1947独立戦争謀略戦19
紛争の切掛は意外なものだった。谷技師が留守にしている間に国境を越えた襲撃があったらしいというのだ。
二式力作車の改修工事の合間を使って、谷技師は事情通の作業員に情勢を尋ねていたのだが、作業員は陰鬱な表情を浮かべて建屋を指さしていたのだ。
最初はこんな辺境の農場を襲ったものがあったなどと信じられなかったのだが、弾痕に加えて血痕も生々しい建屋を目の前にして谷技師は絶句して見つめることしか出来なかった。
襲撃に加わっていた部隊はさほど大人数ではなかった。装備も小銃や短機関銃程度であったらしい。装備を充実させるよりも山岳地帯における機動性を重視していたのか、あるいはその程度の装備でもサラワク王国の中でも辺境に位置する農園に睨みを効かせるには十分だと判断していたのかもしれない。
サマラハン農園に姿を表すなり、オランダ領東インド諸島駐屯軍と名乗った部隊は、横柄な態度で難民の返還を農園職員に命じていたらしい。
サラワク王国に亡命してきた難民を返還せよとは妙な言い方をするものだと谷技師は考えたのだが、実際には白人の彼らとの意思疎通が不十分であったのか、彼らは難民ではなくサラワク王国に拉致された労働者と表現していたらしい。
それを建前としていたにせよ、彼らは丸腰で交渉する職員に銃口を突きつけることに何のためらいもなかった。
そもそも現地の生活が長いものでない限りは白人が農園職員の日本人や出稼ぎ中国人と現地のダヤク族の区別がついていたのかどうかも分からなかった。それ以前に彼らは現地民の労働者を単に財産とでも考えていたのではないか。
サマラハン農園の職員としては彼らの要求を拒絶するほかなかった。
サラワク王国のブルック王は難民の政治亡命を受け入れる姿勢を示していたし、そもそも農園労働者となることを選択したものを除けば、難民は逐次王都クチンに移送されていたから、サマラハン農園には彼らが返還を要求した純粋な難民は存在していないことになる。
サラワク王国は周囲の植民地と比べても特異な政治形態を取っていた。宗教的にはムスリムが多いが、ついこの間まで首狩りを続けていたようなダヤク族は他の東南アジア諸国では衰退した原始的な精霊信仰を続けていた。
それだけでも西欧的な価値観を押し付けがちな植民地政策とは相反しそうなものだが、流石に首狩りの風習は禁止されていたが原則的に王国政府は現地民の風習には干渉しない方針をとっていた。
元々サラワク王国が建国された土地はブルネイのスルタンが支配する土地だったのだが、百年ほど前に現地の反乱を鎮圧した英国人に割譲されていた。この英国人が冒険家であった初代ブルック王であり、今は英国の保護国ながら独自の憲法を持つ立憲主義国家として三代目となるブルック王が治めていた。
これまで現地人の保護を図っていたブルック王としては、同族の難民を切り捨ててしまえば、同胞意識の高い先住民達の離反を招くと考えていたのではないか。
実際には、サラワク王国の中でもマレー化されていない現地民も大半が沿岸部に住む海ダヤク族であり、山岳地帯から逃れてきた難民達は実質的には別の民族である山ダヤク族なので、現地民の間の同胞意識は難民が発生し始めていた当初は薄かったらしい。
むしろブルック王の難民保護政策と現地オランダ政府の横暴が明らかにされていく過程で、サラワク王国政府による情報に触れたダヤク族の民族意識が呼び覚まされていったのではないか。
いずれにせよ、この国では王室に雇われた、というよりも居候の身分であるサマラハン農園が難民を勝手に引き渡すわけには行かなかったのだが、短慮にも越境してきた部隊は即座に暴力に訴えていた。
幸いにも農園職員に対する直接的な暴行は長続きしなかった。この時点でも国境近くで難民が続々訪れていたサマラハン農園にはサラワク王国軍の警備部隊が駐留していたからだ。
農園職員への暴力を抑える為に慌てて出動したサラワク王国軍だったが、彼らの姿を見た部隊は即座に制圧にかかっていた。
駐留するサラワク王国軍の数は越境してきた部隊を上回っていたが、国境警備任務の為に重装備は保有しておらず、装備の面ではほぼ同等だった。むしろサラワク王国軍の方が旧式装備のようだった。
しかも、越境してきた部隊の練度はサラワク王国軍よりも高かったらしい。農園職員達にはよく分からなかったが、彼らは巧みに地形を利用しながら射撃で牽制しつつ撤退していたという話だった。
この時は二式力作車を谷技師が移送してきた時に同行したダハット曹長は不在だった。古参の下士官である曹長が率いていたならば分からないが、その時点で常駐していた部隊の指揮官には経験が不足していた。
