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1948バミューダ諸島沖哨戒線7

 フィリピンで独立派を表明する反乱が起こっているのは、行政の中心地であるマニラ市が存在するルソン島ではなく、南西部のパラワン島や南部のミンダナオ島、つまりフィリピンの内海であるスールー海沿岸であった。

 この地域は米西戦争以前のスペイン統治時代から中央政府に反抗的な勢力の巣窟となっていた。無闇矢鱈と結束力の高いイスラム教徒達の勢力圏であったからだ。



 モロ人と原住民を呼んでいたスペインも異教徒であったイスラム教徒の取り扱いには苦労していたらしく、米西戦争の結果フィリピンの統治権を手にした米国も、統治の初期からモロ人の反乱に晒されていた。

 ただし、当時の米国陸軍が苦戦していたのは、必ずしも原住民の戦力が強大であったからではなかった。本来であればいくら地の利がモロ人にある奥深い森林での戦闘だったとしても、蛮刀を片手に襲いかかってくる時代錯誤の蛮族などは近代兵器を駆使する米国兵の敵でなかったはずなのだ。


 当時の米国軍がフィリピンの戦闘で苦戦したのは、米国が太平洋に適当な中継根拠地を持てなかったために、大規模な増援や物資を送り込むだけの補給線を維持できなかったからだ。

 結果的に乏しい物資で戦い続ける羽目になった米陸軍は、優秀な兵器を持ちながらも本格的な攻勢を実施できずにだらだらと蛮族の制圧に時間をかけてしまったのだろう。



 それまで手つかずであった太平洋地域を列強が勢力圏に収めようと競争する中で、米国もいくつかの島嶼部を手中に収めていたが、それらはいずれも取るに足らない無人島ばかりであり、広大な太平洋を渡る中継点として継続的に使用するのは難しかった。

 航法支援に必要な機能を充実させようとしても、何もない無人島に大量の機材や人員を運び込む所から始めなければならなかったし、機能を維持するために必要な物資や交代要員を送り込むこと自体にも手間がかかっていた。

 グアムやフィリピンといった米西戦争の結果得られた有人島が無けれれば、孤立した島嶼部は根拠地としての機能を放棄されてもおかしくはなかったかもしれないが、逆説的に本土からみて遠隔地であるフィリピンを併合したからこそ、島嶼部の根拠地維持に明確な目的が米国に出来たとも言えるのではないか。


 太平洋に存在する米国領の中でももっとも重要であったのは、その名前の通り大洋の中間点に位置するミッドウェー島だった。太平洋に浮かぶ孤島としては大きい類のミッドウェー島には、前世紀末に開設された給炭所から始まる数々の支援施設の他に、飛行場や燃料タンクなどが続々と建設されていた。

 ミッドウェー島の維持管理には莫大な予算が投入されていたが、本来であれば米国から太平洋を渡る航路にはもっと有力な中継点があるはずだった。ミッドウェー島から2千キロ程離れた海域には、いくつかの大きな島に合計20万もの人口を有するハワイ王国が存在していたからだ。

 ミッドウェー島根拠地の維持に関しても、ある程度の人口と余剰生産能力を有するハワイ王国が後方策源地として使用できれば大幅な経費の削減が出来るはずだったし、それ以前にハワイ王国自体を根拠地と出来れば太平洋を押し渡るのに苦労もないのではないか。


 ところがハワイ王国と米国との外交関係は決して良好なものではなかった。最近では民間商船の寄港に制限はないが、未だに太平洋艦隊に所属する米海軍の艦艇がハワイ王国を訪れてもいい顔をされないらしい。

 実は過去にはハワイ王国に関しては米領に編入される可能性もあったのだ。もう60年程も前の話になるが、ハワイ王国で米国系市民が主導するクーデターが発生していたのだ。



 19世紀に列強から武器を手に入れた現地勢力の一つがハワイ諸島を統一して誕生したハワイ王国は、原住民の減少を補うためもあって移民が増大していたが、入植者達の多くはハワイを勢力圏に収めたい列強が送り込んだ尖兵という側面が強かった。

 英仏などに並んで隣国とも言える米国からも大勢の市民が移民しており、農業や貿易、さらには政治的中枢にまで食い込んでいた。むしろ現地では教育レベルの低い原住民よりも各分野の専門家である富裕層の移民達の方が権力を持っていたのだろう。

