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1948バミューダ諸島沖哨戒線1

 バッファロー、タラハシーの2隻の軽巡洋艦の隊列に並進しているはずだった戦艦カンザスの針路は安定していなかった。

 先任艦長が乗り込むバッファローに追随して回頭するタラハシーの艦橋からカンザスの舷側を見つめつつ、険しい表情を浮かべたルメット大佐は艦橋見張員が告げる僚艦との距離が刻々と変わっていくのを聞いていた。

 おそらくカンザスの舵輪を握る操舵員か操艦を行っている航海士がまだ就役したばかりのコネチカット級戦艦の特性を把握していないのだろう。


 ―――公試後を終えた今回の出動が実質的な処女航海とはいえ、すでに3番艦まで就役してあれでは乗員の練度が低すぎるな……

 ルメット大佐はそう考えていたが、流石に口に出しては言えなかった。



 だが、ルメット大佐の密かな配慮など全く無視するように無遠慮な声がタラハシーの艦橋に聞こえていた。

「カンザスは新鋭戦艦だというのに、モンタナ級よりも迫力がありませんね」

 双眼鏡でカンザスを見ながら声を上げたのは航海士のビール中尉だった。ルメット大佐は冷ややかな視線を向けたが、兵学校を卒業したばかりのビール中尉に向かって、副長のフェル中佐が陽気な声をかけていた。


「坊や、確かにコネチカット級戦艦の主砲はたった6門だがな、装甲は厚いし速度は早い。それに重量弾の長砲身砲だから、もっと主砲が多いノースカロライナ級戦艦が相手でも喰えるんだぜ」

 長い海上暮らしで、よく日に焼けた農夫のように厳しい顔つきになっていたフェル中佐は、童顔の新米士官であるビール中尉と並ぶとまるで親子のようだった。そのせいかどことなく微笑ましい雰囲気になっていたが、ルメット大佐は二人から視線を外すとため息を付いていた。


 フェル中佐はうまくごまかしたつもりのようだが、確かに三連装の主砲塔を4基12門も備えたモンタナ級戦艦と比べると、同型の砲塔を前後に1基づつの計6門しか主砲を搭載していないコネチカット級戦艦は素人目には前級よりも大幅に弱体化して見えるのではないか。

 その姿こそがルメット大佐には現在の米海軍戦備の矛盾を一身に背負っているような気がしていた。



 1940年代は海軍に限らずに米国の軍備がもっとも混乱した時期であったと言えるだろう。

 20世紀初頭までに国内の先住民族であるインディアンが起こした反乱の討伐をほぼ終えた米国は、米西戦争に勝利した後は本格的な対外戦争とは無縁で過ごしていた。

 同時期にはハワイ王国におけるクーデター未遂事件も米国系市民によって勃発していたし、それと連動するように米西戦争の結果米領となったフィリピンでも大規模な反乱が勃発していたが、それらにしても近代的な兵器を投入した列強同士の戦闘とはなり得なかった。

 米国資本保護を目的とした中央アメリカに対する軍事介入なども、二線級の海兵隊に任せていたことからも米国全体からすれば片手間の仕事であったと言えるだろう。


 ただし、本格的な戦争を経験していなかったとしても米国の軍備が他国列強と比べてこの半世紀の間著しく遅れていたとは思えなかった。確かに米国は2度の欧州大戦にも参戦せずに中立を保っていたが、観戦武官の派遣や戦訓の調査は行っていたからだ。

 それに軍縮条約の規定に縛られたことで二度の大戦に挟まる戦間期における軍艦の性能は横並びとなっていた筈だから、工業力に優れた米国はむしろ他国に対して優位にあるという認識は米海軍の軍人にとって常識的なものだった。



 むしろここ十年程の間に整備された米軍の装備は科学力や工業力というよりも政治に大きく左右されていたと言えるだろう。

 欧州で再び大戦が勃発したことで海軍の戦備を縛っていた軍縮条約は無効化していたのだが、米海軍では40年代前半は従来の保有枠を大きく越える数の巡洋艦整備に集中して着手していた。

