1949飛島―呉1
掘っ立て小屋のような事務建屋には隙間風が容赦なく入り込んでいた。しかも人の出入りが増えたものだから、ストーブで温められた申し訳程度の熱も扉から勢いよく逃げていった。
新聞を広げていた岩崎技術少佐は、建屋の扉を勢いよく開けて入ってきた港湾局の事務員に迷惑そうな目を向けていたが、普段から柄の悪いやくざ者ばかりの沖仲仕を相手にしているせいか、海軍軍人と言っても技術将校でしかない少佐の視線に事務員がたじろぐことはなかった。
厳つい顔立ちの事務員は、冷たくなった手をストーブに当てながら興味深そうな目で無遠慮に岩崎少佐が手にした新聞を覗き込んでいた。
「なにか面白そうな記事でもありますか海軍さん。最近はこっちの改修作業にかかりっきりになっていたものだから、世情に疎くなってしまったような気がしますよ」
岩崎少佐は、不機嫌そうな顔で無言のまま事務員に読み終えた新聞を突き出したが、彼は屈託のない様子で受け取ると先程少佐がそうしていたように宿の人間に買ってきてもらった地方紙を広げていた。
「なになに……遣欧艦隊の戦艦信濃と英空母からなる艦隊が新鋭米戦艦と邂逅すと……こいつはおたくの管轄ですな。しかし戦争が終わってもまだ欧州から帰れないとは、海軍さんもかわいそうですなぁ」
信濃型は戦後になってから派遣された戦艦だし、遣欧艦隊に配属されている将兵は定期的に交代されている。岩崎少佐はそう言いかけたが、一面の写真記事を覗き込んでいる事務員の顔があまり真剣そうには見えないのに気がついて口を閉じていた。
「次は……第三国への違法な武器輸出に関与した疑いで実業家の川南氏を参考人取り調べと……物騒な話だなこれは」
新聞沙汰になった川南という名前は岩崎少佐も知らないわけではなかった。川南工業香焼島造船所は、海軍艦政本部が主導していた戦時標準規格船の主力建造工場の一つに指定されていたからだ。
当時は建造工場で発生する不具合報告の取りまとめを担当していた岩崎少佐も何度も川南工業に出張していたが、その時に川南社長と顔を合わせる機会もあったのだ。
元々ガラス製品を製造していた川南工業が造船業に打って出る事ができたのは、半世紀ほど前に設立されたものの第一次欧州大戦後の不況で倒産した造船所を購入して同社の香焼島造船所として再開発していたからだ。
それに長崎では有力な若手実業家扱いされていたものの、全国的には大手とはいえない上に実質的に造船業界に新規参入した川南工業が戦時標準規格船の重点工場に指定されたのには、陸軍関係者の思惑が強かったという噂もあった。
ガラス製品や缶詰といった川南工業の本業で生産されたものは陸軍への納入品が多く、その中で陸軍中枢を占める統制派との深い関係が出来ていたらしい。実際、川南工業香焼島造船所で就役した戦時標準規格船の多くは陸軍船舶部に引き渡されていた。
一時期は近隣の大手造船所である三菱長崎すら上回る程の建造量を誇った川南工業香焼島造船所だったが、これには戦時標準規格船ならではのからくりがあった。
元々開戦前から立ち上げられていた戦時標準規格船の建造計画は、有事の際に必要な船腹量を損耗を加味して確保することに加えて、補助金と引き換えに最先端の造船技術を民間造船所に導入させることも目的の一つになっていた。
戦間期の民間造船所、特に高性能商船の建造に助成金を交付する優秀船舶建造助成施設法の適用外となる小型船しか建造できないような中小企業は不況に耐え忍ぶだけで精一杯であり、新技術の導入に予算を割く余裕は無かったのだ。
戦時標準規格船の中でも最初に設計されていた一型が600総トン級の使い勝手の良い内航用小型貨物船であったのも、海上トラックなどと俗称される同級船の建造が手一杯の造船所に技術導入を図るためだった。
そうした政策で中小造船所に導入された先端技術の中には電気溶接などの文字通りの技術もあったが、近代的な工程、品質管理法やブロック工法などの新手法の取得も含まれていた。