 代々親英派で前時代的な王朝を打倒して近代的な親米政権を樹立させて、行く行くはハワイを米国に併合させる。入植者達の中でも経済的に成功した先進的な米国系市民の中からそうした考えを持つものが現れるのは必然だったと言える。


 ところが、実際に行動を起こした米国系市民に対して米国国内の世論が示す関心は低かった。

 当時はまだ米西戦争勃発前でフィリピンやグアムといった太平洋の向こう側との中継点というハワイ王国が持つ地勢上の価値は知られていなかったから、米本国からすれば辺境の利権争いにしか見えなかったのだろう。


 ハワイ王国のクーデターが成功しなかった最大の理由は、当時の米国政府が彼らを見捨てるような政策をとっていたからだ。

 当時の政権が既に米国の内懐とも言えるキューバやこれを支配するスペインに注目していたのも事実だったが、直接的な原因はハワイ王国に短時間で終結した他国列強からの干渉を恐れたからだろう。


 このときばかりは普段仲違いしているはずの英仏も協調して艦隊を派遣していた。表向きは色々と人道的な事を主張していたが、彼らの目的は明確だった。既に太平洋の島々が列強の勢力圏に分割された状況下で、最後に残されたハワイ王国で米国が一人勝ちするのを防ぐためだった。

 国際協調路線の名のもとに、英仏からの要求を受け入れて当時の米政府はクーデター派を見捨てていた。言い方を変えれば、米政府は対スペインに集中するために列強との衝突を恐れたのだ。



 はしごを外されたクーデター派の末路は悲惨なものだった。

 米西戦争勃発のどさくさに紛れるように、米国系市民は政治的な中枢から排除されていたが、米政権はまだ楽観的だった。ハワイ王国の経済は米国が握っている、そう考えていたからだろう。


 だが、クーデター派に限らずにハワイ王国に移住した入植者は二択を迫られていた。ハワイ王国では憲法の改正により二重国籍が全面的に禁止されて移民達は元の国籍に戻ってハワイを去るか、この国に骨を埋めるかを選択しなければならなかったのだ。

 様々な葛藤もあったのだろうが、当時は多くの米国系市民がクーデター派かどうかに関わらずハワイ王国を後にして米国市民に戻っていた。尤も彼らも米政権と同じく経済的に米国資本が抜ければハワイ王国は立ち行かなくなると考えていたのかもしれなかった。


 実際、その後のハワイ王国は米国への輸出が激減したことで不況が襲っていた。英仏などから新たに資本が投入されていなければ、たちまち経済が崩壊していたかもしれない。

 楽観的な現地民達はそれでも自分達に戻ってきた土地と主権を守り抜いていた。単に緩衝帯となる中立地帯が欲しかっただけかもしれないが、列強諸国も米国の後に直接ハワイ王国を支配しようとするものも現れなかった。ハワイはハワイ王国のままでいてもらったほうが都合がよかったのだ。



 しかし、ハワイ王国のクーデターが失敗に終わった背後には日本の存在があったとルメット大佐は以前から考えていた。むしろ最近の動きを見ると、日本は長期的な視野に立って卑怯にも米国を追い詰めていたのではないか。

 ハワイ王国のクーデター騒ぎの際も日本の動きはさほど目立つものではなかった。貧弱な日本帝国がクーデター当時のハワイ王国に派遣した戦力は、当時米海軍が駐留させていた艦隊よりも少数であったからだ。


 当時から日本はハワイ王国に独自の情報網を有していた。前時代的なハワイ王室は、日本の王室と縁戚関係を結んでいたからだ。

 日本を訪れた経験のあるハワイ国王から強く求められたらしいが、日本王室の王子がハワイ王室に婿入りしており、現在のハワイ国王も日本人の血を引いていたのだ。

 王子に付き従ってハワイ王国に移住した日本人も多かった。しかも、米国系市民とは異なり彼らの多くはクーデター事件の後で定められたハワイ王国の国籍法が改正される以前から純然たるハワイ人となっていた。


 それでも元日本人達が本国にもたらす情報は正確なものだったのだろう。早々とクーデターの兆候を掴んだ日本政府は、密かに英仏を引き込んでいたに違いなかった。

 そうでなければ日本艦隊の後詰めのように英仏連合艦隊がハワイ王国にタイミングよく現れることは出来なかったのではないか。両国艦隊は、都合よく日本を訪れていた際に本国からの指示で両国連合で艦隊を編成してハワイに向かっていたからだ。

