1947独立戦争謀略戦20
日本軍統合憲兵隊所属という肩書の客人にフェルゼン大佐は胡散臭そうな目を向けていた。市川中佐と名乗った客人は、如何にも貧相な体格で眼鏡を掛けた典型的なアジア人に見えていたのだが、逆にどこにでもいそうなその姿がフェルゼン大佐に警戒心を強めさせていた。
案内してきたオランダ人の司令部付き下士官は、客人の冴えない容貌に侮ったような顔を向けていたのだが、フェルゼン大佐は安っぽい背広の下に市川中佐のしなやかな筋肉が隠されてるのを見逃さなかった。
パタヴィアに総司令部を置く東インド諸島駐留オランダ軍の情報担当参謀であるフェルゼン大佐は、ここしばらく多忙を極めていた。東インド諸島の広い範囲で次々と反乱が勃発していたからだ。
雑多で無計画な先住民達の反乱はその度に機動力と火力に勝る治安部隊によって鎮圧されていたが、逆に言えば無秩序に発生する分だけ対応が難しい面もあった。
治安部隊の兵力が限られているものだから、反乱部隊を撃破することは可能でもその後の長期間の治安維持が難しく、特定地域の治安が回復する前に別の箇所で別の組織が起こした反乱が起こってしまうのだ。
いっそ反乱者共をどこか都合の良い箇所に集結させて一網打尽にすれば良いのではないか、そんな威勢のいいことをいう参謀も少なくなかった。烏合の衆である独立派がいくら集まったところで正規軍の統率と火力があれば殲滅は難しくないと判断しているのだろう。
むしろ難しいのは独立派の反乱部隊を殲滅するよりも、それ以前の独立派をおびき寄せる過程にあるのではないか。
正規軍を相手にするように偽電を発振したところで近代装備を持たない反乱部隊が受信しなければ何の意味もないし、新聞などに総督府が発信した偽情報を載せたとしても識字率の低い先住民達に広まるとは思えなかった。
フェルゼン大佐は、若手の参謀達が唱える積極論には首肯しかねていた。彼らの中には自分たちの手で独立派を煽るか、意のままに操る偽の独立指導者を擁立することまで策謀するものもいたが、実際に成功するかどうかは分からなかった。
第一、東インド諸島の情勢からすると、支持基盤や目指す理想が大きく異る雑多な独立勢力を束ねられるほどの指導者を擁立するのは不可能ではないか。
インド連邦共和国で長い間粘り強く独立運動に取り組んでいたガンディー老人のような多数の派閥から一定の支持を受けるような卓越した指導者は東インド諸島にはいなかったし、そんな人物を捏造しようとしても思想面などで矛盾が生じるだけだろう。
それ以前に、フェルゼン大佐は、治安部隊にそのような赫々たる戦果を上げさせて良いものかどうかとも考えていた。
現在の東インド諸島の中で比較的治安が安定しているのはジャワ島位のものだった。ジャワ島には東インド諸島を治める総督府とこれを護衛するオランダ正規軍がバタヴィアに配置されていたからだ。
オランダ領東インド諸島には古くから開発が進められて人口も多いジャワ島以外にも多くの島嶼が存在していたが、各島で頻発する反乱を鎮圧して回っているのはドイツ人傭兵隊だった。
実のところ法的には彼らは傭兵ではなかった。他国に対してはオランダ政府が東インド諸島への移住を許可したドイツ人難民が組織した自警団という建前になっていた。
戦前からの自国領である北ドイツを含むドイツ民族居住地から追放されて難民化した民族ドイツ人は何万といるから、移住者の兵役経験者から志願者を募れば大規模な自警団を構築することは難しくなかった。
だが、実際には因果が逆転していた。難民たちが自警団を編成したというよりも、最初からオランダ本国政府は東インド諸島駐留軍の補助部隊を編成する為に、密かにドイツ人難民の中から集めていた戦力となる従軍経験者とその家族で移民を選抜して東インド諸島に送り込んでいたのだ。
