している業者の関係者などは自社規格をあわよくば統一案としようとしていた。

 尤も英国で運用されていたコンテナ規格は何れも小さ過ぎたし、単体の強度が低くて多層積みも難しかった。早々に統一案から排除されたのも当然の事だった。


 逆に岩崎少佐達海軍や海運関係者が提案した20メートル級の大型コンテナ案も反論が多かった。

 これは戦時標準規格船を含む現行の貨物船の標準的な船倉に収めた場合に最大限空間を活かせる寸法として逆算されたものだから、単に海上輸送だけを考慮すれば効率が良いはずだったのだが、この案は日本国内の運輸省鉄道総局などから猛反発を受けていた。

 反論はそんな巨大な寸法のコンテナでは船から港に降ろしても行き先がないというものだった。鉄道貨車に載せるには海上輸送だけを考慮したコンテナの寸法では大き過ぎたのだ。


 計画当初は鉄道関係者はオブザーバーとしての参加だったのだが、将来的にコンテナを専用貨車で輸送するとしてもそのサイズでは不可能という見解だった。

 単に長大な貨車を新規に建造すれば良いというものではなかった。そんな長大なコンテナを搭載する貨車を製造したところで全国に建設されたトンネルや駅の規格を越えているというのだ。

 明治の過渡期以降は日本本土の幹線も標準軌を使用していたから、運用制限では欧州諸国も日本本土と条件はさほど変わらないだろうから、大半の路線は荒野を延々と行くような満州鉄道などを除けば、この問題は日本国内に限った問題ではなかった。


 妥協の産物として、鉄道側の意見も取り入れて標準的な貨車の最大寸法からコンテナの寸法を逆算する手法が取られたが、それでも陸上輸送に関しては不安も残されていた。

 港から貨物駅まで輸送する貨物自動車も専用の牽引車を開発する必要があったし、相当高規格な舗装道路でなければ重量級となるであろうコンテナ牽引車を連続して走行させるのは難しいだろう。

 下手をすればコンテナを取り扱う港には貨物駅に隣接するか引込線が必要不可欠となるのではないか。



 だが、幾度となく繰り返された技術会議の末にコンテナ規格が定まってくる頃になると、周辺機材の開発などを本格的に開始していた鉄道総局などとは逆に、今度は近い将来におけるコンテナ輸送の採用を保留してオブザーバー的な立場に留まろうとする国も出ていた。

 特にそれまで有力な参加者と思われていた英国の関係機関が消極的になった時は、計画の実現性自体が危ぶまれていた程だった。


 数年前に行われたカナダ国鉄と太平洋を横断した海軍の特設運送艦を用いた日本本土から遣欧艦隊への実験的なコンテナ輸送は、急造の貨車や固定具を使用していたにも関わらず従来よりも格段に容易に輸送を行うことが出来ていた。

 ところがその実績を前にしても膨大な初期投資を前に二の足を踏んでいる関係者が少なくなかったのだ。


 おそらくは、工業化が進んでいるからこそ英国は大規模な規格の変更を伴うコンテナ輸送を受け入れがたいのだろうと岩崎少佐は考えていた。特に前時代的で込み入ったロンドン周辺の市街地で巨大なコンテナを取り回すのは不可能と考えているのではないか。

 その点では、既存港に隣接するとはいえこんな田畑ばかりが広がる田舎村に新たにコンテナ対応港を建設しようとしている日本も同様なのかもしれない。



 実際にコンテナ輸送の不利点を上げるものも少なくなかった。その一つは高価なコンテナという容器が必要不可欠である点だった。

 効率よく輸送する為に、船倉内で多層積みする事を前提としたコンテナは頑丈に製造しなければならなかったが、現在試験的に製造されているコンテナは軽量化のためにアルミ合金を多用していた。

 第二次欧州大戦終結後に急減した航空機生産用のアルミ材などが余剰となっていなければ、あるいは大戦中に各種兵器の増産作業で多用されたプレス加工の技術が発展していなければコンテナの生産そのものが難しかったのではないか。

 それにいくら軽量化されたとは言ってもコンテナの重量も決して無視出来なかった。貨物船の船倉内でコンテナを多層積みしようとすればガイドとなる鋼材も必要だったから、総トン数が同じでも従来型の貨物船よりもコンテナ専用船の方が搭載量は相対的に減少してしまうはずだった。


 そのように数々の不利点が予想される中でもコンテナ輸送計画が実現に向けて動いていたのは、現状の輸送体系が限界に達しているとの認識があったからだった。



 コンテナ輸送の計画が最初に持ち上がったのは、まだ第二次欧州大戦が停戦に至っていない時期のことだった。勿論その頃には定まったコンテナの規格どころか概念も無かった。

 多国籍といっても戦後になって加わった関係機関も多く、実際には日英を主力とする関係機関の連合体で当時進められていたのは、単純に荷役効率の改善を図るという研究であったのだ。


 先の大戦においては日本を始めとするアジア諸国から欧州に向けて膨大な物資や人員が送り込まれていた。現地で戦闘を行う国際連盟軍を維持すると共に、ドイツ海軍による通商破壊戦によって物資が枯渇した英国を救うためだった。

 この膨大な物資の輸送は殆どが船便で送られていたのだが、その輸送は常に破綻がすぐそこに見えそうな状況で綱渡りをしていたというのが関係者の本音だった。



 先の大戦で、日本陸軍は他国で言えば最大で軍規模の部隊を送り込んでいた。

 一方で一個師団が1日で消費する物資は約千トン程だったから、概算で10個師団に相当する総兵力を展開していた遣欧方面軍を養うには、一万総トン級貨物船が1隻あれば1日分に足りると言う計算になるはずだった。

