1947独立戦争謀略戦22
長身で頬に特徴的な傷を持つ独房の主は、囚人とは一見思えない煙草を片手にした堂々とした態度でドイツ語で書かれた本を読みふけっていた。囚人からの要望で差し入れられたのは、数多くのドイツ国内で出版されたばかりだった。
しかし、ドイツ国内の戦後も物資が乏しい中で行われている出版事情を反映してページ数はさほど多くはないものばかりだったから、冊数の割にはうず高く積み上がるといったほどではなかった。
気配を察したのか、囚人の男は顔を上げて鉄格子の先で立ち止まった相手を確認すると、一気にふてぶてしく破顔していた。
「お久しぶりですな閣下。いや、今でも閣下なのですかな」
屈託の無い囚人の男の様子に、一瞬シェレンベルクは戦時中に時間が巻き戻されていたような感覚を覚えたが、男が手にした本、というよりも冊子の表紙に目を向けながら言った。
「その本は面白いかね」
質問を質問で返された形だったが、男は笑みを絶やさなかった。尤もその笑みには些か皮肉げな成分が付け加えられたようにシェレンベルクは感じていた。
男が要望したのは、最近ドイツ国内で盛んに出版されている東部戦線に従軍した退役将官や参謀達の回顧録だった。戦時中は大軍を率いてソ連軍と対峙していた並み居る将星達が綴った文章の中に、乱雑に読みかけのものを放り込むと男は楽しそうな声で言った。
「面白くはありませんが、興味深くはありますよ。流石に格式高いプロイセン軍人が書くだけはあって、我が誇り高きドイツ将校団の潔癖なる事がどれも高らかに謳われている。
これを読んでいると、東部戦線で自分達も十分にユダヤ人やポルシェヴィキの血で手を汚したユンカー達のモラルが透けて見えるようです。彼らは皆自分達の都合の悪いことは全く触れずに、この本だけ見ればまるで戦争をスポーツやゲームのように捉えているようですからな。
その点では私も人のことは言えませんが、少なくとも私には自分の手が薄汚れているという自覚はありますよ」
男は久々に喋るのか楽しそうに無造作に引き抜いた本を並べながら続けた。
「将来的にはこんなものは自己弁護の教科書としてでも使用すればよろしいでしょうな。ただし、エリートのプロイセン軍人であっても錯誤は存在する。
これらの文章をまとめて添削するものがいなかったものだから、一冊一冊であればうまく纏まっているように見える文章も、こうして並べてみると相互に矛盾が生じる。
それ以前に幾つかの本で見つけたのですがね、前線部隊を率いて戦っていた将軍や参謀が何故国防軍最高司令部内で密かに行われた総統とカイテル将軍の会話をその場にいたように書けるものやら……
彼らをまとめて戦前に軍から追い払って空想を書き連ねる小説家にしていれば大成したのではないかとも思えますよ。
ま、こんな本を出すのもしょうがないでしょうな。親衛隊の私ほどでは無いにせよ、現役のグデーリアンやマンシュタイン御大はともかく、軍を首になった将軍達はいろいろな意味で、生き残るのに必死でしょうからね。
それで……肝心のドイツ国内での反響はどうなのですかね。売れているのですかなこれらは」
シェレンベルクは興味なさげに男が示した本の表紙を一瞥して言った。
「将軍達が考えている程にはドイツ人から彼ら軍人に対する敬意が失われているわけではないと言えるだろう。今のドイツをドイツ足らしめているのは旧国防軍から実質的に地続きの軍事力しかないのだからね。
周辺諸国の国民からすれば複雑な思いなのだろうが、ソ連に対する防波堤となっているからこそ今のドイツという国は存続を許されて外国から支援を受ける事が出来ているのは間違いないだろう。
しかし……その支援も実際には軍隊を維持するのに大部分が消費されてしまうから、今のドイツ国内ではそんな薄い本一冊でも貧困層の国民に与えたところで有難がって読むよりも焚付にでも使ってしまうのではないかな。
