1947独立戦争謀略戦11
今回の飛行前に異様とも言える改造が施されていたせいなのか、一〇〇式輸送機の飛行姿勢は油断するとすぐに不安定なものになっていた。副操縦士のデム曹長は、ため息を付きながら無理に体をひねって後部の航空機関士席に据え付けられた燃料系統のスイッチを捻っていた。
「安定した」
機長席のプレー少尉が上げた声は極短いものだったが、くぐもった音で聞こえる酸素ホースと直結した機内通話装置越しでも安堵の色は隠しきれていなかった。
「やっぱりこの改造機は無理があるんじゃないか……エンジン出力のむらが強すぎるぜ」
右舷の副操縦士席に身を戻しながらデム曹長は辟易とした表情でいったが、褐色の顔に浮かんでいる太い眉をしかめたままプレー少尉は何も言わなかった。相棒のそっけない態度を気にした様子もなく、デム曹長は副操縦士席からはみ出しているエンジン廻りの計器盤の監視に戻っていた。
本来一〇〇式輸送機の乗員は3名が定数なのだが、この会社では機関に精通した航空勤務者が不足しているものだから、航空機関士が搭乗して3名体制になることは少なく副操縦士が航空機関士の職務を兼任する事が多かった。
二人が勤務する航空会社であるエアアジアは、マラヤ連邦に本拠地を置く創設されたばかりの会社だったが、その保有機は中古機ばかりだった。この一〇〇式輸送機も余剰機の払い下げを受けた機体らしい。
一〇〇式輸送機は、先の大戦直前に日本陸軍航空隊で制式化された高速の双発爆撃機を原型としていた。胴体は殆ど新規に設計されていたらしいが、搭載量よりも航続距離や速度を重視した原型機の性格までを完全に作り変えることは出来なかった。
結局は輸送機としては速度は高く、一方で搭載量は心もとないという性格になった一〇〇式輸送機だったが、開戦以後に急増した航空輸送の需要に対応すべく生産された機数は多く、二年前まではドイツ空軍に所属していたデム曹長も幾度となく戦地の空で目撃していた。
しかも戦時中に一〇〇式輸送機を使用したのは日本軍だけではなかった。詳しい所はデム曹長も知らないが、戦時中の航空機生産に関しては英国が戦闘機や重爆撃機といった前線で使用する機体の生産に集中する一方で、輸送機に関しては安全なアジアに拠点を置く日本軍に任されていたらしい。
使い勝手の良い双発の一〇〇式輸送機だけでは無く、戦時中の日本軍は4発の大型輸送機も一定の数を生産してその一部を英国に引き渡していた。
戦後社会において同時にいくつも立ち上がっていた小規模な民間航空会社が採算ベースに乗ったのは、平時体制に戻った各国軍の航空隊で余剰となった輸送機が民間に払い下げされるようになっていたからだ。
一部の富裕層以外にも客層を広げようとすると航空運賃の値下げを行うしかないが、機材取得が安価で行えればこそ機体の寿命が来る前に減価償却を終えるのに必要な資金を計算しても運賃を押し下げることが可能だったのだ。
特に日本軍ではより大型で先進的な構造の貨物輸送機に輸送機部隊の主力が移行していたから、余剰機材として払い下げられた人員輸送専門とも言える一〇〇式輸送機が多かったようだ。
ただし、二人が乗り込んでいた一〇〇式輸送機自体は日本軍から払い下げられた機体ではなさそうだった。機内の注意書きなどが英語だったから、おそらくは英国などに供与された後に売却されたものだったのだろう。
戦時中には製造後に日本軍に配備されることなく直接英国や自由フランスなどに供与されていた機体も多かったから、一〇〇式輸送機には整備や操縦の手引書なども正規の日本語のものの他に英語に訳されたものが予め用意されていたのだろう。
戦後になってドイツ人とフランス人の操縦士が英語のマニュアルを見て日本機の操縦を覚えるというのも奇妙な話だったが、辞書を引きながら日本語を一つ一つ確認していくのに比べれば遥かに容易だった。
だが、エアアジアで飛ばしている間に次第に機体に関する事情は変わってきていた。純正の部品が枯渇したとは思えないが、次第に日本本国仕様の部品が増えていたのだ。
しかも、しばらく前からこの一〇〇式輸送機には大規模な改造が施されていた。主翼部分が殆ど総取り換えされる程の大改装だったのだ。
