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1947独立戦争謀略戦12

 大戦中からドイツ空軍の中でも爆撃機隊に対する評価は低かった。大戦終盤は実質的に戦闘機隊ばかりが優先して整備されていた事もあるが英国本土航空戦のあたりからドイツ空軍内には爆撃機隊を軽んじる傾向があったのではないか。

 そうした空気を表す大戦終盤の戦闘機総監が言い放ったと言われる一言があった。それは、自分達戦闘機隊が幾ら敵戦闘機を撃墜した所で、爆撃機隊が敵拠点を叩かないから敵戦闘機の数が減らないのだと言うものだったらしい。



 ドイツ空軍内には、元戦闘機乗りのエクスペルテンであったにも関わらずゲーリング国家元帥が開戦前後に爆撃機隊を重視していたということもあって、大型で維持や製造にも多額の予算を必要とする爆撃機隊に対する戦闘機乗りからの風当たりが強かった。

 それに加えてドイツ空軍が相対する国際連盟軍の場合は、英国の搭載量の大きな重爆撃機が夜間爆撃で生産拠点を叩き、これを迎撃する筈のドイツ空軍に対して日本軍の高速爆撃機が執拗に英国本土から航空撃滅戦を仕掛けてくるという両輪の作戦が行われていたという事実もあった。


 つまり敵軍に対して我が爆撃機隊は不甲斐ないというのがドイツ空軍に流れる雰囲気だったのだ。講和条約によって大型爆撃機の保有が禁じられたのは事実だったが、実際にはドイツ空軍はこれ幸いと役立たずの爆撃隊を切り捨てたというのが真実だったのではないか。



 だが、ドイツ空軍の古参戦闘機乗りであるにも関わらず、デム曹長は戦時中からそうした雰囲気に冷ややかな目を向けていた。

 ドイツ空軍の戦闘機隊は、自らの撃墜数にこだわり戦術的な自由度の高い戦法である「自由な狩り」を好む一方で、戦闘機乗りが独自の行動を取れない爆撃機の護衛任務を疎む傾向があった。

 あるいは何処の軍でも戦闘機隊と爆撃機隊との間には確執というものが存在しているのかもしれないが、デム曹長の見る限りドイツ空軍と違ってソ連軍の戦闘機隊はいつでも爆撃機を守る為にその身をさらけ出して散っていった。


 ドイツ空軍は個々の戦闘には勝利していたかもしれないが、ソ連軍のように一丸となって戦争に勝つ為には戦っていなかったのではないか。デム曹長は今ではそう考えるようにもなっていた。

 新生ドイツ空軍の整備方針が戦闘機偏重になっていたのも、制空権を確保するためというよりも場当たり的に現状に対応しているだけなのかもしれない。



 デム曹長が第三者的な視点でドイツ空軍の整備方針を眺めていられたのには理由があった。ドイツ空軍創設以来と言っても良い程生粋の戦闘機乗りであったにも関わらず、デム曹長は新生ドイツ空軍に再就職出来なかったからだ。


 空軍全体に目をやればデム曹長と同世代でもまだ搭乗員を続けているものは少なくなかったが、彼らはいずれも出世していた。撃墜数を重ねて航空団を率いる佐官にまで戦時昇進していたものもいた。

 下士官上がりの搭乗員である俄佐官の事務能力は低かったが、エクスペルテンである彼らが率いる場合は、補充兵ばかりであったとしても航空団の損耗率を抑えられるのだ。

 そのような綺羅星の如きエクスペルテン達と違って、飛行時間は長くとも撃墜数の無いデム曹長に対するドイツ空軍内の評価は限りなく低かった。



 ただし、現役の戦闘機乗りには留まれなかったとしても、デム曹長の戦歴からすれば操縦教官などとして軍に留まること自体はまだ出来た筈だった。この時期のドイツ空軍には熟練の操縦教官が不足していたからだ。


 大戦終盤の追い詰められていたドイツは、航空機の生産力を戦闘機に集中させていたが、その犠牲となるように練習機の生産が実質的に停止していた。

 どのみちドイツ国内で地上戦が繰り広げられている状況では、練習機がのんびりと飛んでいられる空域など無くなっていたのだが、練習航空隊が消滅した影響は後になって深刻に現れていた。