むしろ外国、旧敵国の国際連盟軍の方が大口の購入先となっているようだ。彼らにしてみれば、貴重とも言える戦時中の敵側から見た風景と東部戦線の資料なのだからな。少なくとも将軍達が糊口を凌ぐ程度にはなっているのだろう」
「資料、ね。まさか彼らまでこのおとぎ話を信じているわけではありますまいな。これは言ってしまえば自分達を高く売りつけたい将軍たちの宣伝本ですぞ」
囚人の男は、複雑そうな思案顔になって冊子の束に手をやっていた。シェレンベルクも苦笑していた。
「宣伝、ということならば正直なところうまく行っていないのではないかな。君が言うほどには旧国防軍を称賛する美文にはなっていない気がする。彼らは軍事の専門家であり戦史にも詳しいが、文章が硬すぎる。
詳しくは知らないが、停戦前から著名な英国の軍事報道家もドイツ軍の将軍達に接触を図っていたらしいが、例の特使を狙ったパリの爆破テロに遭遇して死亡していたらしい。君の言う通りに添削するものや英国の文筆家がいればもっと巧みに宣伝がされていたかもしれんがね。
……だが、将軍達の著作の良し悪しがどうであれ、国際連盟軍としても我がドイツ国防軍やこれを改変した連邦軍の戦力をあてにしているのは間違いない。占領されたドイツ北東部に展開するソ連軍に欧州正面で対抗するためには、ドイツが保有する兵士の数を彼らも無視できないからな。
流石に戦時中のような根こそぎ動員を続ける事は労働力の限界から出来ないし、緊張感はあっても一応は平時ということであれば軍団以上の中間結節点となる司令部は不要であるから、高級取りの将官や参謀の数はだいぶ減って、そうして著作家に転身しているのだがね」
興味深げにシェレンベルクの話を聞いていた男は、更に皮肉気な表情になっていた。
「一つ確認したいのですがね。そのドイツ北東部に展開するというソ連軍の数を数えたのは誰なんですかね。本当にドイツ国防軍が宣伝通りに精強で活躍したのであれば、大戦中にソ連軍に生じた損害は膨大なものになるはずだ。
果たして我々同様に平時編成になったソ連軍は戦時中にドイツ軍を圧倒したという数の力を維持していけるんですかな。もしかして、貴方の今の上司である提督は数を盛って……」
「仮定の質問には答えられない。だが、ドイツ国家と民族を存続させる為には、情報の統制が必要であるとは言える」
シェレンベルクは機先を制するように冷ややかな表情で言ったが、鉄格子の向こうの男の視線は鋭くなっていた。
「ドイツ国家の存続ですか。それが貴方がこんな所で同胞を狩り立てている理由ということですか。国家を守るために民族の一部を排除するとは矛盾している。
親衛隊の貴方も分かっているはずだ。戦犯として追われている武装親衛隊と、将軍達がこうして持ち上げている国防軍に違いなんてものは無い。単に自分だけは潔癖でいたい国防軍自身と、その戦力を利用したい国際連盟軍の都合が合致しただけのことだ。
結局、我々武装親衛隊は国防軍を生かすための生贄の羊に選ばれたのではないか。その点をあなた方はどう考えているのです」
男の顔には視線だけで人を殺せそうな程の迫力があったが、シェレンベルクは顔色一つ変えなかった。
「君の言うとおりだ。我々は国際連盟軍の思惑に乗じてドイツを彼らの傭兵として生き長らえさせる道を選んだのだ。
……正直に言えば、私は君は南米にでも自由を求めて逃れたのではないかと思っていた。共産主義者が集結していたこの東インド諸島に潜んでいたのが運の尽きだよ。
君達は知らないかもしれないが、この東インド諸島は今注目の的なんだ。こんなところで旧武装親衛隊に暴れられて目立たれると本土に残されたドイツ人に迷惑がかかるんだよ。
それに、君が拘束された事を知った幾つかの国が早くも君の身柄引き渡しを求めて来ている。君が率いた第502親衛隊猟兵大隊の戦時中の行動は、純軍事的なものとはいえないからな。
特に前国王の件でイタリア王国は君の首に懸賞金をかけている程だから、オランダ政府も彼らの相手で迷惑しているようだ」