法的には単なる自警団扱いながらも、彼らが言うところの東部戦線帰りとなる実戦経験者ばかりで編成された部隊は精強だった。車両や重装備こそ乏しいものの、練度の高いドイツ人兵士達はオランダ軍の手で各地を転戦して雑多な先住民達の独立派を次々と撃破していた。
むしろフェルゼン大佐は最近はドイツ人自警団の戦果を背景にした政治的発言力の増大を懸念していた。ドイツ人部隊に随伴するオランダ人官僚からは、彼らの行き過ぎた原住民に対する弾圧によって生産性はむしろ低下しているのではないかという報告が上がってきている程だった。
そのような懸念があってもドイツ人自警団の解散は勿論、規模の縮小すら難しかった。それだけ最近は反乱行動が頻発化していたのだ。
流石のドイツ人自警団も頻発するアチェの独立運動には手を焼いて主力部隊をスマトラ島北部に集結させていた。スマトラ島北部に存在していたアチェ王国は最後までオランダの支配に抵抗していた地であったから、独立運動も先鋭化しているのだろう。
東インド諸島に駐留する将兵の数では既にドイツ人自警団はオランダ正規軍を圧倒していた。オランダ人だけで統治を行っているのは実質的には治安が安定しているジャワ島だけと言っても過言ではないのではないか。
今は共産主義者が関与しているという噂まである大規模な反乱を討伐する為にドイツ人自警団の主力はアチェに派遣されていたが、仮に彼らが反乱を起こしてジャワ島に上陸したとしても、重火器を装備していても実戦経験が少ないオランダ正規軍だけでは対抗出来ない可能性まで懸念されていたほどなのだ。
先の大戦中に本国から東インド諸島に逃れてきた王室や政府関係機関が去った今では駐留正規軍の規模は縮小され続けていたからだった。
フェルゼン大佐は、強大になりすぎたドイツ人自警団との戦力バランスを保つために、再三に渡って東インド諸島に対する追加兵力の派遣を本国に要請していたのだが、本土の再建に膨大な予算を投入しなければならない本国政府は、陸軍部隊の派遣に慎重な態度を示し続けていた。
本国政府は原住民の反乱などでオランダ人が戦死することを極端に恐れていた。大戦終結後の荒んだ本土の世論が植民地統治の失敗を意味するオランダ将兵の損害を受けて反政府運動に繋がるのを恐れているのではないか。
ドイツ人難民達が自発的に編成した自警団の損害などが新聞などで報じられる事は抑えられるが、オランダ人の損害は隠す事が出来なかった。オランダ人が犠牲になるくらいであれば、多少極東でドイツ人に大きな顔をされる位は許容範囲とでも考えていたのだろう。
最近になってようやく本国も重い腰を上げて戦力を派遣していたのだが、それでもオランダ人部隊が大挙して送られてきたわけではなかった。
ある意味においてこれは発想の転換だった。要は反乱部隊からは手の届かない、つまりオランダ人が犠牲とならない戦力があればよいのだ。本国では都合の良いことにそう考えていたのではないか。
政府方針に従って新たにバタヴィアに派遣されてきたのは、最近になって再編成された海軍東インド諸島駐留艦隊だった。
元々オランダ海軍は本国よりも富の源泉である植民地の防衛に戦力を割く方針を取っていたのだが、英国から購入した戦艦を含む強大な艦隊が今回派遣されてきたのだ。
戦時中は、東インド諸島にも本国から脱出してきた艦隊主力が駐留していたのだが、強大な日本海軍の影に隠れた当時のオランダ海軍の活動はインド洋の護衛、警戒任務に限られた低調なものだった。
しかも本土を早々に失ったことで自国製兵装の整備もままならない環境が続いていたから、実質的に主力となっていたのは植民地の資源と引き換えに貸与された艦艇ばかりだった。
そんな艦艇でも貴重なものであったから、損耗を恐れたオランダ海軍は南アフリカから西に出て北大西洋で行動するのを避けていたのだ。
戦前には東インド諸島に巡洋戦艦扱いの中型戦艦を配備する計画もあったのだが、発注先がドイツであったから当然の様に計画ごと早い段階で実現性は無くなっていた。