 前線部隊に補充すべき新兵の不足が深刻化したのは戦後になってからのことだったのだ。


 それに加えて東北部をソ連に占領されて南部に追い詰められたドイツの航空機生産能力は限定されたものになってしまっていたから、機種も構わずに輸入された練習機を導入した練習航空隊が、空軍全体の規模からすると多すぎるほどの数でいくつも急遽新編成されていたのだ。



 その様に搭乗員の需要が拡大しつつある中でデム曹長が空軍の搭乗員に留まれなかった理由は、大戦終盤に爆撃航空団に転属していた為かもしれなかった。


 戦時中はデム曹長は原隊を転々としていた。東部戦線で受けた負傷から回復した後は、かの有名なアフリカの星ことマルセイユ大尉が所属した第27戦闘航空団に配属されていたこともあった。

 尤もデム曹長が北アフリカに赴任した時期は、既にマルセイユ大尉は戦死して歴戦の第27戦闘航空団も国際連盟軍の勢いに押されていた。デム曹長の戦闘も劣勢な中の苦闘が連続していた。

 そして北アフリカ戦線を追い出された第27戦闘航空団がイタリア半島を北上しながら戦い続けていた頃に、シチリア島で機体を失ったデム曹長は本国で再編成中だった第53爆撃航空団に転属させられていたのだ。



 実のところデム曹長が爆撃機の操縦者に転科したわけではなかった。むしろ当時の爆撃隊は規模を縮小させていたから、解散したり地上攻撃航空団などに航空団ごと転科する例もあった程だった。

 従来、水冷式エンジンを搭載したJu88やJu188と言った高速双発爆撃機を運用していた第53爆撃航空団は、本国における損害回復を目的とした再編成の機会を捉えてジェット機への転換対象部隊となっていたのだ。

 その対象機となったのは本格的に量産される実用ジェット機としては史上初めてと言っても良いMe262だったのだが、爆撃航空団への配備に関しては微妙な経緯があった。


 その後の実戦では純然たる戦闘機として運用されたMe262であったが、当初はその高速性能を活かした特異な爆撃機として運用する計画もあったらしい。

 搭載量は少なく、早すぎる速度に対応しきれない爆撃照準器の性能も不満足なものであったのだが、敵迎撃機をその高速性能を活かして突破する事で低下する一方の爆撃機隊の生存率を上げようとしていたのだろう。



 だが、Me262を電撃爆撃機と呼称して爆撃機隊への配備を進めさせていたヒトラー総統が暗殺された事で事態は一変していた。

 クーデター騒ぎと政変に乗じる形で空軍内の権力を掌握したガーランド中将などは、ゲーリング国家元帥が総統代行に就任して空軍内の些事に目を通せないすきを狙って既存生産機を含めてMe262を純粋な戦闘機として運用するように改めさせていたのだ。


 このような経緯を受けて第53爆撃航空団も実質的には戦闘機隊として東部戦線で実戦に投入されていたのだが、再編成中から部隊内には一つの懸念が語られていた。

 ジェットエンジンの特性からMe262は離着陸時がひどく脆弱になる上に、整備された長大な滑走路を必要とするために情勢に合わせて野戦飛行場を転々とする東部戦線の戦闘には対応しきれないのではないかと考えられていたのだ。

 実はデム曹長達が第53爆撃航空団に転属となったのもそれが理由だった。純粋なレシプロエンジン搭載戦闘機でもって基地の防空任務を行う戦闘機隊が爆撃航空団内に新設されていたのだ。



 東部戦線で多大な戦果を上げた第53爆撃航空団だったが、戦闘機装備部隊であったにも関わらず戦後すぐに他の爆撃機隊同様に解隊されていた。航空団内部に設けられた防空戦闘機隊に所属するデム曹長達が否応もなく軍を放り出されたのもその時だった。

 航空団が廃止された表向きの理由は国際連盟軍との講和条約によって重爆撃機の保有が禁止されたことになっていた。戦時中は東部戦線に投入されているものに限り爆撃機隊も解隊の猶予が与えられていたのだから、理屈の上では間違ってはいなかった。


