1948バミューダ諸島沖哨戒線6
部内で不評であったモンタナ級戦艦就役後に、米海軍は新造の大型戦艦が実用化されるまでのつなぎ役として最小限の設計変更で実用化可能な戦艦の建造を行っていた。
米海軍が建造を開始したその妥協案とも言えるコネチカット級戦艦の原型となったのは、直前にブラジルから発注を受けて建造していた輸出用戦艦のリオ・デ・ジャネイロ級だったのだ。
第二次欧州大戦終結後、過剰となっていた装備の削減を狙っていた欧州各国と旧式化装備の刷新を図ろうとしていた南米の一部国家の利害が一致した事で、欧州から南米に向けた大型兵器の輸出入計画が持ち上がっていた。
大戦中も一貫して米国に倣って中立政策を堅持していたブラジル政府だけは欧州諸国との外交関係に乏しいためにそうした流れに取り残されつつあったが、米国からの輸入という手段で地域的な軍拡競争に巻き返しを図っていた。
ブラジルの仮想敵であるアルゼンチンやチリが購入したのは、所詮はイタリア海軍の旧式戦艦であるコンテ・ディ・カブール級戦艦だった。
しかも、インデペンデンシア、アルミランテ・コクレーンとそれぞれ改名されたコンテ・ディ・カブールとジュリオ・チェザーレは、イタリア本国で修復と改装工事を受けていたせいで最近になってようやく両国海軍に編入されていた。
両国海軍にしてみればそれまで維持していた先の欧州大戦前に就役していた旧式の準弩級艦等を更新したということになるのだが、近代化改修や大戦中の損害復旧工事を受けているとはいえ列強の基準で見れば新たに導入されたコンテ・ディ・カブール級戦艦でさえ旧式戦艦である事に変わりはなかった。
代替された艦とコンテ・ディ・カブール級戦艦が就役した時期は殆ど変わらなかったのだから、いくら格安で購入されたとは言え南米の両国でも長期間この2隻を就役し続けるのは不可能だろう。
もしかするとアルゼンチンとチリは南米における軍事力の均衡を考慮していたのかもしれないが、そうした外交的な配慮を無視したブラジルの艦隊増強は両国を凌駕する勢いだった。
第一次欧州大戦勃発によって英国などに発注されていた中立国の艦艇は接収を受けていた。しかも戦後になっても大半の艦艇は返還されなかったし、その後の不況によって新たに発注し直す国も少なかった。
そうした経緯からブラジル海軍の主力艦も旧式化が顕著だった。再度新型艦を発注しようにも戦間期の国際的な世論は軍縮条約締結国でなかったとしても海軍力の一方的な増強に否定的だった。
だが、第二次欧州大戦終結前後のどさくさにまぎれてそれまで海軍力では劣勢にあったブラジル海軍がミナス・ジェライス級の代艦として購入した戦艦は、旧式艦を延命したコンテ・ディ・カブール級戦艦などと比べると、正真正銘の新造戦艦だった。
しかもブラジル海軍は退役した戦艦であるミナス・ジェライス、サンパウロの艦名を受け継ぐ空母も同時に米国に発注して艦隊全体の増強を図っていた。
ブラジルの輸出産業としては戦略物資として一括して米国が値を吊り上げて買い占めていたコーヒーが有名であったことから、にわかに誕生したこの艦隊を報道機関などはコーヒー艦隊などと俗称していたほどだった。
ブラジル海軍でリオ・デ・ジャネイロ級と命名された輸出用戦艦の原型となったのはアイオワ級戦艦だった。同時期にはモンタナ級戦艦の設計作業も行われていたから、一時期は米国はアイオワ級戦艦の設計ばかりを弄くり回していたとも言える。
大雑把にいってモンタナ級戦艦がアイオワ級戦艦から主砲の砲塔を一つ増やして船体を延長したものだとすれば、リオ・デ・ジャネイロ級戦艦は逆に砲塔を前後一基ずつに削減して全長を抑えたものであった。
実際には細かな変更点も少なくなかった。南米諸国の航空戦力は貧弱であったから対空兵装は削減されていたし、仮想敵の旧式戦艦に対しては威力過剰である主砲も、砲身命数の延長を図って維持費を削減するためにサウスダコタ級戦艦に搭載されていたものと同型の45口径砲とされていた。
それでもリオ・デ・ジャネイロ級の基本的な構造はアイオワ級戦艦を踏襲していた。むしろブラジル海軍の要求による変更を折り込みながら全くの新造艦を設計する余裕の無かった米国設計陣は、この時点では最新鋭のアイオワ級戦艦しか原型とする艦艇が存在していなかったというべきだった。
だが、短期間作成されたで大部分を流用した設計案であったにも関わらず、リオ・デ・ジャネイロ級戦艦は予想以上に好評を得ていた。
