1947独立戦争謀略戦27
イスラム教の教えでは彼らの聖地であるメッカに巡礼に赴くのはある種の義務であるらしい。少なくとも聖地に行ける立場の者は行かなければならない。その程度の強制力はあったようだ。
だが、砂漠のアラブ人の中で生まれたマイナーな宗教であった時代であれば単に信者たちの結束を高める事になっていたのであろうメッカへの巡礼は、イスラム教が世界的な宗教となってアジアの片隅にまで広がると非現実的な文言となって信者たちを縛っていた。
大洋を越える航海が冒険の旅であった時代は過ぎ去ってはいたが、それでもアジアからメッカのあるアラビア半島までの長旅は誰もが簡単に行けるようなものではなかった。
ましてや異教徒である欧州の白人達に支配されていた植民地時代には、巡礼の旅に出ること自体が難しかったのだろう。宗主国の中にはイスラム教徒に寛容な姿勢を示すために巡礼への制限を行っていない国もあったようだが、植民地の住民が巡礼に出るには資金的にも困難だったはずだ。
独立によってそうした制限はなくなっていたが、それでもメッカへの巡礼が長期間本拠地を留守にする一大事業であることに変わりはなかった。そんな状況にエアアジアの幹部の一人が目をつけていたらしい。
英国は、広大な地域に点在する英国領や未だに英国が影響を及ぼしている旧植民地を経由する長大な空路を運航していたが、エアアジアはこの整備された空路のうち東南アジアからインドを経由して中東に向かう便の支線としてメッカ行の新航路を計画していたのだ。
当初、この空路の開設は困難を極めていたらしい。エアアジア幹部の多くはイスラム教に無知であったし、彼らから相談を受けたマラヤ連邦に住むイスラム教の宗教指導者であるウラマー達は逆に新技術である航空機のことなど全く知らなかった。
数々の困難を乗り越えて開設された後もメッカ巡礼の空路における制限は多かった。メッカに近接する地に空港が急遽整備されたものの、聖地に足を踏み入れてよいのはイスラム教徒だけだった。
更には巡礼の旅に異教徒の操る乗り物で赴くのはいかがなものかという議論もあったらしく、急遽エアアジアではイスラム教徒の搭乗員や乗務員を雇い入れる羽目になっていた。
だが、意外なことに計画時はアジアでも少なくない人口のイスラム教徒住民への歓心を買うため、あるいは単なる思いつきでしか無かった巡礼空路は予想外の結果をもたらしていた。
どこから話を聞きつけてきたのか、マラヤ連邦のみならず周辺各国からイスラム教徒達からの問い合わせが殺到していたのだ。この傾向はアチェ王国の再独立が目の前に迫ったことでマラッカ海峡を越えて広まっていた。
どうやらエアアジアの思惑を越えてイスラム教徒達のメッカ巡礼への思いは強かったらしい。極少数であろうと思った乗客の意外なほどの数の多さにエアアジアは直ちに増便を決断していた。
余剰の輸送機を買い入れると共に、デム曹長達が特殊任務に使用していた機体までもが標準仕様から客席を増設した巡礼空路向けに投入されていたのだ。
高高度飛行用の一〇〇式輸送機に代わってデム曹長達に渡されたのが二式輸送機だった。
会社の経営拡大に伴って購入されたこの機体も、下手をすれば客席を極限まで詰め込んで旅客機に転用されそうだったらしいが、流石に大型の四発機を使いこなせるイスラム教徒の巡礼空路用の搭乗員はいなかった。
当初はイラン王国出身の退役軍人を雇用する計画だったらしいが、イスラム教全体では少数派に当たるシーア派が主流であるイラン王国人の受け入れに難色を示された結果、巡礼空路はイラン人によって教育されたスンナ派の新米搭乗員ばかりという変則的な体制になっているらしい。
それ以前にメッカ近くに設けられた空港の規模は小さかったから大型重爆撃機を原型とする貨物輸送機の運用には無理があったようだ。
―――だからといって何でこの会社はいつも俺たちに無茶苦茶な改造機を渡してくるんだ……
デム曹長はうんざりとした表情で計器盤を見つめながらそう考えていた。
左舷側面から無骨な砲身を突き出した二式貨物輸送機の改造型は、すでに緩やかに左旋回を開始していた。搭載された唯一の武装である高射砲の射界を確保するためだったが、地上に砲口を向けるために機体が左舷側に傾けられた為に右舷の副操縦席からは空ばかりが見えるようになっていた。
これが戦時中のことであればデム曹長も他の乗員も目を皿のようにして周辺空域を警戒していたのだろうが、現在の情勢からしてこの空域に脅威が存在するとは思えなかった。
すでに旧アチェ王国全域からオランダ総督府は軍を引いていた。最近はジャワ島でも反乱の兆しがあるというから、足元で起こった騒ぎに遠隔地のアチェ地方をかまっている余裕がなくなったらしい。
オランダ総督府のことはよく分からないが、現在は環ジャワ海の権益維持に目的を絞っているという噂もあり、スマトラ島に駐留する数少ない部隊はパレンバンなど南スマトラに集中しているのは確かなようだ。
だから、スマトラ島でも中央部の彼我戦力の境界線近くに位置するとは言っても、敵対的な航空機が飛来する可能性は無視しても良いと考えられていた。どのみち襲撃は短時間で終結する予定だった。
すでにジャワ島に逼塞しているであろうオランダ総督府の数少ない戦闘機よりも、地上からの対空砲火の方がまだ危険性が高いのだが、そちらも大きな脅威になるとは思えなかった。追い詰められた抵抗運動の残滓が、低空飛行中の輸送機とは言え地上からまともに対空射撃が出来るとは思えなかったのだ。
―――要するにこの手の機体が得意なのは、単なる弱い者いじめなのではないか……
それが撃ち込まれる方から撃ち込む方に鞍替えしたデム曹長の結論だった。
