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1947独立戦争謀略戦23

 すっかり戦時中の様相を呈しているサマラハン農園には、次第に得体の知れない人間が多数出入りするようになっていた。

 サラワク王国の奥地を開墾された土地を独占的に保有していたとはいっても、元々この国では珍しい外国資本である日沙商会が保有するサマラハン農園は開園当初は単なるゴム園として経営されていたはずだったが、今では半ば要塞化された戦略拠点と化していた。



 サマラハン農園が変化した切掛は実際には何だったのか、谷技師には未だによく分からなかったが、もしかするとそれは直接的な紛争の発生ではなく、日沙商会がサラワク王室から依頼された主食の米増産計画に伴う農園の大拡張だったのかもしれなかった。

 親会社である鈴木商店が送りつけてきた戦車の様に巨大な工作機械と、これを用いて一挙に拡張された農園の敷地が国境紛争の原因となった難民を引き寄せたのではないかと考えていたのだ。

 実際には二式力作車の納入と難民の来園は同時期に始まっていたのだが、サマラハン農園の拡張によって難民の来訪数が増大していったような気がするのは確かだった。



 だが、折角多大な工数をかけて拡張されていた農園の田圃も今は放置されていた。今頃は水を張って田植えが行われるはずだった田圃の中は、大規模な築城工事で踏み荒らされて無粋な戦車壕や歩兵部隊を収容する射撃壕がいくつも構築されていた。

 同時に田圃の周辺に広がっていた原生林も射界を確保するために大規模な伐採が行われて光景が一変していた。

 戦車壕に入って国境線の向こうを睨んでいるのも、初期に搬入された輸出用軽戦車だけではなかった。戦車壕の幾つかには、中古の英国製歩兵戦車が待機していたのだ。


 その英国製戦車の名前が御大層にも当時の首相であったチャーチルということは谷技師も聞いていた。報道写真で見たチャーチル首相と同じように肥えた車体はじれったくなる程鈍重な動きであったが、足回りに工夫がしているらしく走破性は高いらしい。

 ただしチャーチル戦車の火力はさほど高くは無かった。四九式軽戦車を遥かに越える全長と倍以上の重量を持つ巨体であるにも関わらず、搭載する備砲はずっと小さな砲だったからだ。


 実際にはチャーチル戦車の主砲は二式力作車の原型となった一式中戦車が搭載したものとほぼ同級となる高初速の対戦車砲だというが、巨大な車体に搭載するには砲塔は小さく、そこからひょろ長い砲身が突き出しているものだから迫力には欠けていた。

 生産された型式の中には、四九式軽戦車の主砲と同型の野砲弾道の砲を搭載したものもあるというが、サラワク王国に輸出されていたのは保管されていた初期に生産されていたものであったらしい。


 チャーチル歩兵戦車は戦車戦闘における機動性を最高速度や軽量化による交通網への負担軽減といった方向から追求するのではなく、歩兵が行けるところであれば何処でも行けるという地形追随性の面を重要視して歩兵の盾となる事を想定した戦車なのだろう。

 詳しい話は知らないが、英国軍では後継の黒太子だかエドワードだかいう新型歩兵戦車の配備が進んでいるというから、保管品の中でも余剰となった旧式分がサラワク王国に輸出された形で回ってきたらしい。


 あるいは、これから先に向かう箇所では二式力作車や四九式軽戦車よりも走破性の高いチャーチル戦車の方が向いているのかもしれなかった。

 実戦においては二式力作車が道なき道を構築した先で、四九式軽戦車の大口径榴弾砲の支援を受けながら、歩兵を引き連れたチャーチル戦車が突撃するという形になるのだろう。

 谷技師は、うんざりしながらこれから二式力作車の車長として自分も向かうことになっている山岳地帯を遠望していた。



 逆進攻という言葉が囁かれ始めてからさほど経ってはいなかったが、早手回しで攻勢の準備が整えられていった。

 国籍もばらばらにかき集められた雑多な車種ながらも中隊規模の機甲部隊が編成されていたし、これに追随する歩兵部隊も難民達からの志願者を含めて結構な数が訓練を終えて出撃拠点となるサマラハン農園に集結していた。