予め設備の整った地上の工場で建造した構造物を船台や船渠に並べて一挙に建造するブロック工法は、全てを船台上で建造する従来の工法と比べて飛躍的に建造速度を向上させていたが、同時にブロック単位の外注も可能にするという付随的な効果も無視できなかった。
大型の船渠や船台を有する大手の造船所のいくつかでは、船尾や機関室などの重要区画ブロックの製造に集中する一方で、船倉区画などのブロックは積極的に外注されていたようだ。
戦時中に優先して建造されていたのは1万トン級の大型貨物船である戦時標準規格船二型や三型であったが、一型を建造していた中小造船所の中にはそうした大型船の建造にブロック単位の製造で貢献する所も少なくなかった。
重量物である船殻ブロックを輸送するための艀の建造数からもその傾向は明らかだった。
川南工業香焼島造船所も積極的にブロック単位の外注を行っていた造船所だった。大戦終盤では同社は単一の造船所というよりも、各所からかき集められていたブロックの最終組み立て工場といってもおかしくない状況にまで再編成されていた。
中には隣接する三菱長崎で製造されたブロックを組み込んだ船もあったらしい。
ところが戦時中はあれだけ盛況を呈していた香焼島造船所は、終戦に前後して戦時標準規格船二型の連続建造が途絶えると、急激に業績が悪化していた。川南社長の方針で戦時標準規格船二型の最終組み立てに特化していた工場は、他社からのブロック納入に頼っていたからだ。
陸軍からの大量発注が途絶えていた後も、当座は川南工業でも外注から自社によるブロック建造に切り替えていったのだが、香焼島造船所におけるブロック内作建造では効率が予想以上に悪化していたらしい。
基本的な工場配置が倒産した前会社を引き継いでいた香焼島造船所は、半世紀前の古い配置思想のままだった。ブロックを連続建造するには船渠や船台の他に広大な地上工場が必要だったのだが、そのような敷地を確保することは旧時代の造船所では不可能だった。
三菱長崎の様な大手企業であれば一時的に操業を止めてでも大規模な敷地の改良換えを行うだけの余力も捻出出来たかもしれないが、自転車操業で会社を肥大化させていた川南工業にはその体力は無かったのだろう。
結局、香焼島造船所の勢いは終戦直前の一瞬の煌きでしかなかったようだった。
だが、造船所の失速程度では剛腕実業家である川南社長の足を止める事は出来なかった。最近では造船業を放り投げて独立が続くアジア諸国への進出を試みていたらしい。
戦時中、川南工業香焼島造船所で建造されていた戦時標準規格船が欧州で破断した事故事例がいくつか報告されていた。当時は岩崎少佐もその原因追求に取り組んでいたのだが、実際には正確な原因が判明したのは戦後になってからだった。
破断事故の原因は施工時間の短縮と構造材の軽量化に寄与する電気溶接を多用する戦時標準規格船の建造において、開戦初期に川南工業で内作されていた建造ブロックに限って溶接向けでは無い金属材料を使用していたという意外なものだった。
溶接箇所に発生した過剰な残留応力が冷寒な欧州海域で一挙に溶接割れという形で現れたのが破断事故の正体だったのだが、そもそも非溶接用鋼が使用されていたのは、旧インドシナ植民地から解放時のどさくさに紛れて自由フランスから日本陸軍経由で川南工業に納入された由来不確かな材料を利用していたせいだった。
複雑な経緯で行われたその材料譲渡はフランスとベトナム間の政治的な紛争を招いていたようだが、本来加害者側と見られてもおかしくない川南工業は、これを奇貨として謝罪の意味を込めた経済協力を名目として現地合弁会社の設立を画策していた。
アジア諸国への進出では他にも胡散臭い手段を使ったという噂も聞いていたから、川南社長が新聞沙汰になったのもその一つなのかもしれない。
岩崎少佐は頭を振っていた。戦時標準規格船計画が終了したからにはあの強引な川南社長と顔を突き合わせることはないだろうと考えたからだ。