 タラハシーやバッファローを含むクリーブランド級軽巡洋艦や同時期に建造されたボルチモア級重巡洋艦は、どちらも基準排水量で1万トンを越える大型巡洋艦であったにも関わらず両級合わせて50隻を越える膨大な数が僅かな間に就役していた。

 両級は軍縮条約の規定という軛から逃れた事で米海軍が得た理想的な巡洋艦の姿と言えた。打撃力と防御力、速力のバランスが取れた両級は同時期の他国列強が就役させていた同種艦に戦闘力で劣るとは思えないし、その建造数は圧倒的だった。


 もっともこの時期の軍艦建造における合計トン数となると必ずしも米海軍が他国海軍を圧倒していたとは言えなかっただろう。

 米海軍は巡洋艦の建造数こそ多かったが、戦艦はともかく駆逐艦や各種補助艦艇の建造数は著しく少なかった。特に船団護衛用に建造されていた簡易な戦闘艦の類は全く無視されていたといってもよかったのではないか。


 旧大陸で行われた2度の欧州大戦に対して中立を保ったまま新大陸に引きこもっていた米国には船団護衛用の中途半端な艦艇など必要無かったし、逆にソ連向けの船団は航行するだけで危険な北大西洋を通過しなければならないから、小型駆逐艦では船団に随伴するのは難しかった。

 ソ連船団の護衛艦艇には贅沢な事に航洋力に優れる大型の軽巡洋艦などが充当されていた。タラハシー副長のフェル中佐も何度かソ連船団護衛に加わっていたらしい。

 そうした大型艦でなければ東海岸からソ連まで途中寄港無しで船団を送り込むことはできなかったのだ。



 だが、大型巡洋艦の連続建造が行われていた当時海軍省中枢に勤務していたルメット大佐は、そうした実用的な理由だけで巡洋艦の量産が行われていたわけではないことを知っていた。第一ソ連向けの船団が送り込まれるよりも以前から巡洋艦の量産計画は立案されていたのだ。

 確かに新鋭の大型巡洋艦は使い勝手の良い艦艇だったが、米国政府が巡洋艦の大量建造を決意した背景には不況に喘ぐ造船業界を支援する公共事業という側面があったことも無視出来なかった。


 当時のルーズベルト大統領は2期目の後半に入るところだったから、何事もなければ次の大統領選挙の勝者にホワイトハウスを譲って退任していたのではないか。

 ルーズベルト大統領が前任から大統領職をを引き継いだときの最大の課題は世界的な不況に対する経済政策だったが、これに対して大統領は大規模な公共投資を対策として打ち出していた。

 この公共投資は失業率の回復などで一定の成果は得られていたものの、2期目の後半には早くも翳りが見えていた。次の大統領選では共和党が政権に返り咲くのではないかという予想もあったのだ。



 ところが、第二次欧州大戦の勃発は結果的にこうした予想を吹き飛ばしていた。

 開戦当初のポーランド戦に関しては米国の大半は無関心だった。それ以前にドイツ国内でヒトラー総統率いる過激なナチス党が政権を握った時も米国民の関心は国内の不況問題に強く向けられていたのだ。


 だが、流石にごく短時間でフランス本土が陥落した事で、移民国家である米国民の視線も自分達の発祥の地である旧大陸に向かっていた。

 そうした環境の激変をルーズベルト大統領は巧みに利用していた。非常時であることを理由に異例の3選目の出馬に踏み切ると共に、欧州大戦に対応する事を目的としてこれまで国力に対して低い水準であった国防予算の増大を表明していたのだ。

 この時も異論は少なくなかったものの、ルーズベルト大統領の指導力に期待した米国民は3期目の政権を認めていた。おそらく巡洋艦の大量建造が実際に決定したのもその時のことだったのだろう。



 開戦まで米国内の造船業界は不況の波を正面から受けていた。五大湖や東海岸と西海岸を結ぶ国内航路を除くと、米国商船隊が開設している定期航路は中南米諸国やフィリピンと米本土を結ぶ航路位だったからだ。

 大規模な商船隊を保有する大国の船会社は自国の造船業に発注していたから、米国の造船業は開戦直前は仕事量が極端に減っていた。1930年代にルーズベルト政権がソ連との関係改善を急速に進めていたのは輸出入を拡大するためでもあったのではないか。