結果的に交渉にあたっていた農園職員とサラワク王国軍の双方に犠牲者が発生していた。それに対して、負傷者が出ていたかどうかは分からなかったが、越境してきた部隊は少なくともサマラハン農園から全員が撤退していた。
その後周辺の捜索も行われていたが、森林地帯の経験が少ないのか彼らが山岳地帯に移動していた痕跡こそ色濃く残っていたものの、追跡は短時間で打ち切られていた。彼らが待ち伏せでもしていれば損害がさらに大きくなるだろう。
サマラハン農園から発せられた国境侵犯の知らせはブルック王を激怒させていたらしい。オランダ現地政府に厳重に抗議するとともに、急遽それまでおざなりであったサマラハン農園の防衛体制が抜本的に強化される事となった。
ダハット曹長達も再度サマラハン農園に展開していたのだが、更にサラワク王国は鈴木商店を介してこれまで全く縁のなかった戦車まで買い込んでいた。それが谷技師の前に現れた服部少佐が持ち込んだ戦車だったのだ。
尤も服部少佐によれば、制式化されれば四九式軽戦車と呼称される予定だというこの戦車は、元々輸出先としてサラワク王国が有望視されていたという話だった。財政に余裕のないサラワク王国側は購入を匂わせる程度であったのだが、この国境紛争に際して急遽本決まりになったというだけだというのだ。
そうでなければ同地での走行試験の為に持ち込まれた車両をこの短時間で納入出来るはずもなく、現に乗員の教育は現地で日本人の退役軍人が行うしかない付け焼き刃の有様だった。
名称は軽戦車ということになるらしいが、実際には日本軍でこれまで採用されていた軽戦車とはこの戦車は位置づけが異なるようだった。
十年以上前に歩兵と騎兵を集めた機甲科が日本陸軍内に出来た時に、従来騎兵が使っていた軽装甲で高速の機動戦用戦車が軽戦車と言う位置づけになったらしいが、サマラハン農園に姿を表した戦車には軽快な機動性は無かった。
主砲は野砲弾道というから大威力砲なのだろうが、装甲はさほど厚くはないらしい。エンジンが前方にあるのは防御代わりなのかと谷技師は考えていたのだが、そう聞かされた服部少佐は苦々しい表情を浮かべながら否定していた。
実際にはこの軽戦車は大部分を既存車両から転用して設計されていた。日本陸軍が大量装備する予定の装甲兵車に、偵察車両の装輪重装甲車から転用した砲塔を被せただけだと言うのだ。
エンジンが車体前方に配置されているのも谷技師が予想していたような明快な設計思想があったからではなく、装甲兵車では車体後部に歩兵を乗せる空間を作る為に重量物であるエンジンが前方に配置していたからだった。
装甲兵車を転用した軽戦車仕様では歩兵が乗車する空間を砲塔を納める戦闘室としていたのだ。
むしろ最近の戦車は、強力な敵弾が命中する可能性の高い車体前方の装甲が強化されて重量化してしまった為に、重量の釣り合いを考慮して車体後部にエンジンや変速装置を集中的に配置する傾向があった。
つまり安価に一世代前の戦車の火力を持たせることを目指したこの軽戦車は、設計思想の点で正規の戦車とは反対方向に進んでしまっていたのだが、そのことが軽戦車の配備にあたって暗雲をもたらしていた。
服部少佐によれば、この軽戦車は輸出用途以外に当初は訓練用戦車としても一定の需要が想定されていたらしい。
日本軍に限らずに先の第二次欧州大戦では戦車の大型化が著しい勢いで進められていた。開戦時の日本軍が主力とした戦車は自重10トン程度の九七式中戦車であったのだが、終戦に前後して配備が進められていた四五式戦車では4,50トンにも達していた。
谷技師も20トンもある化物のような二式力作車が既に払い下げの対象となる旧式装備と聞いて唖然としたことを覚えていたが、急速に進む重量化は日本国内の交通路の限界を越えているのではないか、参謀本部などでもそういう声が上がっていたらしい。
そこで国内で運用する訓練用戦車として20トン弱に自重を抑えた軽戦車を転用することが考案されていたというのだ。
ところが、当初の想定とは異なり実際には訓練用戦車の必要性は低いものだった。
確かに以前は日本本土に広がる交通網には耐荷重が低い箇所もあったのだが、工業地帯周辺を中心に欧州がきな臭くなっていた戦前から規格の強化や代替路線を含む建て替え工事が逐次進められていた。
二度に渡る欧州大戦において日本本土は国際連盟軍の一大兵器廠として機能していたから、重量級装備の迅速な出荷の為には交通網の強化が必要不可欠だったのだ。
勿論国内にはまだまだ交通網の貧弱な箇所もあったが、攻め込む側にとっても価値の高い工業地帯が人口密集地に隣接する事を考慮すれば、鉄道輸送でも戦車が機動出来ないような箇所が戦場となる可能性は低いのではないか。
