1947独立戦争謀略戦24
サマラハン農園に築かれた陣地で谷技師に話しかけてくるアチェから来たという傭兵の男は、ムスリムらしい髭面に笑みを浮かべながらやけに馴れ馴れしい態度をとっていた。そういえば最近は忙しくて谷技師も髭を剃る間も無かったから、無精髭で余計にムスリムらしく見えていたかもしれない。
歴史的に東南アジアの中でも初期の段階から中東方面から来た商人を通じてイスラム教を受け入れていたアチェ地方では、周辺地域よりも住民に保守的なムスリムが多いと谷技師は聞いていた。
それに対してサラワク王国があるボルネオ島では、島嶼を伝って東進するイスラム教との接触が遅れていた上に、そもそも広大な島内における交通の便が昔から悪いものだから、ボルネオ島中心部の奥地に住むダヤク族を中心として未だに原始的な宗教が生き残っていた。
沿岸部のマレー人も現地宗教と混合した世俗的な宗派だったから、敬虔なムスリムであるアチェ人からすれば周辺のものに疎外感を覚えるような状況が続いていたのかもしれない。
だから、傍から見れば一人になって熱心にコーランを読み込んでいるように見えた谷技師に過剰に親近感を抱いていたのではないか。
ムスリムの戒律や説法などと言った内容の言葉を放っておけばいつまでも喋り続けそうになっている男を、谷技師は困ったような目で見ていた。話をしている間に男が完全に谷技師のことを誤解していることに気がついていたのだ。
日本人の中でも小柄である上に、幼い頃からマレー半島で居住して現地の習慣が身についていた谷技師のことをマレー人であると完全に男は思い込んでいたのだ。
ほとんど初対面といってもよい男に誤解されたところで大して困りはしないのだが、困ったことに段々と男の声は大きく、過激になっていった。
次第に男は身内のような気安さからか谷技師に向かって周囲に対する不満を口にするようになっていた。敬虔なムスリムからすると、イスラム教の戒律に反して生きる異教徒達の振る舞いが腹立たしく思えるようになっていたらしい。
居心地が悪くなることに、男が非難する対象には日本人も含まれていた。日本人が異教徒の上にサマラハン農園には小さいながらイスラム教の戒律で禁じられた偶像崇拝にしか見えない神社まであるからだろう。
どうやら男には郷に入っては郷に従えという日本の知恵は通じなかったらしい。
だが、男の話を聞いている間に、谷技師は少しばかり疑問を抱き始めていた。異教徒に囲まれることでここまで不満を抱いているのならば、そもそもなぜこの男がムスリム社会であるアチェを抜け出てボルネオ島まで傭兵として来たのかが分からなくなっていたのだ。
アチェ地方では現地の抵抗運動側に有利に戦局が傾いているとはいえ、総督府が現地勢力の独立を許したわけではないはずだった。
周辺地域に義勇兵という形で戦力を派遣して総督府をスマトラ島南東部になんとか押し込めている形で情勢が推移しているというから、戦場に出るにしてもこの男も地元に残っていれば良かったのではないか。
話の切れ目をついて谷技師からそうした指摘を受けた男は、一転して渋い顔になっていた。最初のうちは虐げられたアジア人同胞の支援などと綺麗事を言っていたものの、先程は同じ口からボルネオ島の異教徒達の振る舞いを苦々しく思っていた事が語られていたものだから違和感があった。
そうした矛盾を谷技師に指摘された男は、最後には嫌そうな声で渋々と言った。
「この島には俺自身のジハードを行うために来たのだ」
谷技師はまだ首を傾げていた。ムスリムが言うジハードとは神の道のために奮闘する、そんな意味だったはずだが定義は些か曖昧だった。自らの精神に問う内的な意味もあるからだ。
この状況からすると外的な、つまりムスリムを迫害するものとの戦いといった程度になるはずだが、些かサラワク王国に於ける状況には当てはまらない気がする。
