表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
534/812

1947独立戦争謀略戦15

 呉駅の改札口を出た坂西予備役中将は、山陽本線から呉線に乗り入れている優等列車とはいえ、東京駅から直通という長時間の乗車で疲労していたのだが、似合わない作業着を着込んだ旧知の男が構内で律儀に待っている姿を見つけて思わず微笑んでいた。

 既に男は40代半ばには達しているはずだったが、澄んだ少年の様な瞳は、まだ現役の陸軍軍人だった坂西中将と初めて大陸で出会った少年の頃と全く変わらなかった。

 あれからもう20年以上が過ぎて自分は老人となったが、彼は今も大陸の広さに挑む冒険者の心意気を持ち続けているように感じていた。



 満州共和国陸軍、特務遊撃隊隊長の尚中佐と普段は名乗っている男は深々と坂西中将に頭を下げていた。

「鎌倉から遥々の長旅お疲れ様でした、閣下。一良さんの御葬儀にも参れず先日は失礼を致しました……」


 坂西中将は首を振っていた。坂西中将の娘婿である坂西一良は養父と同じく陸軍大学校を卒業してから参謀本部などの花形部署を歴任していたが、欧州大戦前のドイツ贔屓が祟って開戦前後に失脚しており、昨年失意のうち世を去っていた。

「息子のことはもう良い。結局、あやつの一族はドイツに入れ込み過ぎて時流を見誤っていたのだ。儂はむしろ君の様な日本から世界に羽ばたいて行った若者を導く一端でも担うことが出来たとすれば、それが人生最良の仕事であったと思っておるよ」


 尚中佐は再び深々と頭を下げていた。

「私も閣下の御恩を忘れた事はございません。閣下が導いてくださらなければ、私もあの素晴らしい家族と出会う前に満州の荒野で野垂れ死んでいたでしょう……

 閣下、市内に宿をとって置きましたので、先に宿に移動しますか」


 我に返るように周囲の目を気にしながら尚中佐は言った。呉は大戦終結後に工廠機能こそ縮小されていたものの、いまだに鎮守府を有する海軍の一大根拠地だった。

 平服とはいえ予備役将官である坂西中将と満州共和国籍の軍人が話し合うには、海軍関係者の目がある呉駅の駅舎は居心地が悪いのかもしれない。



 だが、笑みを浮かべた坂西中将は、旅行鞄を受け取った尚中佐の肩を手にした杖でこつこつと叩きながら言った。

「あまり老人扱いしてくれるなよ、お若いの。例の船を明日の進水日前に陸から見ておきたいのでね。早く見に行こうじゃないか」

 尚中佐は苦笑しながらもそれ以上言うことなく、車を回しますとだけ言って駅前に行った。


 用意された乗用車は社有車であるらしい。小さく三陽造船と社名が記載されていたからだが、その社有車を運転しているのは尚中佐自身だった。勿論尚中佐は三陽造船の社員ではなく作業着は借り物だった。海軍の街で満州共和国軍の軍服姿でいるのは何かと面倒があるのだろう。


 尚中佐は慎重に運転していた。しかも呉駅の目の前に造船所があるのに、やたらと遠回りの道を辿っていた。

 坂西中将は後から気がついたのだが、遠回りとなっていたのは、海軍の敷地内に入るのを極力避けていたからだった。大戦後に民間企業に払い下げられた土地も多かったが、それでも三陽造船のある半島全体が一時は殆ど海軍のものだったのだ。

 それに三陽造船の敷地は呉鎮守府や長官公邸にも隣接していたから、不用意に近づけば警備の衛兵の誰何を幾度となく受ける羽目になるのではないか。



 それでも最後は海軍が設けた営門を越える事になった。

 呉の旧市街と広地区を隔てる半島を縦貫する休山連峰は、高さはさほどではないものの勾配は大きく、宮原村を走る車道は急傾斜を避けるために等高線に沿って整備されており、そのせいで急角度が連続していた。