戦後も軽巡洋艦を旗艦とする小規模なものに留まっていた東インド諸島駐留艦隊だったが、ある意味では戦後の方が活動は活発になっていたかもしれなかった。ドイツ人自警団を輸送する際の護衛や艦砲射撃と言った戦闘的な任務に従事していたからだ。
だが、本国からの増援は駐留艦隊を抜本的に強化する筈だった。戦前に計画されていた巡洋戦艦などよりもずっと強力な本物の戦艦が含まれていたからだ。
新造する予定だった戦前の巡洋戦艦案とは異なり、新たに配備された戦艦デ・ロイテルは中古艦だった。その前身は英国海軍から除籍されたクイーン・エリザベス級戦艦のネームシップだったからだ。
英国も財政事情が厳しいのか、終戦後に余剰となった戦艦や空母を各国にばら撒いていた。フェルゼン大佐も報道されている以上の事は知らないが、南米では米英伊などから気前よく大型艦が新造中古を問わずに輸出された事で俄に軍拡競争が激しさを増しているらしい。
速力の点ではかつての巡洋戦艦案よりもデ・ロイテルの方が低かったが、排水量は同等で機関が占める重量がより小さいということは、単純に考えても火力や防御力の点では上回っているらしい。
旧式化したとはいえ38センチ主砲は未だに侮れない威力を誇っていたし、それに耐えうる装甲も東南アジアで破れる物があるとは思えなかった。
それに大小様々な島が散らばる複雑な地形が連続する東インド諸島周辺海域では、高速の巡洋戦艦よりも実際には速力よりも火力と装甲に優れたデ・ロイテルの方が使い道があるのではないか。
尤も性能表に記載された数値は立派なものであっても、戦艦デ・ロイテルがどの程度の期間戦力になるかは分からなかった。原型となったクイーン・エリザベス級戦艦は第一欧州大戦にも参戦した古参艦だったからだ。
売却前に英国で再整備はされているはずだし、ある程度は新鋭装備も施されているらしいが、補修工事にも限度があるはずだった。
それ以前にオランダによって整備されているとはいえ、東インド諸島行政の中心地であるバタヴィアにも200メートル級の大型艦を整備する機能は無かった。
戦前の巡洋戦艦案が実施されていれば、今頃はバタヴィア周辺にも修理用ドックを含む施設が増強されていたかもしれないが、現在は桟橋に係留した状態で整備が不可能だった場合は、戦艦デ・ロイテルを東インド諸島で修理することは不可能だったのだ。
信じがたい事に旧植民地の新独立国にまで英海軍は旧式戦艦を押し付けるように売却しているらしいが、大戦中も中東戦線の後方根拠地として大規模な造船所が整備されたインド辺りはともかく、東南アジア諸国はオランダ海軍のデ・ロイテルを含めて本格的な整備を行うには英領シンガポールに回航するしかなかった。
英国としては、安価に主力艦を売却して新興国家に恩も売りながら、同時にシンガポールの艦船修理機能という彼らの首に掛ける軛でもって安全保障を図る意図があったのではないか。
英国の思惑はともかく、強力なデ・ロイテルであっても現状では東インド諸島で縦横無尽に活動させるのは難しいかもしれない。フェルゼン大佐はそう考えていた。
本来であれば、バタヴィアに到着したばかりの戦艦デ・ロイテルはアチェの反乱鎮圧に護衛艦を伴って出動する筈だった。
原住民の反乱程度を鎮圧するには明らかに過大な兵力だったが、幸いな事にパレンバン油田を有する東インド諸島では艦隊を行動させる燃料の心配はないから、購入されたばかりのデ・ロイテル乗員の訓練を兼ねて艦砲射撃を実施する予定だったのだ。
これまで東インド諸島に存在していなかった戦艦主砲による絶大な火力は、原住民とドイツ人自警団双方にオランダ人勢力の強大さを示すことになるはずだった。
だが、最近になって起こった事態がフェルゼン大佐にデ・ロイテルの運用に関して慎重論を唱えさせるようになっていた。