 そして標準的な1万トン級の貨物船が日本から欧州を結ぶ航路に必要な航海日数はざっと一ヶ月程になるから、遣欧方面軍を養うだけに毎日1隻ずつの一万総トン級貨物船を送り込むと仮定した場合は、往復分60隻ほどあれば間に合うという計算になった。

 日本が戦前に保有していた商船団の船腹量は700万トン程に達するから、その規模からすると、遣欧方面軍に加えて海軍が派遣した遣欧艦隊を加えた遣欧統合総軍の全体で見ても必要な輸送量を確保するのは難しくはないはずだった。



 だが、実際には開戦以後に策定された輸送計画は何度も崩壊の危機に襲われていた。

 そのなかで最初に障害となったのは当然のことながら英国本土を封鎖しようと試みるドイツ海軍だった。

 ドイツ海軍は主に近距離型潜水艦で英本土周辺に集中する商用航路を襲撃すると共に、特設艦や場合によっては戦艦級の正規戦闘艦まで投入して通商破壊戦を試みていた。中には大西洋を越えてインド洋にまで達した通商破壊艦もあったのだ。



 ただし、終戦前から行われていた統計数値の検討結果から見ると、ドイツ海軍による損害は輸送計画に対する本質的な障害とは言えなかったのではないか、そう意見する研究者も出ていた。

 確かにドイツ海軍の通商破壊戦によって生じた商船団に対する損害は大きかった。開戦から3年ほどたってドイツ海軍潜水艦隊の戦力と戦術が絶頂に達した時期には、一ヶ月で50万トンという恐るべき量の損害が商船団に出ていたのだ。


 だが、その後はそのように膨大な損害が発生することは二度と無かったし、国際連盟軍は船団の損害を補填する手段も有していた。

 仮に開戦直後の戦争準備が整わず、それ以前に国際連盟軍の結成前で実質的に英国単体でドイツと渡り合っていた時期にそれほどの損害が生じていれば、英国本土が干上がってドイツ側が望んだ形での講和の気運も高まっていたかもしれなかった。

 ところが、実際には大損害を被った直後の時期には、大規模な船団を幾つも構成するのに足りるだけの数で、性能が統一された戦時標準規格船が続々と就役していたし、同様に大量建造された各種護衛艦艇も実戦投入されていた。



 大戦中の国際連盟軍における対潜戦術の発展は著しいものがあった。

 日本海軍の量産型駆逐艦である松型駆逐艦などは、音波探信儀や対潜散布爆雷に加えて大戦中盤以後は画期的な対潜魚雷である機動爆雷といった新兵器を次第に増備しながら有力な護衛艦艇として就役していた。

 また、海防空母と呼称される船団護衛用の空母は、戦時標準規格船を原型とする簡易型であるために艦隊型の正規空母と比べると貧弱極まりなかったのだが、陸上機の哨戒範囲外の外洋を航行する船団に航空援護を提供するという唯一無二の役割を果たしていた。


 次第に展開範囲を英国本土や世界各地に点在する国際連盟軍の拠点に広げられていた長距離哨戒機もドイツ海軍の艦艇が自由に行動するのを抑え込むようになっていた。

 極少数の幸運な例外を除けば、開戦から早々に水上艦による通商破壊戦は不可能となっていたし、その名に反して潜水中の行動が制限される潜水艦も哨戒機を恐れて潜航行動を多用した結果、襲撃機会を失って無力化されていた。



 そうした各個の兵器類とは別に、対潜戦術にとって画期的な対策の一つは船団の大規模化だった。理屈の上では船団を大規模化するほど潜水艦の襲撃は効率が悪化していた。

 通常は潜水艦の雷撃は標的となる面積が広くなる船団の側面から行われるのだが、船団が大規模化すると全体の輸送量に対して船体を暴露する輸送船の数は減少した。

 極端なことを言えば、独航する輸送船と横に連ねて並列に進む船団のどちらも側面から狙う潜水艦に対する暴露面積は変わらないということになるからだ。


 それに船団が大規模化しても1隻あたりの護衛艦艇が援護しうる範囲はさほど変わらなかった。護衛対象が1隻でも2隻でも必要な艦艇が倍増するわけではないから、船団を大規模化するほど商船1隻あたりに必要な護衛艦艇を削減できるということになる。

 大戦中盤以降は、船団護衛から余剰となった海防空母や護衛駆逐艦を転用して、敵潜水艦を待ち構える護衛戦闘ではなく、積極的に彼らの母港付近で狩りに出ていく対潜専従部隊が編成されて戦果を上げていた。



 大戦勃発直後は雑多な既存商船で船団が構築されていたためにその大規模化も阻害されていたし、性能が不揃いであったために敵潜水艦を欺瞞する為の頻繁な回頭を前提とする編隊行動も難しかった。

 船団の構築が順調に行き始めたのは、性能が統一された戦時標準規格船が続々と就役し始めてからのことだった。


 だが、皮肉な事に通商破壊戦に対抗するための船団の大規模化が、輸送計画にとっては大きな障害の原因となっていたのだった。

戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html

戦時標準規格船二型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji2.html

戦時標準規格船三型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji3.html

松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html

三原型海防空母の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cvmihara.html

浦賀型海防空母の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cvuraga.html

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[一言] 機動爆雷なんて単語を見たのは某空宇宙軍史以来じゃないかな。
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