 急カーブの先にあったものだから、坂西中将は営門の存在に最後に曲がるきるまで気が付かなかった。


 呉駅では強がってみせたものの、坂西中将は列車から降りた時よりも強い疲労を覚えていた。車道が曲がりくねる度に、坂西中将は車内で転がらないように気を張りながら扉の把手に掴まっていたからだ。

 普段から暴れ馬を乗りこなす生活をしているせいか、運転する尚中佐の方は平然としてハンドルを握っていた。狭い車道を走りながら坂西中将に細々とした説明を加えていた。

「この辺りの宮原村は元々工廠職員の家が多く、高級工員が大神工廠に異動していったので一時期は空き家が目立っていたそうですが、三陽造船の開業で舞鶴や佐世保から転職してきた工員も引っ越してきたので、減少した人口がまた元に戻ったと市当局も胸を撫で下ろしたそうですよ」



 ―――無理を通してでも旧軍港法を通しておいて良かったのか……

 貴族院の議員でもある坂西中将は尚中佐の声に何かを返そうとしたのだが、辟易した中将の口からは何も出なかった。

 みっともなく予備役陸軍中将がそんな疲労した顔を海軍の衛兵の前に出してしまったのだが、三陽造船の社用車であったためか、衛兵の確認はおざなりなものだった。逆に陸軍とはいえ将官を相手にしていることにも気がついていない衛兵の表情に緊張感は無かった。


 衛兵達に緊張感がない理由は、坂西中将にもすぐに分かっていた。営門の先は確かに海軍の敷地であったのだが、その範囲は極狭かった。実際には工廠施設内の通路一つを隔てた先は既に三陽造船の敷地に入っていたのだ。

 おそらくは朝晩の出退勤時間なども三陽造船の社員が大勢出入りしているのだろう。営門の衛兵達から緊張感が薄れていくのも当然のことだったのだ。


 ようやく曲がりくねった車道に悩まされるのも終わりだと思っていたのだが、実際にはまだ続きがあった。営門の先は確かに三陽造船の敷地であったのだが、そこにさらに急勾配の坂道が残されていたのだ。

 しかも、崖の法面にしがみつくようにして設けられた坂道は、車道として見ると規格がひどく貧弱なものであり幅が狭かった。後部席に座った坂西中将などはよいが、右側の運転席に座った尚中佐の視点では宙に浮いている様な感覚を覚えているのではないか。



 異様な線形の道路だったが、舗装に関しては確かなものだった。というよりも道路の規格そのものは貧弱なのに投入された技術は高度なものだったのだ。少なくとも戦時中に慌ただしく追加された工事道路とは思えないから、崖を削り取るようにして作られたのはごく最近なのではないか。

 周囲の地形を思い出しながら、坂西中将は首を傾げていたが、慣れた様子で運転する尚中佐は中将の様子に気がついたのかあっさりと言った。

「この道路も三陽造船の敷地が海軍さんから分離した際に改めて造成されたものなのだそうです。ここを使わないと鎮守府の前を長々と通過しないと造船所に入れませんからね」

 坂西中将は頷いていたが、ふと疑問に思っていたことを言った。

「だが、宮原村を通過する車道もそうだが、こんな道路では荷物を積んだトラックは入れられんのじゃないかね……」


 尚中佐はしばらく黙っていた。回答に詰まっていたわけではなかった。そこで坂が終わりになっていたからだ。一時停車した乗用車から中佐は窓の外の軌条を指さしながら言った。

「大物貨物は船便ですが、この工場に他所から入荷される貨物は鉄道輸送が殆どのようです。誰が歩いてくるかわからない道路は海軍さんの敷地で寸断されていますが、呉駅からの引込線は引き続き残されているんです。

 それに造船部こそ払い下げの対象になりましたが、三陽造船の奥にある砲熕部や製鋼部の造兵部門は未だに海軍さんの呉工廠のままですからね」



 三陽造船は新しい造船会社だった。会社設立の切掛となったのが成立間もない旧軍港法だったからだ。

 この法律の趣旨は、不要となった海軍施設、設備を民間に売却することにあったが、その根底にあったのは以前の海軍軍縮条約時代の所謂海軍休日時期に工廠の機能が著しく低下していたことへの反省があった。