谷技師が次を促すと、男はこれまでの流暢に出ていた言葉が嘘だったかのように訥々とした口調になっていた。
「俺は、まずは生まれ故郷であるアチェから異教徒の中でも悪魔の白人を追い出そうとして組織に入ったのだが、アチェでの戦いそのものが異教徒の中国人が仕切る様になっていた。俺は異教徒に指導される戦いはジハードではないと思って自分で自分のジハードを行うためにアチェを離れたのだ」
「中国人……それはマレー半島から渡った華僑が資金を提供しているということか」
まだ谷技師は怪訝に思っていた。現地化した華人はともかく、マラヤ連邦の華僑の立場はむしろ白人側ではないかと考えていたからだ。実際マレー人主体のマラヤ連邦新政府を嫌って、マレー半島では大物の華僑がその資本を英国直轄の根拠地として残されたシンガポールに移動させていた程だった。
あるいは華僑の中でもアチェの独立で利益を得る者がいるのかと思ったのだが、男の話はそう単純なものではないようだった。
険しい表情を浮かべながら、男は忌々しそうに言った。
「中国人は中国人だ。商売人の華僑、ではないはずだ。あれが商売人などであってたまるものか……
最初にアチェに来たのはムスリムの同胞だった。それは間違いない。シーア派だったが、ムスリムの同胞であることに変わりはない……長老達は客人としてもてなしていたが、正体は俺も知らない」
谷技師は黙って聞きながらも、シーア派という言葉からその客人はイラン王国から来ていたのではないかと考えていた。スンナ派に次ぐとは言え、シーア派はイスラム教徒の全体数からすると僅かな比率にすぎないのだが、イラン王国では他国では珍しく支配者層から一般国民までシーア派が主流だったはずだ。
旧態依然であったパフラヴィー王朝に代わって成立した近代イラン王国は第一次欧州大戦後から近代化を推し進めていたが、世俗化、西欧化する一方で宗教指導者に一定の権威を与える独自路線をも模索している、と日本の新聞報道で見た気がした。
だが、谷技師は男の次の言葉に唖然としていた。
「その客人が仲介して次に傭兵が空から降ってきた。その傭兵というのが例の中国人達だった。中国人は、シーア派の客人とは親しくしていたな……どうも昔からの知り合いだったようだ。
だが、それからのアチェの戦いはムスリムのジハードではなく、中国人が指導する戦いになってしまった」
「その……つまりあんたは外から来た傭兵に戦争を指導されるのが嫌だったのか」
谷技師の指摘に男は仏頂面になっていた。
「あれはムスリムを迫害する白人達へのジハードだったはずだが、中国人達の戦いは全く別のものだ。いや……確かに中国人達が空から降りてきたように、時たまあの飛行機が運んでくる銃や弾には助かったのだが……それを使うことも殆どなかった。
俺は一度だけあの女達の道案内をしたのだが……」
また谷技師は首を傾げていた。どこの軍でも女性の兵士は補助的な任務に限定されて最前線に送っているところはないはずだ。傭兵とは言え前線部隊に女性がいるとは思えなかったのだ。
だが、それで男の忌々しい態度も多少は理解できた気がした。ムスリムでは一般的に男性が外で働き、女性は家庭を守るという認識があった。だからこの男も前線に立つ女という存在が気に入らなかったのではないか。
「俺にはあの中国人達がよく分からん。あのにやにや笑っていた女はヘジャブの代わりに妙な布切れだけ被っていた。俺は、アチェの道案内で呼ばれたはずだったのだが、あの女が率いる部隊は薄汚い模様の服を着て森の中に入ると、地元の俺よりもずっとうまく森に溶け込んでいた。
一度だけあの女が引き金を引く所を見たが、俺はあの女の仲間に無理やり伏せさせられて、口も塞がれた。多分その時の俺は暴れようとしたが、女に顎で使われていたくせにあの女の仲間の力は強く、彼奴等の手から逃れることは出来なかった。