 このような大部隊を支援するために、後方支援に必要な補給路の準備なども戦力の集結と同時に整えられていた。サマラハン農園に付随していた桟橋が大拡張されていたのだ。

 上流にあるためにサラワク川が乾季で干上がっているときには使えなくなるような気がするのだが、もはや単一の桟橋というよりも河川港とでも言うべき規模に拡張されていた施設は、従来の大発よりも格段に大きくチャーチル戦車でも楽々と輸送出来る特型大発まで運用出来るものになっていた。

 この桟橋を維持するために、河川で用いるために小型の船体の割に大馬力エンジンを搭載した曳船や、浚渫工事用の作業船まで新たに回航されてサマラハン農園付とされていたのだ。



 こうした拡張工事の多くにも二式力作車が投入されていた。主に使用される機材は車体前部の排土板だったから、納入時に追加されていた本来サマラハン農園で活躍するはずだったトラクター用の農機具取り付け用の装具は大半が見向きもされなくなっていた。

 誰だかわからない上層部によれば、元々戦車回収用の車両である二式力作車ではなく、土工作業用のバックホーや多彩な機材を備えた工兵用の作業車を投入するという案もあったらしいが、サラワク王国軍が装備するには高度すぎる機材と判断されて実現しなかったらしい。

 その代わりに本来は日沙商会の所有物であるはずの二式力作車が逆進攻作戦に投入されることになっていたらしいのだが、そうした決定を陣地拡張工事にかかりきりになっていた谷技師が知ったのは作戦開始直前になってからのことだった。


 本人はあずかり知らないことだったのだが、谷技師はいつの間にか志願した外国人部隊の士官待遇軍属ということになってしまっていた。

 日本軍では徴兵検査で撥ねられていたような谷技師が士官待遇と言うのは奇妙な話だったが、たった一両しかない工兵用の重車両である二式力作車の車長としては一定の指揮権が必要であったらしい。


 実際には単なる社命だった。今回の作戦に関してはサラワク王国政府もかなりの期待を掛けているようだった。そうでなければブルック王家の皇太子を名目上とはいえ総指揮官になどしないだろう。

 サラワク王国は現地民保護の観点から外国資本の導入には消極的だったが、その数少ない例外である日沙商会としては王国と一蓮托生でついていくしかないと社の上層部は判断していたのだろう。



 そもそも逆進攻という作戦の目的自体からして怪しげなものがあった。昨今サラワク王国は、周辺の旧植民地と足並みを揃えるように英国本国から数々の権限を譲渡された事で保護国から独自の外交権を有する独立国と認められていたが、その外交方針に英国が関与してくるのは避けられなかった。

 最近のサラワク王国は英国本国よりもむしろ近隣の大国である日本帝国と関係を深めていたが、サマラハン農園に集結した重車両がいずれも日英製ということを考慮すると、オランダ領への進攻を決意したサラワク王国の背後に両国が控えているのは明らかだった。


 作戦開始に先立って、オランダ領東インド諸島総督府からの難民返還要求の返答として、毅然とした態度で逆に原住民の保護をブルック王は訴えたらしい。ボルネオ島東部で虐げられている先住民であるダヤク族の解放をブルック王は要求したというのだ。

 案外ブルック王は真面目に原住民の保護を考えていたのかもしれないが、背後にある日本や英国の思惑はよく分からなかった。オランダ本国の意向を受けた総督府も強硬姿勢を崩さなかったから、難民の流入は国境紛争へと一気に激化していた。



 ボルネオ島に限らずにオランダ領東インド諸島の動乱は本格化していた。以前から反乱が頻発していたスマトラ島北部のアチェ地方では旧アチェ王国軍系の抵抗運動が主導する形で本格的な紛争状態に突入していた。