 海軍の建艦を制限した軍縮条約下では、海軍工廠の仕事量も低下し、工員の雇い止めも多く発生していた。日本海側にあって大型艦の建造機会の少ない舞鶴工廠などは10年以上も工作部に格下げされていたほどだった。


 第二次欧州大戦の終戦は、先の軍縮条約の締結時以上に劇的に海軍建艦関連の仕事量が低下する原因になると思われたが、特に呉工廠の場合はそれ以上の影響を与えかねない事情があった。

 設立当初は広島湾の奥深くにあって防御に優れるとした呉鎮守府の立地であったが、主力艦の大型化が進むようになると併設された呉工廠は手狭になってきていた。地形上これ以上山側に施設を拡大することは難しかったし、湾内の航行を考慮すると埋め立てにも限度があった。

 何よりもブロック建造法の取り入れなどの新手法が次々と考案されていたことで、呉工廠の基本配置自体が時代に取り残されていたのだ。


 日本海軍は、こうした事態に対して抜本的な対応を行っていた。九州東岸に大型艦の連続建造を前提として広大な敷地を予め確保した大神工廠を建設していたのだ。

 九州にあっても太平洋に面する大神工廠は呉鎮守府の管轄下にあったが、実際には工廠事務や対応する艦船という意味では佐世保鎮守府との共同管理と言っても良かった。

 裏を返せば、呉工廠と佐世保工廠の造艦機能の大半が大神工廠に集約されることとなったのだが、戦時中で修理工事などが数多く発生した時期はともかく、平時においては両工廠共に仕事量の多くを大神工廠に奪われる形になったと言っても過言では無かった。



 この事実に反発したのは両工廠の関係者よりも工廠所在地の市当局の方だった。彼らの脳裏にあったのも海軍休日によって活気がなくなった不況期のことだった。海軍関係者よりも市当局の方が財政などに直接関わってくる話だったのだ。

 単に海軍工廠の仕事量が減るだけではない。以前の舞鶴工廠の様に工作部への格下げなどがあればまず工員が雇止となり、それに続いて海軍関係者を当て込んだ商売人や出入り業者なども仕事を失って離散してしまうのだ。

 しかも海軍側が何れは必要となると判断すれば半ば遊休地として工廠の敷地も放置されてしまうから市当局が民間の工場などを誘致する事も出来ないから、人口流出による財政の縮小を彼ら自身で防ぐ手立ても阻害されているようなものだった。


 こうした経済の停滞を避けるために、旧軍港法では各工廠の不要となった敷地などを民間企業に払い下げて、海軍頼みの各市町村の財政を健全化させる事を実際の目的としていた

 そして呉工廠の造船機能に関わる部分を払い下げられて作られたのが三陽造船所という民間企業だったのだ。呉鎮守府に隣接する為に艦艇の修理機能を維持することや有事における海軍の統制といった制限はあったものの、既存の工廠設備を流用できれば安価に大型船の建造が可能な造船所を入手できたのだ。



 ただし、ここには一つのからくりがあった。確かに三陽造船は登記上は完全な民間企業だったのだが、その株主には海軍将校の親睦を担う水交社と在郷軍人会が名を連ねていた。

 しかも、三陽造船所はそれらの大株主である軍関係の団体から役員を受け入れていたし、現場で勤務する社員の多くも大神工廠に移動とならずに呉にとどまっていた旧工廠工員や、規模縮小にあった他の工廠に勤務していたものだった。


 先程の営門で警備していた衛兵の検査がおざなりであったのも当然の事かもしれなかった。彼らにとってみても、三陽造船所は海軍の身内のようなものだったのだ。

 そして、かつて海軍が防御力を求めて鎮守府を設けた呉の広島湾の奥深くという立地条件に加えて、半ば軍の造船所でありながら法的には民間企業であるという独特な立ち位置が、三陽造船に坂西中将が訪れる理由の一つとなっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