苛立たしげに男は腕を組んでいた。
「その大隊の支援をしていたのは誰でしたかね、閣下。正直に言えば、私一人ならばどうとでもなったのですがね。イタリア国王の件はそもそも貴方も知っての通り元々の計画ではなかった。
ほとぼりを冷ますために大隊が東部戦線に派遣されたのが運の尽きだった。部下を引き連れて遥か南米まで逃れるのは出来ないから、一般部隊に紛れて行動して流れ着いた先がここだったというだけですよ」
シェレンベルクはじっと男の顔を鉄格子越しに見つめていた。
「部下か……それが君が大人しく掴まった理由かね。容貌魁偉の目立つ君が捕まっている間に部下を何処かに逃すと……だが、日本人の憲兵も無能ではない。君の部下の大半も既に拘束されているぞ」
男は押し黙ったままシェレンベルクの顔を見つめていた。シェレンベルクの言葉の真贋を推し測っている様な態度だったが、泰然自若としたシェレンベルクの表情は読みきれない様子だった。
そこへシェレンベルクは同情するような笑みを見せていた。
「実は表向き私はこの島に来ていないことになっていてね。そもそも今の身分は戦時中から書き換えられたものだから、書類上は君とは縁がないことになる。だが、君がイタリアに囚人として渡って色々と法廷で証言されると困る立場の者が多くてね」
暗殺でも警戒したのか、男のふてぶてしい態度が一瞬揺らいで見えたが、それに気が付かなかったかのようにシェレンベルクは淡々とした調子で続けた。
「君が望むのであれば、私の権限で君の部下をこの国から逃してやることは可能だ」
「その代わり、戦犯として法廷では証言するなと……それを貴方がどうやって保証するのです
男の問にシェレンベルクは笑みを張り付かせたままいった。
「それは君と私の仲を信頼してもらうしかないな」
全く安心できそうもない台詞に男も思わずといった様子で笑いかけたが、シェレンベルクは不意に視線を周囲に走らせると盗聴を恐れるように鉄格子に一歩近づいて表情を消し去ると続けていた。
「実は、私はまだ提督も知らない切り札を持っている。ラマース文章のオリジナルだ。提督は手元の書類が本物だと勘違いしているが、あれは私が作成した写しの方なのだ」
それを聞いても男の反応は鈍かった。シェレンベルクは苛立たしげに続けていった。
「やはり君も知らなかったのだな。今も国際連盟の手で監視されているラマース官房長官は、ヒトラー総統が気前よく将軍達などに渡していた下賜金の詳細を記載した書類を作成していたのだ」
それを聞いて、男は困惑した表情になっていた。
「将軍達に下賜金ですか。つまり彼らは買収されていたと……」
シェレンベルクは鋭い視線を男の目の前に積まれた冊子に向けていた。
「まさか、君までヒトラー総統の魔力に並み居る将軍達が皆惹き込まれていたと信じている訳ではないだろう。これが明るみに出れば一大スキャンダルとなるのだが、いま公となれば軍の存在によってかろうじて存在しているドイツそのものが崩壊してしまうのだ。
これを公開するタイミングは慎重に図らねばならないのだが、少なくとも私が死んだ時は然るべきものに渡されるように手は打ってある。だが、それは今ではない……
私が君が罵った潔癖を装っているプロイセン騎士のような将軍達を引き吊り降ろしてやるというのを、先に地獄に行って待ってくれないか」
唖然としてシェレンベルクの言うことを聞いていた男は、しばらくしてから堰を切ったように大声で笑い転げていた。
「久々に馬鹿馬鹿しい話を聞いたような気がしますよ閣下。よろしい、よろしい、地獄では先に行った私が貴方の上官になるのだ。今のうちに貴方に恩を売っておきましょう……それでは次はもっと分厚い本を差し入れて下さいますかな」
「心得た」
短く言うと、早くもシェレンベルクは鉄格子に背を向けていた。
差出人不明の差し入れの中に隠されていた拳銃で男が自決したのはそれからしばらくのことだった。