 放って置いても国内移動という需要が一定量は存在する鉄道、自動車業界と違って、大規模な発注が無ければ仕事量自体が確保できない造船業界は、一方で規模自体が小さかった航空機製造業界などとは異なり、一度活況を呈せば経済に与える影響が大きかった。

 大型艦船の建造は一握りの職人で賄えるようなものではないから、労働者を貪欲に吸収して失業率が低下するはずだし、単純に考えても1万トンの鉄量が動くということは製鉄業から各種造船機器製造会社に至るまで多くの業界に仕事を与えられるはずだった。


 造船業の場合、自社単体で建造する艦船の部品全てを内製する造船所は存在しなかった。そもそも砲熕兵装等の特殊な部品は、国営の工廠など製造されて造船所に支給されるものだったが、それ以外のエンジンや電子機器、配管等も専門の会社が製造したものを購入して取り付ける方が多かった。

 つまり海軍から直接発注されるのは造船所であったとしても、実際には多くの資金が広い範囲に投入されていくことになるのだ。

 しかも重兵装よりも航続距離や居住性を考慮される巡洋艦は、専門性の高い工廠でしか製造できない支給品の比率が比較的低く、それだけ多くの資金が直接民間に流れるという計算だった。



 こうした理屈を海軍軍人全てが理解していたとは思えないが、大戦が終結して正統性を失った軍拡が終わった時点で、結果的に米艦隊の構成が著しくバランスを欠くものとなってしまっていたことは否めなかった。

 50隻もの巡洋艦艦隊が造船業界の景気に与えた影響は確かに大きかった。廃業を免れたどころか規模の拡大を果たして失業者の群れを受け入れていたのは間違いないだろう。


 だが、米海軍の規模は軍艦の整備ほどには進められなかった。議会が海軍定員、というよりも公務員の増員に慎重であったためらしい。

 大型巡洋艦には約千人もの乗員が必要だった。つまり艦隊が増強されたことによる地上部隊の増員などを無視したとしても50隻の巡洋艦を艦隊に編入させるということは、5万人の乗員を新たに訓練しなければならないということなのだ。


 この当時の議会は混沌としていた。二度目の欧州大戦への参戦を巡って激論が繰り広げられていたのだ。結果的に米国は最後まで中立を保っていたが、例えば、開戦初期にドイツ海軍潜水艦隊の攻撃で米国籍船が撃沈されでもしたら、世論に押される形で米国が参戦していた可能性は否定できなかった。

 無制限潜水艦作戦という名に反して、最後までドイツ海軍が強大な米国の参戦を警戒して対ソ船団の襲撃に踏み切れなかったことや、皮肉にも米国商船隊が有する海外通商路の少なさがドイツ潜水艦隊の損害を免れた理由だったのだろう。



 議会の中で党派を問わずに一定数が存在していた参戦に慎重な議員達によって定数増員を制限されていた米海軍は、正直に言えば拡大された艦隊を持て余していた。

 新鋭艦の乗員を捻出するために補助部隊や旧式艦から引き抜かれた将兵は多かったし、それでも乗員の定数を満たした艦は少なかった。実質的に就役と同時に予備役状態だった艦も多かったのではないか。


 勿論、仮に5年前の大戦に米国が参戦を決意していた場合は、即座に予備役の招集や徴兵の拡大が行われていた筈だし、報道次第では愛国心に燃えた志願兵も殺到していただろう。

 だが、結果だけ見れば、当時の米海軍は平時体制のまま大型艦の建造のみが有事体制で進められるというバランスの悪い状態だったのだ。



 皮肉な事に中立を保っていたからこそ、米国は大統領の病死による交代といった困難な政治状況であったにも関わらず、国際連盟とドイツ、ソ連との仲介、和平交渉の仲介人となることが出来たのだろう。

 だが和平をもたらす仲介人となったのは意外な人物だった。

コネチカット級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbconnecticut.html

モンタナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbmontana.html

ノースカロライナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbnorthcarolina.html

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