 しかし、デム曹長には第53爆撃航空団の性急な廃止には戦闘機隊による妬みが根底にあったのではないかと疑っていた。

 実は最初にまとまって機種転換を受けた第53爆撃航空団に続いて、ヒトラー総統暗殺後に純然たる戦闘航空団が幾つもMe262装備部隊に指定されて東部戦線に投入されていたのだが、性急な装備転換訓練を受けた戦闘航空団の中には早々に新鋭ジェット機を事故で消耗して戦力外となる部隊が少なくなかったらしい。


 戦闘航空団に装備された機材は、第53爆撃航空団に配備されたものとほぼ同一仕様のMe262であったのだが、その戦法には大きな差異があった。

 風の噂に聞いた話では、戦闘航空団では従来のレシプロエンジン搭載の戦闘機と大して変わらないやり方でジェットエンジンを搭載したMe262を操縦しており、敵機と遭遇するとすぐに曲芸まがいの空戦を挑んでいたらしい。


 対して第53爆撃航空団の操縦士達は、電撃爆撃機ではなく戦闘機としての運用に切り替わった後も、愚直なまでに敵爆撃機狙いの一撃離脱戦法を守っていた。

 戦闘機乗りではない彼らには、複雑な空戦術で敵戦闘機と渡り合う程の技量を手にする訓練時間は与えられておらず、可能なのは敵機に突っ込んで去っていくだけの一撃離脱しか無かったのだ。



 ところが戦闘機部隊からすると稚拙としか思えない元爆撃機乗り達の操縦法の方がMe262には向いていた。

 元々戦闘機と比べると爆撃機は急激なエンジン出力の操作を行う機会が少なかったのだが、戦闘機動で多用される急旋回やエンジン出力の急加減速は未成熟であった初期ジェットエンジンを容易に空中で停止させていたからだ。

 吸入口周りや着火装置などの設計が洗練されていなかった黎明期のジェットエンジンにおいては、爆撃機の様に慎重にエンジンを扱う必要があった。

 ところが機種転換訓練の期間を切り上げられた戦闘航空団は、なまじこれまでの戦闘機乗りとしての経験があったものだから、ジェットエンジンに対応する前に自滅する形で消耗していったようだ。


 詳しいことは知らないが、東部戦線で活躍した撃墜数が3桁に届く程のエクスペルテンもMe262に乗り換えた直後に戦死したものもあったらしい。

 そんな将来のことまで見通せていたとは思えないが、ジェットエンジンを搭載したMe262を電撃爆撃機として運用しようとしていたヒトラー総統の目論見は結果的に見て正しかったのではないか。



 東部戦線での戦歴から欠陥機を疑われたMe262だったが、第53爆撃航空団の上げた地味ながら着実な戦果はその評価を覆すに足るものであった。その証拠に、ジェットエンジン搭載機による貴重な実戦経験を求めて、航空団幹部に国際連盟軍の航空将校が接触しようとしていたらしい。

 そんな戦果を上げた第53爆撃航空団の性急すぎる解隊措置は、国際連盟軍の関心をこれ以上戦闘機隊以外に向けられたくない戦闘機乗りの嫉妬があったのではないか。

 戦後のドイツ国内ではひどく貴重なものとなった職を求める男たちの群れに混じりながらデム曹長はそんな事を考え続けていた。



 戦後すぐに軍を放り出されたデム曹長は、無職どころか家もなかった。ドイツ中部の実家はソ連占領地帯のど真ん中にあり、残された家族の行方もしれなかった。

 終戦しばらくのドイツでは珍しい光景ではなかった。駅や市役所など人の集まる場所には連絡先と行方不明者の名前を書き連ねた看板が立ち並び、ドイツの何処かに疎開した家族を探す復員兵が溢れていた。


 海外への移民に応募して、実質的には難民として海を渡るものも続出していた。配給の高粱鍋をすすりながら、途方に暮れたデム曹長が宛もなくドイツを出ようとしていた頃に爆撃航空団の上官から声をかけられたのだ。


 皮肉な事に最終的に爆撃航空団に所属していたせいで空軍を放り出されたデム曹長は、爆撃航空団に所属していたおかげでエアアジアという新たな職を得たのだった。

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