1947独立戦争謀略戦17
休暇でしばらく離れていたうちに、勤務地であるサマラハン農園の雰囲気が何故か大きく変わっていた。サラワク川を遡行してきた谷技師は戸惑った表情で連絡船から桟橋に降り立っていた。
サマラハン農園を所有する日沙商会は、第一次欧州大戦前後に急成長した総合商社である鈴木商店の系列会社だった。
日沙商会は本来サラワク王国でゴム生産を主に行う会社として創立された会社だったのだが、関係の深いサラワク王室からの依頼で同国の主食である米の増産政策に関わっていたのだ。
その日沙商会が所有する主力農園であるサマラハン農園では隣接された土地が新たにサラワク王国から払い下げられており、そこでは大規模な土地の改良を伴う田圃の造設が行われる予定だった。
ところが、機材の関係で本来予定されていた農業土木に関する工事は当初進捗が芳しくなかった。サマラハン農園側が要求する土地改良に必要な機材とはかけ離れた不適切な大型機械が納入されてしまっていたからだ。
本来1トン級の農業用トラクター数台という要求であったのに、サラワク王国首都のクチンにある日沙商会の本社に親会社である鈴木商店から送られてきたのは、日本陸軍で戦車回収用に運用されていた自重20トンもある怪物のような二式力作車だったのだ。
しかも、同時期にサマラハン農園は隣国との外交問題に巻き込まれていた。ボルネオ島はブルネイ、サラワク王国及びオランダ領東インドの一部に三分割されていたのだが、現地政府の圧政に耐えかねてオランダ領からの難民がサマラハン農園に多数逃げ延びてきていたからだ。
元々現地民の生活を重んじるブルック王室は、国土の過剰な開発や西欧文化の押し付けに熱心ではなかったのだが、国境地帯であるボルネオ島奥部では特に未開の森林が広がっていたから、開墾されたサマラハン農園は道中の山岳地帯からでも容易に見分けがついて目的地とされていたらしい。
苛烈な植民地支配など今に始まったことではないはずだが、先の大戦が終結した後は本国オランダからの収奪が一段と激しくなってきていたらしい。
世界規模の欧州大戦も、先祖伝来の地であるボルネオ島奥地に住んでいたダヤク族にしてみれば自分達とは全く関わりを持たない出来事であったのだろうが、通訳を兼ねる谷技師がマレー語で意思疎通が可能な何人かのダヤク族から聞いた話を総合すると大戦以後に苛烈さが増していたのは確かなようだった。
第二次欧州大戦においてオランダは戦争期間の大半を占領されて経済的にも労働力の点でもドイツに搾取されて疲弊していた上に、占領下の本土は英独間の航空撃滅戦の舞台となったことで国土の荒廃を招いていたらしい。
そして、亡命先のロンドンや植民地から本土に帰還したオランダ政府は、荒廃した本土の復旧を行う為に必要な巨額の資金捻出を植民地に求めていた。
短期間で植民地の富を活用するために、前世紀半ば頃に人道上の理由などから廃止されていた換金用農作物の強制栽培制度が戦時中から再び施行されていた。
植民地で増産されたコーヒーやサトウキビ、茶などが国際市場に輸出されてオランダ本土の懐を暖めていたが、当然のように現地民の食糧事情や飢餓などに目が向けられることはなかった。
それどころかそれまで放置に等しかった奥地の未開発地域においても、換金栽培用の農地開墾や労働者の強制徴募が行われるようになっていたのだ。
今世紀に入ってからのオランダ領東インドは比較的寛容な植民地支配へと舵を切っていたはずだったのだが、彼らも政府機能の亡命と本土の荒廃というこれまでにない事態になって形振りを構わずに苛烈な支配体制に戻っていたのだ。
周辺の他国植民地が続々と独立をはたしていたことに影響を受けていたのか、苛烈な植民地支配に反発した現地民のなかからは独立運動に身を投じる者も出ていたらしい。
だが、ボルネオ島のものを含めて東インド諸島における独立運動は精彩を欠くものだった。少なくとも隣国であるサラワク王国では大規模な戦乱の予兆はこれまで感じられなかった。
現地のオランダ総督府が有する治安維持組織が徹底した弾圧を行っていることもあるのだろうが、それ以上に広大な範囲に点在する東インド諸島全体の独立運動をまとめる指導者の不在が、効果的な治安維持組織による各個撃破を可能とさせてしまっているらしい。