改装前の機体は殆ど原型となった一〇〇式輸送機一型の英国仕様のままだった。英国仕様と言っても差異は計基盤や注意書きの表記が英語になっている位だったから、日本軍に配備されていたものとほとんど変わりなかった。
ところが改装工事後はエンジン取付架から外側の主翼一式が一〇〇式輸送機二型のそれに換装されていたのだ。
この時の改造工事自体は、操縦士達には機体を延命させるためのものと説明されていた。初期生産型の一〇〇式輸送機一型はいわばデットストックを引き取ってきたものと言えたから、長期間の運用を考慮すると生産が中止されたエンジンの換装部品などがいずれ不足するのは明らかだったからだ。
デム曹長達は詳しくは知らなかったが、九七式重爆撃機や一〇〇式輸送機の初期型が搭載する千馬力級のエンジンは既に生産が終了して久しいのに対して、後期型が装備する金星エンジンは消耗の激しい艦上戦闘機などに搭載されていた為に予備部品なども豊富に生産されていたらしい。
それに主翼の換装によって飛行特性はやや変化したものの、試験飛行の結果を判断すると動翼部にマスバランスを追加すれば殆ど以前と変わらずに操縦できるものだった。
ところが、その姿でしばらく運用されていた一〇〇式輸送機に対して最近になって更に改造工事が繰り返されていたのだが、その姿は異様なものであった。今度は主翼はそのままだったが、エンジンが原型機の3倍近い大出力のものに再度換装されていたからだ。
九七式重爆撃機の後期生産型における改修点を折り込んだ一〇〇式輸送機二型は、確かにエンジンがより大出力のものに換装されていたのだが、この機体はエンジン架を強引に強化して排気過給器付の一式重爆撃機用のものを強引に据えられていたのだ。
大出力エンジンといっても極端に直径が変わるわけではないから、改造後も遠目で見ればエンジンナセルが延長された程度で原型機と殆ど変わらないものだったのだが、それが逆に改造の異様さを際立たせていた。あるべきものがあるべき所にはない、そんな印象を与えていたのだ。
実際には、機体内部にも改造点は及んでいた。エンジンの大出力化に伴って同型機から流用されたらしい燃料槽が拡大されていたのだが、増設されたのはそれだけではなく低気圧環境の高高度飛行には欠かせない酸素瓶の搭載数も原型から比べると極端に増えていた。
改造内容からすると、どうやらこの機体は高高度長時間飛行を前提とした空路に投入するつもりのようだった。エンジンの大出力化によって増大した燃費以上に搭載燃料が増大していたし、排気過給器付きのエンジンは高高度飛行によって迎撃網を逃れようとした一式重爆撃機用に搭載されたものだったからだ。
先の大戦において開戦前に期待されていた高速爆撃機は、いずれも同じ技術で高速化した敵戦闘機に捕捉されて醜態を晒していた。日本軍も多発の爆撃機や偵察機において更なる高速化、防御火力の充実の他に過給器を強化して高高度性能で敵戦闘機に対抗しようとしていたらしい。
だが、これは輸送機本来の使い方からはかけ離れていた。輸送機に求められているのは何よりも輸送量である筈だった。あるべき時にあるべき物を輸送する為に存在するはずの輸送機では度を超えた高高度飛行能力や高速性能の代わりに搭載量を減少させるなど本末転倒ではないか。
勿論強行輸送が必要な局面も存在する筈だった。例えば大戦後半には撤退するドイツ軍は度々ソ連軍に包囲されたことがあったが、前線への空挺降下や包囲網への輸送であれば輸送量よりも確実な生還を期してこのような効率の悪い輸送機を使用する可能性もあるのではないか。
デム曹長はそこまで考えてふと頭を振っていた。酸素瓶からは連続して酸素が供給されているはずだが、本来こんな高高度を飛行することが想定されていない為に与圧などされていない一〇〇式輸送機の機内は薄ら寒く、電熱服を着込んでいていても手足の先には痺れたような感覚が消えなかった。
いつの間にか奇妙な考えに取り憑かれてしまっていたのかもしれなかった。言い換えればこの会社は利潤を追求すべき民間航空であるにも関わらず、経済性など二の次となる軍事作戦を前提とした機材を揃えているということになると考えていたのだ。
しかし、デム曹長は自分の判断を裏付けるようなこの会社に入社してからの胡散臭い仕事ばかりを思い出していた。