そもそも日本陸軍は、戦略爆撃に対する防空戦を除けば日本本土で戦闘を行うような可能性は著しく低いと判断していた。日本周辺は友好国であるか、あるいは海に囲まれた日本本土に重装備を輸送出来るだけの国力を持つ国家は無かったからだ。
唯一考えられるのは太平洋の向こう側に存在する米国だったが、広大な太平洋に同国が保有する中継点はミッドウェーなど貧弱な島嶼部に限られるから、海軍の戦力がある程度でも健在であれば日本本土上陸は不可能だった。
実際に日本陸軍が想定していた戦場はシベリア―ロシア帝国、満州共和国という大陸の友好国家と共産主義勢力の境界線にあった。大戦後も続く陸軍の重装備化も、広大な大陸で火力を発揮する為であるらしい。
大陸の入り口に当たるウラジオストックや大連には予め増援として派遣される予定である日本陸軍の重装備やそれを動かす為の補給物資が蓄積されているらしいが、大部分の戦力はいざ鎌倉という事態になってから本土から大陸に移送されることになるだろう。
だが、その様な事態であっても極端なことを言えば駐屯地から港までの道路や鉄道さえ整備されていれば重装備の部隊でも出動には事足りるのだ。
戦車兵の訓練にしても長期間の訓練は富士の裾野や北海道などに整備された演習場で行うから、新兵達に装軌車両に慣れさせることが目的のような初期錬成過程を除けば、態々エンジン配置などの特性から挙動が異なる訓練用戦車を使用する必要は無かったのだ。
さらに言えば輸出に関しても軽戦車には不利な点があった。輸出用の軽戦車は言ってみれば正規の中戦車を運用することが出来ない中小国が装備する代用戦車ということになるのだが、すでにこうした用途には軽戦車が砲塔を流用した重装甲車がすでに輸出されていたのだ。
火力は同等でも重装甲車は装輪式だから路外走破性という点では装軌車両の軽戦車に劣っているのだが、東南アジアの旧植民地には農作物などの出荷に用いるために旧宗主国が整備した道路網が残されていた。
結局は単に移動するだけなら重装甲車で十分であったし、重量が同等であれば装輪式の方が運用コストも低かったから、既にある程度の数が出回っている重装甲車を保有している国が態々軽戦車を追加で購入しようとする気配はないらしい。
実は四九式軽戦車がサラワク王国への輸出が期待されていたのは、この国では道路網の整備状況が他の旧植民地と比べて貧弱であり、装輪式の重装甲車では路外走破性が不足する事態が考えられていたからだった。
―――要するにここは間に合わせの代用戦車と代用兵士が立てこもる砦になったということか……
いつの間にか自分達が有志による自警団という扱いにされていたことを知った谷技師は、築城作業を続ける二式力作車の車長席で作業の指示を行いながらも脳裏の片隅でそんな事を考えていた。
自警団といってもサマラハン農園の備品で武器らしいものは害獣対策目的で購入されていた猟銃くらいのものだった。鶴嘴や鍬を持たせてみたが、自警団というよりも食い詰め浪人があつまった如何にも素人の山賊のようにしか見えなかった。
この中では単なる工作車両であるにも関わらず自衛用の機銃を装備した戦車車体の二式力作車は破格の迫力を持っていた。なにせサラワク王国派遣部隊主力であるはずの軽戦車よりもエンジン出力や重量では上回っているのだ。
その車長である谷技師も自警団の指揮官扱いとされていたのだが、肝心の谷技師は日本陸軍の徴兵検査で失格扱いの丙種合格とされていた自分が指揮官に祭り上げられてしまったことに奇妙な感覚を覚えていた。
二式力作車の設定は下記アドレスで公開中です。
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四九式軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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四四式重装甲車の設定は下記アドレスで公開中です。
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九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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四五式戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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