例えば東インド諸島以上に民族や宗教等によって構成される複雑な階層闘争が存在するインドでは、粘り強く独立運動を主導していたガンジー氏を精神的な指導者として認めることで、各派の独立運動家が取り敢えず纏まって新政府を構成しようとしていた。
ところが現地人の知識階層や軍事力に乏しい東インド諸島では、ガンジー氏のような卓越した指導者が存在せずに島ごと、地域ごとに小規模な独立運動が立ち上がっては潰される不毛な連続が続いているようだった。
宗教的には東インド諸島ではムスリムが大半なのだが、島によってはキリスト教徒や仏教徒の存在も無視できないし、同じムスリムでも宗派に加えて原理主義者と土着の宗教と一体化した変則的に世俗化したものまでもあるから、ムスリムとしての一体感にも欠けていた。
サラワク王国から見ると、マラヤ連邦を挟んでマラッカ海峡の向こう側に位置するするスマトラ島北部のアチェでは、最近は大規模な反乱が頻発しているというが、反乱活動が全国に波及する気配はなかった。
連続した戦闘が発生している場合もあるが、独立運動が示し合わせて行動を起こしている様子はないらしいから、機動力と火力に勝る総督府の治安維持組織に撃退されていた。
オランダ総督府が頻発する反乱に対して強気でいられるのは、独立運動の組織力が貧弱であることに加えて独自の戦力である治安維持組織に全幅の信頼を寄せているからではないか。
アチェには少なく見ても一個師団に相当するオランダ人たちの尖兵となる兵力が存在する。谷技師が訪れていたマラヤ連邦ではそんな噂が流れていたが、詳細は不明だった。
そもそも、植民地からなりふり構わずに富を吸い上げなければならないほど本国の財政が火の車だというのにオランダ政府にそんな兵力を派遣する余裕はあるのだろうか。谷技師はそれを疑問に思っていた。
小柄な谷技師は、日本軍の徴兵検査でも実質的に兵士の資格がないとされる丙種合格となっていたから入営経験もなく軍隊のことはよく知らなかったのだが、一個師団といえばざっと一万人の兵隊が必要となるらしい。
そんな大兵力を欧州にある彼らの本土から見れば地球の反対側にあるような僻地である東インド諸島に展開するのは困難なのではないか。
独立前のインドやマラヤ連邦であればその様な一大兵力を英国が展開するのも不可能ではなかった。彼らにはインド人や周辺民族の兵士で構成された現地軍が存在していたからだ。
だが、アチェからマラヤ連邦に流れてくる噂によれば、アチェの独立運動を弾圧しているのは間違いなく白人であるらしい。ムスリムのアチェ人の中には親類縁者を頼ってマラヤ連邦に逃れてくるものもいるから、噂と言っても情報は概ね正確であるようだった。
キリスト教徒の白人たちによってアチェのムスリムが弾圧され、モスクにも火を放たれているという話はマレー人達にも広がってオランダ、というよりも白人社会に対する鬱憤を募らせているものも少なくなかった。
過激なウラマーの中にはアチェに渡って義勇兵として加わろうという声も上がっているらしいが、マラヤ連邦に谷技師が滞在していた期間は短かったから詳しい話はよく分からなかった。
谷技師が珍しく休暇を取ってマラヤ連邦に渡っていたのは、現地で異母妹の結婚式に出るためだった。英領マレー時代に移住していたマラヤ連邦は谷技師にとっても第二の故郷であり、旧知のものも多かった。それどころか花婿となる男も幼馴染というべき関係の親しい友人だった。
懐かしい顔ぶれと、久方ぶりに合う異母妹の晴れ姿に後ろ髪を惹かれる思いで南シナ海を越えてサラワク王国に戻ってきていたのだが、王都クチンに到着した頃から異様な気配を感じていた。
街の住民の間にも緊張感があったのだが、違和感を抱きつつも時間がなかった谷技師は連絡船に飛び乗っていた。
クチンで感じた違和感は連絡船による短い船旅の間も消え去らなかった。それどころかサマラハン農園に近づくに連れて緊張感が増していくのを感じていた。