大戦終結と共に放り出されるまでのデム曹長は、ドイツ空軍に勤務する戦闘機搭乗員だった。会社所属の搭乗員の中でもデム曹長は古手の方だった。大戦前からの戦闘機搭乗員だったからだ。
この会社の搭乗員は元の所属こそ違えど大半が元軍人だった。自社で新規に搭乗員を育成するよりも軍縮で軍を追われたものを雇用したほうが遥かに安上がりだったからだろう。
そのせいで何となく旧階級で呼び合う慣習が出来上がっていたのだが、階級は低くともデム曹長ほど飛行時間の長いものはほとんどいなかった。
敗戦後もドイツ空軍は陸軍と共に一定の戦力を維持していた。欧州正面で強大なソ連と対峙する国際連盟軍の中で文字通り一翼を担う戦力として期待されていたのだろう。
ただし、講和条約によって試験用に提出したものを除けば戦車や火砲などの重装備を殆どそのまま保持を許された陸軍に対して、空海軍は徹底した制限を受けていた。
バルト海に面する国土の北東部を失ったドイツ海軍に残されていたのは、北海に面する僅かな距離の海岸線だけだった。それに大戦中に暴れまわっていた潜水艦隊も残存艦を全て賠償艦として引き渡して解散していたから、その実態は沿岸警備隊に過ぎなくなっていた。
開戦前に英国にあれほどの脅威を与えていた大海軍からすると現在のドイツ海軍は残骸に過ぎなかった。むしろドイツ政府としては、英国に間借りしている形になっている戦艦テルピッツなどは財政上からも切り捨てたいのではないか。
他には戦前に豪華客船として就役していたシャルンホルストが日本海軍に鹵獲されて改装空母とされていたものが返還されていたが、ドイツ海軍はこれを旗艦として護衛艦艇を率いる対潜部隊を編成していた。
この2万トン級改造空母を中核とした艦隊こそが現在のドイツ海軍の主力といっても過言では無かったのだ。
海軍に比べれば空軍はまだましだったかもしれない。戦闘機隊に関してはほぼ現状を維持しているどころか、陸軍同様に旧式化して整備困難となった自国製の代わりに英日製の機体まで購入されていたからだ。
その一方で戦闘機隊以外の整備は後回しにされていた。輸送機は僅かな数の一〇〇式輸送機が導入された程度で、実質的には雑多な軽飛行機を連絡機として保持しているだけだった。
どのみち泥沼の撤退戦が続いていた東部戦線で輸送機部隊はすり潰されて消滅していたも同様だったのだ。
攻撃機に関しても開戦時に活躍した急降下爆撃機隊の規模が縮小される代わりに、戦闘機隊と機材を共有する戦闘爆撃機装備の地上攻撃隊に大戦中から再編成されていた。
圧倒的なソ連軍、国際連盟軍の制空権下で生き残る為には、戦闘爆撃機の機動性が必要不可欠だったのが理由だったが、今でも戦闘機隊と攻撃機隊の間には機材の差異はほとんど存在していなかった。
要するに、新生ドイツ軍はソ連軍の侵攻に対する盾として期待されていたといってよかった。対地打撃力はあくまでも前進する敵地上部隊に対する阻止攻撃が想定されており、何よりもドイツ領内で制空権を維持する為に戦闘機隊が優先して整備されていたのだ。
そんな整備方針の中で一番割を食らったのが爆撃機隊だった。
一〇〇式輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。
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九七式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
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零式艦上戦闘機(33型)の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。
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ビスマルク級戦艦テルピッツの設定は下記アドレスで公開中です。
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シャルンホルスト級空母の設定は下記アドレスで公開中です。
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