そこで女がどこかに銃口を向けて、これだ」
そう言うと男は手にしていた銃を山に向けて引き金を引くふりをしていた。
「俺には敵なんてどこにも見えなかった。だからその時はあの女が適当なことをしたのだと思っていた。白人共の砦はもっと先にあると思っていたんだが、実は女はその砦にいた白人の親玉を一撃で撃ち抜いていた。
それに輪をかけておかしいのは「先生」と呼ばれていた男だ。普段は眠そうな顔をしているのに、あの男が刀を振るうと簡単に首が飛ぶんだ。あの「先生」が率いる中国人達はアチェにある白人の砦や、最近海峡を渡ってきた共産党の悪魔共の首を次々と刎ねて行った。
そのうち俺達の道案内すら要らなくなっていた。あいつらは地元民の道案内などいらなくとも、次々と海から大砲を打ち込んで海岸の街道を開放して行った。あんな怪物共がいるのでは俺たちが戦う意味は無いんじゃないか。俺にはそう思えてしまった……
それに、他の島のことはよく分からんが、ジャワの方で騒ぎがあったせいで白人共もスマトラでは北東の油田辺りに下がってしまったというから、もうアチェでは戦争はなさそうだ。
白人はまだ他の島では大きな顔をしているらしいし、アチェではもう俺たちが戦う意味はなさそうだからこの島に来たんだが、ここはここで未開の異教徒が大きな顔をしているしな……」
谷技師は苦笑していた。男が言っているのはおそらく最近盛んにサラワク王国内で広まっているという汎ダヤク主義の事だろう。
原住民のダヤク族自身がどう考えているかは分からないが、ボルネオ島中央部に離れて住んでいるダヤク族の総力を結集させて島の外から来た勢力に対抗しようというものらしいのだが、奇妙なことにダヤク族はその象徴、あるいは庇護者としてブルック白人王を担ぎあげようとしていた。
だが、谷技師の反応に気がつくともなく、そこで男は一旦周囲を見回して聞き耳を立てているものがいないことを確認してから続けた。
「実は、この戦いが終わったらこの島のもっと北に行って今度は本当にムスリムの為のジハードに参加してみようと思うのだ」
「ここから北ということは……スールー王国のことを言っているのか」
谷技師は眉を顰めていた。前世紀に滅んだスールー王国は確かにボルネオ島の北部も支配していたが、本土というべき土地は今では米領フィリピンに含まれていた。
男は笑みを見せていた。
「そのとおりだ。そこで白人に抑圧されているムスリム同胞を解放するジハードを行うのだ。実は資金や装備も当てがあるんだ。ここで知り合った日本人が支援を約束してくれたのだ。
いや、異教徒の日本人といっても親切な日本人だ。彼が言うには白人からアジア同胞を解放する手助けをしているらしい。なんだか知らんがアジア主義だとか言っていたな。
なあ、あんたも俺と一緒にスールーに行かないか。白人の戦車を使えるような知恵のあるムスリム同胞は少ないからな……」
谷技師が眉を顰めたままだったのに気がついた男は、慌てて手を振りながら言った。
「勿論あんたが頭で構わない。あんたは俺よりも頭が良さそうだから……」
不安そうな顔をした男を前にして谷技師は考え込んでいた。考えてみれば、自分がここまで流れに流されただけで来ていた気がしていたのだ。
―――自分だけのジハード、か……
谷技師の耳に出発を知らせる声が聞こえていた。呪縛が解かれた様にびくりとした男の肩に谷技師は手を置きながら言った。
「それもこの戦闘が終われば、の話だ。あんたも生き残れよ」
強張った笑みを返した男にそれ以上構わずに、谷技師は二式力作車の車長席に収まっていた。自分の戦争を始める前に死にたくはない。そう谷技師は考えていた。
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