列強諸国に並ぶ有力な16インチ砲搭載の戦艦を入手したブラジル海軍だけでは無く、公試の立ち会いやブラジル海軍の初期将兵教育に従事した米海軍関係者からも概ね高い評価を受けていた。
たしかに同級は諸元表だけを見ればアイオワ級戦艦と比較して速力、火力ともに低いのだが、防御力はほぼ同等であったし手数は少なくとも一発辺りの主砲威力にも殆ど遜色もなかった。
むしろ、遠距離戦においては存速の低い45口径砲から放たれた砲弾の方が落角が深くなって水平装甲に対して有効打を与えやすいという点が再認識されている程だった。
速力の点でも実質的な不満は運用側であるブラジル海軍からは出てこなかった。
駆逐艦並というアイオワ級の高い速度性能は実質的な巡洋戦艦としての運用を前提としたものであった。だから巡洋戦艦ではなく純然たる戦艦として運用する限りは、リオ・デ・ジャネイロ級にそこまでの速力は求められていなかったのだ。
むしろボイラー搭載数、圧力共にアイオワ級から減少させた主機関は、米海軍よりも技術力の低いブラジル海軍での整備性向上に適していたようだった。
米海軍が部内で密かに失敗作扱いされているモンタナ級戦艦の後継として、同級とは逆に安定した性能を期待出来る戦艦として設計されたコネチカット級戦艦の原型にブラジル海軍で好評だったリオ・デ・ジャネイロ級を原型としたのは当然の結論だった。
純正な米海軍の戦艦として建造されたコネチカット級は、リオ・デ・ジャネイロ級戦艦で簡素化された部分をアイオワ級戦艦のそれに戻していくという手法で設計変更は最小限に抑えられていた。
リオ・デ・ジャネイロ級から対空兵装は増設されていたが、その配置は実績のあるアイオワ級戦艦を踏襲したものであり、主砲も同型の長砲身50口径砲に戻されていた。
主機関に関しては機関室容積の拡大が難しかったことからボイラー数はリオ・デ・ジャネイロ級のままだったが、過熱器の性能向上による蒸気圧の上昇で実質的な出力は向上していた。
コネチカット級が発揮した最大30ノットという速力は、同級に戦艦としての運用だけではなく、アラスカ級大型巡洋艦の後継となるいわば代理巡洋戦艦としても戦線に投入される可能性をもたらしていた。
米海軍にこうした想定を抱かせた原因は、第二次欧州大戦終盤のバルト海で国際連盟軍と衝突したソ連海軍からがもたらされた戦訓を受けたものだった。
米国の技術支援を受けていたソ連では、アラスカ級大型巡洋艦の準同型艦とも言える12インチ砲搭載のクロンシュタット級重巡洋艦を建造していた。
技術的には米国の支援を受ける立場のソ連海軍だったが、クロンシュタット級重巡洋艦はアラスカ級よりも戦艦向きというべき重防御の艦艇だった。革命によって旧ロシア帝国海軍から断絶した期間の長いソ連海軍の方が戦艦級艦艇が不足していたためだろう。
有力な戦闘艦とみなされていたクロンシュタット級重巡洋艦は、バルト海海戦において同格と思われていた磐城型戦艦と交戦したのだが、結果は散々なものだった。
相手は16インチ砲搭載の戦艦とはいえ、手数の多い12インチ砲であれば圧倒できるとソ連海軍の指揮官は考えていたようだが、実際にはレーダーを用いたと思われる遠距離砲戦で一方的にクロンシュタット級の方が撃破されてしまったらしい。
より強力な主砲に加えて、磐城型戦艦とクロンシュタット級重巡洋艦では戦術上の優位を与えるほどの速度差は存在していなかった。それで安全距離を保った磐城型戦艦にろくな損害を与えられなかったようだった。
バルト海海戦におけるクロンシュタット級重巡洋艦の損害から得られた戦訓は少なくない議論を米海軍内に呼び起こしていた。
クロンシュタット級重巡洋艦よりも装甲厚が薄いという事実は、アラスカ級大型巡洋艦の場合は更に正規の戦艦に対抗するのは難しいと予想されていたのだが、逆に重巡洋艦以下の艦艇には12インチ砲の威力は過剰だった。
こうした悲観的な予想からアラスカ級大型巡洋艦の後続艦艇は純粋な意味では現れそうもなかった。扱いづらい大型巡洋艦という艦種は米海軍にとってアラスカ級が最初で最後のものになるだろう。
対重巡洋艦戦を前提とした戦闘艦としてはデモイン級重巡洋艦があるし、巡洋戦艦的な運用をするのであればコネチカット級戦艦が投入されることになるだろうからだ。