実は現在岩崎少佐が携わっている計画の一部である戦時標準規格船を対象とした改造工事でも川南工業が入札に参加していたのだが、船舶修繕の実績が少なく技術力不足との理由で対象から外されていた。
実際に改造工事を担当したのは呉にある三陽造船だった。
会社の設立時期だけを見れば三陽造船は川南工業香焼島造船所以上に歴史が浅いということになってしまうのだが、同社は建艦機能を大神工廠に移転したことで一部が閉鎖された旧呉工廠の設備を払い下げられていた上に、大神工廠に異動せずに呉に残った工員も大半が残留していたことから潜在的な技術力は高く評価されていた。
これまでの呉工廠では大型の戦闘艦ばかりを建造していたから山陽造船でも商船の新規建造に関しては不安なところもあったが、工員の練度維持のためか終戦後は余剰となって売却される戦時標準規格船の修繕工事が連続していたようだから、修理改造に関しては十分な実績が期待できるはずだった。
ただし、改造工事の対象となっていたのは、欧州諸国などに多数が売却された1万トン級の三島型貨物船である戦時標準規格船二型ではなく、その発展型とも言える三型だった。
上部構造物を最低限に抑えた貨物船としては三島型はこれまでの常識的な形態だった。実際には高級鋼材を使用する推進軸長を短縮する為に後部に機関室を設けた戦時標準規格船二型はやや異様な形態であったのだが、少なくとも外観はありふれた貨物船のそれだった。
それに対して今回の改造工事の対象に選ばれた戦時標準規格船三型は、大型貨物船としては常識外の形態をとっていた。より小型の600総トン級貨物船のように船倉区画を中央に集中させた船首尾楼形式となっていたからだ。
しかも船首楼は極限まで小型化されていた。実際には頑丈な船首構造に生じた余剰空間の一部を汎用的な倉庫に転用したといったほうが正しかった。
戦時標準規格船三型が船尾楼に機能を集約させたのは、船倉区画の効率化を図る為だった。従来の三島型では居住区や操船区画が集中した中央楼によって前後に分割されている船倉区画を一体としたのだ。
従来の三島型構造では機関室を中央楼の下部に設けているから上部構造のみを移動しても意味はないが、戦時標準規格船は二型の時点で機関室を後部に設けていたから、船体内部に設けられていた分だけ船尾楼を大型化すれば、上甲板から船底に至る広大な船倉区画の一体化は可能だった。
尤も従来とは大きく異なる形状の採用は設計面から見ても意外に容易なものではなかった。
従来は上部構造物と共に負担していた前後の荷重を船倉区画の壁面で持たなければならなくなるし、機関室と居住区の一体化で船尾側が極端に重量化する一方で空荷の際には船倉区画の浮力が過剰となるために船殻部材に掛かる負担は大きくなるはずだった。
後尾に荷重が集中した影響は構造的なものだけではなく、操船時の挙動も従来船とは大きく異なるという船長たちの証言も少なくなかった。
第二次欧州大戦による戦禍で壊滅的な状態になった海運業を立て直すために、日本商船団の規模からすると余剰となった戦時標準規格船が終戦後に次々と欧州諸国に売却されていったが、その対象となっているのは三島型の二型ばかりだった。
僅かに内航用の一型が苦労しながら大西洋を渡って欧州に転売された実績はあるが、船首尾楼形式の三型が売却された例はまだなかった。
高性能であるがゆえに余剰となることなく三型が日本船籍に残されていたのが主な理由であるはずだったが、実際には従来と大きく異る形状が保守的な欧州の船会社に受け入れられなかったのも理由の一つだったのかもしれなかった。
だが、今回の計画では戦時標準規格船三型の一体化した船倉構造は必要不可欠だった。改造工事によって広大な船倉区画にはコンテナと呼ばれる鉄箱を支える支柱が頑丈に設けられていたからだった。
コネチカット級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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