具体的に何かが変わるわけではないのだが、サラワク川を行き交う船頭達や途上にある街の住民たちの間に不安が増していく様子があったのだ。それに普段よりも谷技師が乗り込んだ連絡船のようにサラワク川を遡行する船が少なく、河口のクチンに向かう船便の方が多いような気がしていた。
もっとも南シナ海を渡る長旅で疲れていたものだから、ぼんやりと休んでいた谷技師が明確に違和感を覚えたのはサマラハン農園に付随する桟橋から降り立ったときだった。
クチンで無理やり改造した大発に無駄に巨大な二式力作車を載せて遡行してきた時に比べると、桟橋付近の様子は一変していた。大型工作機械の積み下ろしを前提とした護岸工事と桟橋の増築が行われていたのだ。
二式力作車を投入した土木工事の工数は大きく、消費した資材も膨大なものだったが効果は大きかった。
重量物を積み込んだ大発であっても、二式力作車を積み込んだ過積載状態でなければ安定した着岸が可能となっていたから、農作物の出荷も容易となるし故障した工作機械を修理のために送り返す事もできるはずだった。
上流近くのサマラハン農園付近ではサラワク川も川幅が狭くなっているから川面に突き出した桟橋が邪魔になって上流側に向かう交通を阻害していたが、どうせ農園から先の上流は国境を形成する人口も希薄な山岳地帯だったから大した問題ではないはずだ。
尤も来年までこの桟橋が持つかどうかは分からない。
熱帯雨林の中にある険しい山脈に降り注いだ雨は、赤茶けた腐葉土を含む濁流となって押し寄せてくるから、毎年欠かさず訪れるこの国の雨季を越える前に桟橋が破壊されてしまうかもしれないし、もったとしても桟橋の構造材によって遮られた土砂を浚渫するところから始めなければ何れは使用に支障を来すのではないか。
折角整備された桟橋だったが、普段の使用率は低かった。連絡船は毎日行き交う訳では無いし、生産されたゴムや他の収穫物の出荷も船便が必要となるのは特定の時期だけだった。
既にサマラハン農園で必要だった大量の土木工事は大半が終了しており、あとは定期的な維持工事が残されているだけといっても過言ではなく、むしろ余剰となっていた工作力を投入して初期計画以上の拡張工事まで行われていた。
土木工事を一挙に進捗させた要因は、皮肉なことに大量に押し寄せてきた難民の中からサマラハン農園での雇用を望むものを労働力として使うことが出来ていたからだ。
慣れない農場での強制労働を苦にして逃げ出してきたはずの難民達が、サマラハン農園の造成作業に志願するのは矛盾があるのではないかと谷技師などは考えたのだが、難民達の意識のなかでは矛盾は存在していなかった。
要するに白人達に強制されて作らされている喰えもしないコーヒーやサトウキビではなく、主食となる米を作るための田圃であるならば問題はないらしい。
難民たちにしてみれば、単に仕事もなくぼんやりと収容先で過ごすのに飽きてしまっただけかもしれなかったが、単純労働者であっても無駄飯ぐらいではなく労働者となったのはサマラハン農園にしてみても幸いだった。
サラワク王国から支給された物資もあるから、急遽クチンから食料品などの救援物資を輸送しても、近い将来は整備された田圃からの収穫で収支の釣り合いはとれるのではないか。
だが、今日は珍しく桟橋も多くの船が付く予定になっている様子だった。谷技師を降ろした連絡船が離れたあとも、桟橋から積み下ろしなどにあたる作業員が立ち去ろうとしていなかったのだ。
怪訝に思って険しい顔をした作業員に声をかける前に、谷技師は重々しいエンジン音に気がついて振り返っていた。丁度河川が屈折する先からゆっくりと遡行してくる船が見えてくるところだった。
呆気にとられて谷技師は桟橋に近づいてくる船を見つめていた。先程の連絡船と比べるとずっと大きいが、船自体は見慣れた大発だった。
だが、その大発に載せられているのは、二式力作車のような払下げの軍用工作車両ですらなく、どう見ても大砲を備えた戦車だった。
二式力作車の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/02arv.html
大発動艇の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lvl.html