こうして部内では少なくない期待が向けられたコネチカット級戦艦だったが、何も知らない民間人や海軍部内でもモンタナ級戦艦などの実情を知らない将兵からの評判は芳しく無かった。
主砲塔の数ではモンタナ級戦艦の半数に過ぎないという点が不満を持たれているようだ。先程ビール中尉が言ったように、一度巨大なモンタナ級の威容を見てしまっているだけに、バランスの取れたコネチカット級も素人目には迫力が欠けているように感じてしまうのだ。
実際、未だに大型艦に関する報道はモンタナ級戦艦、特に米国の政治的中枢である東部に展開するルイジアナ級に集中しており、最新鋭艦でもコネチカット級に対する関心は低いものであるらしい。
軽巡洋艦バッファローに後続するタラハシーの艦橋で、航海長に操艦を任せて戦艦カンザスの様子を観察していたルメット大佐は密かに溜息をついていた。コネチカット級のことだけではなく、米海軍にとって現在の状況は芳しく無かった。
海軍省勤務を離れてからは政府中枢の状況にも疎くなっていたが、最近は太平洋がかなり騒がしいらしいという話も聞いていた。米領フィリピンの独立運動が再び盛り上がっているというのだ。
前世紀末に合衆国領に編入されたフィリピンは、米比戦争が公式な形で終結した後も反米的な独立運動が盛んであったが、当時の独立派残党は近代的な装備を有する米国陸軍によって徹底的に鎮圧されて治安は回復していた。
ところが、最近になって活動を再開した独立運動があったというのだ。世代的に見て老人となった過去の独立運動家達が再蜂起したとは思えないから、米国の統治下で育っていた世代が主戦力となった独立運動なのだろう。
米国の統治下で広がる豊かな環境を捨ててまで過激な独立運動に身を委ねるフィリピンの若者達が数多く存在していたのは、近隣諸国が続々と独立を果たしていたことに刺激されていたからだと推測されていた。
フィリピンから見ると南シナ海を間に挟んだ隣国と言えるフランス領インドシナは第二次欧州大戦中に早々と自由フランスの手で「解放」されていたし、南西のボルネオ島でもこれまで英国の傀儡であったサラワク王国と英領北ボルネオ領が独自の動きを見せようとしていた。
広大な東インド諸島でもオランダ総督府の統治は形骸化しており、絶大な利益をもたらす資源地帯や戦力の展開が容易な沿岸部こそ維持していてものの、スマトラ北部では再独立を宣言したアチェ王国の鎮圧に失敗しており、周辺諸国の斡旋による講和会議という屈辱的な場で独立の承認を余儀なくされていた。
しかも、オランダ政府はこれまで人質として総督府のあるジャワに留めていたスルタンとか言う原住民の王族を同国に送り返す羽目になっていた。
反乱が頻発していたボルネオ島中央部の蛮族居住地域も、国境紛争の調停の中で住民の総意という名目でサラワク王国に割譲するという先進国にあるまじき醜態を晒していた。
これまで米国はそうしたオランダの醜態を冷ややかな目で見ていたのだが、次第にその独立の火の手はフィリピンも無関係ではなかった。
フィリピンで発生した反乱もこうした近隣諸国の独立運動に乗せられたためかと思われていたが、米国の一部では原住民の反乱の背後には英日が絡んでいるのではないかという声が上がっていた。
今の米海軍にこれに対処する力があるのかどうかはルメット大佐には分からなかった。
モンタナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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コネチカット級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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クロンシュタット級重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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磐城型戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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