 英仏日の三カ国艦隊という実質的にハワイ王国を支援する戦力が背後でにらみを効かせていたからこそクーデター派は王国派との戦闘で劣勢になり、早々と米政府がクーデターを見捨てる事態を招いていたのだ。



 そしてハワイ王国のクーデター騒ぎの時のように、日本が米国に仕掛けている陰謀は舞台をフィリピンに変えて今も続いていた。半世紀前のようにフランスが関与しているかどうかは分からないが、少なくとも英国は確実に日本に加担しているだろう。ルメット大佐はそう考えていた。


 スールー海沿岸で続発する反乱行為は散発的なものだったが、神出鬼没に発生する反乱、というよりも襲撃を完全に制圧するのは駐留軍の兵力では難しかった。

 陸上で発生する戦闘自体は小規模なものであったのだが、駐留軍の弱点を突くように頻発しており、しかも他地域からの援軍が到着する頃には目的を終えて反乱分子は雲を霞と逃げ去っていたのだ。


 反乱分子の指導者はスールーの虎と呼ばれているらしいが、あるいは組織名がそうであったのかもしれない。何れにせよその名の通り彼らがスールー海を拠点としている事は間違いなかった。

 スールー海には、これを囲むパラワン島やミンダナオ島などの大きな島以外にも数多くの小島や環礁が存在していた。スールーの虎はそれらの小島の一つを拠点とするか、あるいは摘発を恐れて小島を渡り歩いているのではないか。



 現地軍の対反乱軍作戦はうまくいっていないらしかった。モロ族の原住民は米駐留軍に非協力的であったし、半世紀前の反乱のように独立派が大規模な集団を構成しているところを一網打尽にすることも出来なかったから、独立派勢力を完全に討伐するのは難しかった。

 それでも、何度かの戦闘で独立派民兵の捕虜や彼らが残していった装備を獲得することは出来ていた。捕虜となったのは、現地の島で徴募された若者ばかりで地元のごろつきが暴れまわった程度でしかなく、スールーの虎からすれば下っ端もいいところだったが、捕獲された装備は重要だった。


 スールー海で暴れまわっていた独立派民兵の装備はいずれも日本製だった。第二次欧州大戦開戦に前後して日本軍は歩兵用ライフルを一新させていたが、鹵獲されたものはその時に余剰となった日本製の旧式小銃が多かった。その他に大戦中に製造されたサブマシンガンも数多く鹵獲されていた。

 むしろ、急遽かき集められた地元のごろつきには取り扱いが容易で軽量なサブマシンガンが与えられることが多かったようだ。


 最後には処刑されたらしいが、捕虜となったごろつき共が言うには手慣れた様子で上陸してモロ族の若者たちを独立派に徴募したスールー海の虎は、日本製の上陸艇を使って島嶼が連続するスールー海沿岸を縦横無尽に渡り歩いていたらしい。

 そうした船舶装備の鹵獲こそ出来なかったが、反乱軍の装備を持ち込んだのが日本であることは間違いなかった。



 勿論、フィリピンの現地機関のみならず、米政府は日本製の兵器が確認された時点で日本政府に抗議を行っていたのだが、日本人達は気味の悪い黄色人種的な曖昧な笑みを浮かべながら彼らの関与を否定していた。

 第二次欧州大戦中に日本は国際連盟軍を構成する各国に兵器を輸出しており、その一部が流出したのではないかと彼らは主張していたのだ。第三国への兵器輸出に関する取締を彼らは約束していたが、米国が外交的に得られた成果は限られていた。


 日本人達の欺瞞は明らかだったが、英仏などの国際連盟諸国からの反応は冷淡だった。オランダなどアジアに権益を有するいくつかの国は米国に同情的だったが、それだけだった。

 そして末期のカーチス政権に情勢を左右させる力は存在していなかった。

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[一言] あゝ……社長……社長じゃ仕方無い…か……。 ソ連製はむしろシベリア-ロシア帝国辺りがいっぱいもってそうですから企画院ベースでは使われてそうですね。 共産主義勢力の在る地域なら不自然でもあり…
[一言] NATOじゃないけど欧州の西側は日英規格の新型で統一されそうな気がするので(フランスは余裕が出次第反発しそうですが)各国独自規格の兵器が余ると思うのです。 特にオランダは外貨を稼ぐ為にもイン…
[気になる点] 戦争が終結(一段落?)した欧州製の兵器類は流入してないのでしょうか? 実際戦後には大量の欧州製兵器類が米国の通販会社にまで溢れたそうですし、フランス製やオランダ製の武器弾薬が近所でお安…
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