 周辺諸国や、アチェ地方とマラヤ連邦間に広がるマラッカ海峡を通商路として使用する日英などは以前から紛争の本格化に懸念を表明していたが、オランダ政府は抵抗運動に対して強圧的な態度を崩さなかった。


 ところが、現状においては総督府でこれに対応すべき兵力は限られていた。東インド諸島に回航されたばかりの戦艦を大破させられたことで、現地軍の大半は爆破テロの犯行声明を出していた共産党系武装組織の摘発に投入されていたからだ。

 アチェ地方に派遣されていた現地軍の主力は外国人の傭兵部隊であったらしいが、その中に含まれていたドイツ人の逃亡戦犯が次々と拘束されたことで組織は弱体化して、今はスマトラ島南部油田地帯の防備を固めるのに手一杯だという噂もあった。


 しばらく前にマラヤ連邦に里帰りしていた谷技師が聞いていた現地の話とは早くも状況が大きく変わっているらしいが、話自体は確かなものだった。

 谷技師のように社命で送り込まれたものとは別に、サラワク王国は現地ダヤク族難民出身の兵に加えて外人部隊まで募集していたのだが、その中にはアチェから来たものも含まれていたからだ。



 ある意味で谷技師がアチェから来たという男と知り合ったのは必然的なことだったのかもしれなかった。

 その時、谷技師は出動準備を進める二式力作車の傍らでコーランを読みふけっていたが、そのコーランは谷技師の持ち物ではなく、兵士の誰かが壕の中に忘れていったもののようだった。

 塹壕の拡張工事中に偶々忘れ物を見つけた谷技師は、久々にコーランをめくっていたのだ。


 ページを開いた痕はあるのだが、あまり年季の入ったものでは無かった。最近は晴天の日が続いて乾燥していたせいなのか、塹壕の底に落ちていた割には汚れも少なかった。

 出版されたコーランの中には凝った装幀の絢爛なものも少なくないが、谷技師が拾ったものは表紙も質素で安価な代物と一目で分かる代物だった。元の持ち主はサラワク王国沿岸部かマラヤ連邦辺りから来たさほど敬虔なムスリムではないのだろう。

 その辺りのムスリムは厳格には戒律を守らない世俗化したものが多かったからだが、そもそも熱心にコーランを読んでいるのならば落としたりしないだろう。



 尤も谷技師も人のことはあまり言えなかった。谷技師もムスリムではあったが、やはり敬虔な信者とは言えなかったからだ。ムスリムとしては2代目だったが、父親が改宗したのも単にマレー半島に移住した際に商売に有利だからと判断しただけのことだったらしい。

 元々は谷家も日本にいた頃は先祖代々の仏教徒だったから、マレー半島に移住しても家の中には先祖の位牌まであったのだが、近所のものも日本から持ち込んだ位牌に物珍しそうな顔を向けただけだった。


 第一、マレー半島の付け根に当たるタイ王国まで北上すると仏教徒のほうが多いし、地方によって宗教がきれいに入れ替わるわけではないから、マレー半島の宗教はモザイク状に散らばっていた。宗教を問わずに厳格に戒律を守るもののほうが少なかったのではないか。

 谷技師が子供の頃を思い出しても、マレー人に混じって華僑や現地化した華人など多くの人種が混在していたような気がする。一緒に遊んだ友人たちもマレー人だけではなかった。



 日沙商会に雇われてサマラハン農園で働くようになってからは谷技師も更にコーランをめくる事も少なくなっていたのだが、この混迷した事態に何か自分でも気が付かないうちに救いを求める気持ちでもあったのか、自然とコーランを読みふけっていた。

 その男から声をかけられたのはそんな時の事だった。


「やはりあんたもムスリム同胞だったのか。マレー人が戦車を乗り回すとは思えなかったのだが、ずっと不思議に思っていたのだ」


 酷い訛りのある声だった。男が言ったことの意味がわからずに谷技師は眉をしかめて顔を上げていた。そこにいた男はアチェから来たという傭兵だった。

二式力作車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/02arv.html

四九式軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/48apc.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

大発動艇の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lvl.html

三式装甲作業車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03cve.html

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