実はプレー少尉も同じ考えかもしれなかった。最近になって同じ仏頂面でも少尉の声から考えがなんとなくわかるようになってきた気がするのだ。
地上を睨みながら操縦桿を握っていたプレー少尉がリーに言った声は、デム曹長には僅かに緊張したように聞こえていた。
「無線手、妨害電波の発振は開始しているな……」
以前にアチェに降下する部隊から取り残されて、いつの間にかデム曹長達のと同じ組の固有の乗員のようになっているリーは、操縦席直後の無線手席から困ったような顔で言った。
「妨害電波は出てると思うんですがね……急造すぎてこれどのくらい効くのか分からんなぁ……」
頼りない声にデム曹長は眉をしかめながら割って入っていた。
「頼りにならん奴だな。下にいるのはお前の仲間なんだろうが、赤に無線機で助けを呼ばれちゃ困るんだろ。それを防ぐのがお前の仕事だろう」
奇妙なことに、一瞬リーは呆気に取られたような顔になったが、すぐに困った様な顔になっていた。
「いや曹長、俺が言ったのは逆の意味だよ」
今度はデム曹長が怪訝そうな顔になっていたが、リーは曖昧な愛想笑いを浮かべながら情けない声で続けた。
「こいつが引っ張っている妨害装置、電源から回路直結でどれだけ流れてるか分からんのよ。間に計測器を噛ます時間も無かったしな。だから妨害電波が出てるのは確かなんだが、どこまで回路が持つか分からんし、途中で切れないんだわ。発電機を空中で止めるわけにも行かないし、下手するとこの辺だけじゃなくてラジオが雑音だらけかもしれんねぇ」
リーの声に緊張感は無かったが、デム曹長は絶句していた。リーの言うことを信じれば、電波的には真夜中にこの機体だけが電飾を付けて飛び回っている様なものではないか。
流石にそんな不審な電波源が存在する事態になればオランダ総督府も重い腰を上げる可能性もあるだろう。地上戦こそアチェ王国は圧倒していたが、航空戦力には圧倒的に欠けていたからだ。
もしもオランダ総督府にまとまった戦力の地上攻撃機隊でもあればこの紛争もどうなっていたか分からないのだ。貴重な戦闘機隊を派遣してくる可能性はもしかすると意外に高いのかもしれない。
デム曹長はさらに何かを言おうとしたが、それよりも早く後部の砲座に着いて身をかがめながら地上を監視していたシンの声が機内通話装置で聞こえた。
「地上で白煙を確認……目標指定用の擲弾筒です」
眉をしかめながら、デム曹長はリーに顔を向けたまま言った。
「おい、地上部隊とは連絡がとれんのだよな」
「この妨害装置に周波数指定なんて洒落たものはないからな。人間が担いでいける無線機が使いそうな周波数帯は今頃全部雑音しか聞こえんよ。その御蔭で俺も大砲の世話が出来るんだがな」
リーは肩をすくめながら無線手席を離れて器用に機尾に向かって歩いていった。
デム曹長はしばらくリーの後ろ姿を睨みつけていたが、プレー少尉の独り言のような声に視線を前に戻していた。
「あの大砲の射撃は操縦席から可能なんだよな……」
怪訝そうな顔で左舷の機長席の方を見ながらデム曹長はいった。出撃する前に説明は何度も受けていたからだ。
「高射砲の撃発機は電気式になっているから射撃は操縦席から可能になったんだったかな。そもそも後ろの二人は装填作業で一杯だろう。こんなことをこれからも続けるんなら、会社にはクルーの増員をさせなきゃならんな」
プレー少尉はじっと白煙が上がったあたりに視線を向けていたから、今どんな顔をしているのかは右舷の副操縦席に座るデム曹長の位置からはわからなかった。
もしかしたら単なる独り言だったのだろうか、デム曹長がそんな事を考え始めた頃になって小さな声が聞こえた。
「妙なものだ。あの時、パリの裏切り者を撃てなかった時に、これが俺が引き金を引く最後だと思っていたのに……流れ着いたこんなところでまた戦う羽目になるとはな」
プレー少尉の言う事はよく分からなかったが、光の加減か操縦席の窓ガラスに映り始めたプレー少尉の目は苦悩しているように見えていた。彼には先の大戦では何か戦う理由があったのかもしれない
デム曹長は僅かに首を傾げていた。自分の場合も流れ流されてこんな所にたどり着いただけのことだった。仕事が無いからドイツ空軍に志願したのだし、死にたくない一心でここまで生き延びてきただけだ。
だから、デム曹長は何となく思いを口にしただけだった。
「俺たちみたいな兵隊崩れには結局は生き残っている間は戦うしか能がないんじゃないか。だが、あの大戦で生き延びたんだから、俺たちは運が良かったんだろう。これからも賽を振って良い目が出続けることを祈るだけさ」
やはりプレー少尉はすぐには何も返さなかった。それに旋回し続ける事で再び窓ガラスには何も写らなくなっていた。だが、何となく浅黒い肌のうなじを見せるプレー少尉は笑っているような気がした。
「曹長は楽観的だな……」
「こんな会社にいるとな、気楽に構えていなければ生き延びられんよ」
今度こそプレー少尉は何も返さなかった。即席の照準器に向かって集中していたからだ。
しばらくしてから、いつもは雑音だらけの機内通話装置にやけに明瞭にプレー少尉の声が聞こえた。
「射撃を開始する」
そして機内には高射砲が発砲する轟音が鳴り響いていた。
二式貨物輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。
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一〇〇式輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。
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